(日本人)―かっこにっぽんじん

  • 幻冬舎 (2012年5月9日発売)
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本 ・本 (384ページ) / ISBN・EAN: 9784344021761

感想・レビュー・書評

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  •  日本の空気読みや気配りは、農耕文化や東アジア儒教圏の特徴でむしろ、状況によってはアメリカ人などでも日本人より強くその傾向がある場合があるとの事例を客観的なデータにより合理的に説明している。橘玲さんらしく世間の常識から外れた事例を科学的な論点から考察しており、内容に強い説得力を持たせるが、読み進めるにしたがってやや考察が専門的、マニアックになり過ぎ、理解というか興味が追い付いていかなくなる印象を受けた。

  • 政治経済に疎く、歴史にも興味がなかった自分にも分かりやすく、一気に読むことができた。日本人は最も世俗的である、薄々勘付いていたが、改めて納得できる。世界の中の日本を知るのにとても役立った。もっと視野が広くなり知識が深まってから読み直そうと思う。

  • 2014年正月読書用として読了。
    著者の作品は経済や金融を題材としたものが多いが、3.11以降に多くの日本人論が世界中で紹介・議論されてきた中で、これまでにない新しい視点で日本人論を著したということで購入。

    本作は、従来語られ、述べられてきた日本人論から距離を置き(カッコに入れ)、全く新しい切り口で持論を展開する。
    冒頭で「世界価値観調査」によるアンケート結果を基に、日本人は「戦争が起こってもわが国のために戦わず、日本人として誇りを感じず、権威や権力を嫌う」人種だという客観的データを出発点に、政治哲学的枠組みをベースにしながら、経済学的視点、経営学的視点、日本史的視点、世界史的視点、進化心理学的視点、文化人類学的視点、比較文化学的視点等の複数の学問的切り口により、「日本人は欧米人と比較して世俗的で個性的で個人主義的」であると結論づける。
    これは「イングルハートの価値マップ」により、多くの諸外国と共に2次元論的に可視化されていることが非常に興味深い。

    特に、日本人の精神的支柱とされ、世界中の国々に読まれたベストセラーである「武士道」に関しては、敬虔なクリスチャンであった新渡戸稲造が、日本固有の「武士」をキャラクターにしながら欧米でも理解されやすい「騎士道」と対比させることで、日本にもキリスト教を受け入れるだけの文化があることを証明するために書かれたものであるとする。
    また、「武士道」と並び日本人論の原典のひとつで世界中で読まれた「菊と刀」に関しても、太平洋戦争末期の米軍が戦後の日本統治のために、著者であるルース・ベネディクトに日本人の特殊性"のみ"を研究させた結果を編纂したものであるとも述べている。
    すなわち、これらの古典的日本人論は当時の正しい日本人像を述べたものではなく、欧米人との差異を強調し、オリエンタリズムで加工・創作された"輸入品"であると解いている点は、これまでの日本人論に対する真っ向からのアンチテーゼであり斬新である。

    多くのレビューでも書かれているように、本作は様々な学問的切り口から日本人論について展開されているため、ざっと読んだだけでは内容が散文的に感じ取られてしまうかもしれない。
    しかしながら、章立てが「LOCAL」→「GLOBAL」→「UTOPIA」と進んでいるように、まずはこれまで日本人が感じてきた(刷り込まれてきた)日本人論ではなく、客観的視点で日本人を捉えた上で、グローバリズムやグローバルスタンダードの本質に触れ、理想とする社会はどのようなものか、そしてそこに向かって日本人はどのように進んでいくべきかを論じていることを踏まえれば、さほど苦も無く読み進めていけるであろう。
    また、本旨やポイントを見失ってしまわないようにという配慮からか、自己啓発本によくあるように論点をまとめてあるページがいくつか割かれているところは、著者の考えの理解を助けるとともに、読み返したときにポイントを素早く把握できる点でも好感が持てる。

    前述のように、本作は日本人論という比較文化的テーマに対して種々の学問領域のエッセンスを用いての解説となっているため、各学問や日本人論の専門家にとっては異論がある部分もあるかと思われる。
    しかしながら、とかくあるテーマに対し単一的アプローチで深掘りして解説・解決していく類のものが氾濫している現在、著者のように単一解のない複雑な問題に関し、学際的アプローチにより専門家でない一般人に対しても解決策や方向性を分かりやすく示していく姿勢は貴重であり、このような方法論で問題解決に臨む人材はこれからの社会では更に必要とされるであろう。
    特に、巷間言われるような「止めることのできない社会のグローバル化」でいかに生きていくかを考える上でも、本書は一読に値すると考える。

  • 黄金の羽根の拾い方から一貫した橘玲のテーマ、人的資本をポートフォリオに組み入れたライフプランについてが半分、残り半分は題名の通り日本人論。よく言われる農耕民族、武士道、村社会、島国根性で語られる日本人感をひっくり返された、ここは目新しい。珍しく、終わり方に少し夢がある。

  • (日本人)というタイトルになっているが、日本人論に限定せず、古今東西新旧の人間にアプローチしながら、日本人的な集団の思考回路と社会での出来事をリンクさせていき、日本人を語っていくというイメージか。著者自身が海外投資の人というイメージが元々あるが、(そうでないことは重々承知ですが)幅広い知識には感銘を受ける。もうダメかな、日本。

    内容はとにかく興味深く、おそらくタイミングを空けてまた読むと、それまでに自分が人生で経験したことから、違うものが見えてくる気がする。

    P.27(タイの歴史学者ニティ・イーオシーウォン)
    タイの政治において、指導者のもっとも重要な素質は「妥協」だからだ。
    起床の激しい人、一本気な人、規律正しい人などは、タイの官界ではエリート層に昇進するのが難しい。こうした性格はその人にとっては美徳であっても、妥協の雰囲気を生み出すのは難しい。
    タイの文化のなかで指導者のレベルに伸びる人物は「優柔不断な」人である。つまり、他人との関係に気を配り、それを大切にして、簡単にはくずさない人である。そうすれば誰とも対立せずに容易に妥協が成立するからだ。あらゆる派閥とうまくやる能力は、何も決断しないようである。これこそがタイ式指導者としての大切な資質である。
    タイ社会には誰も責任をとる人物がいない、とイーオシーウォン教授は慨嘆する。「あることを決断して実行するかしないかは、実態のない『制度』がすること」なのだ。

    P.50
    政治空間はベタな人間関係の世界で、貨幣空間はひととひとがお金でつながるフラットな世界だった。だから貨幣空間が政治空間を侵食すると、家族や学校などの共同体が崩壊して、愛情や友情が失われてしまう。これが、私たちが「お金は汚い」と直感的に嫌う理由だ。(中略)一方で、市場経済ではお金がないと生きていいけない。そして、「お金で買えるもの」はどんどん増えている。(中略)
    貨幣空間が拡張するのは、私たちがそれを望むからだ。ほとんどのサービスが貨幣で購入できる社会では、親戚づきあいは不要になり、友達との関係もドライになっていく。ようするに、ベタな人間関係は面倒臭いのだ。
    だがそれと同時に私たちはこのような”無縁社会”に根源的な不安を感じてもいる。ヒトは長い進化の歴史を通じて、ずっと集団(共同体)のなかで生きてきた。群れからの追放は、ただちに死を意味した。ヒトは一人で生きていけるようにはできていないのだ。
    貨幣空間が世界を侵食していくと、最後には家族や恋人との最小(ミニマル)の愛情空間しか残らなくなる。その共同体さえ失って仕舞えば、一人ひとりが茫漠たる貨幣空間に裸のまま晒されるわけだ。

    P.58(「日本人論」は輸入品だった)
    アメリカの文化人類学社ルース・ベネディクトは、太平洋戦争の末期に、米軍の戦時情報局海外情報部から、日本占領に備えて日本社会と日本人を分析するように依頼された。それまで日本についてほとんどなにも知らなかった彼女は、日系アメリカ人へのインタビューや日本映画、日本家系の出版物などを利用して研究を行った。戦後にその成果をまとめたものが、日本論の古典となった『菊と刀』だ(ベネディクトは本の刊行から二年後に病死しているので、いちども日本には来ていない)。(中略)ベネディクトの仕事には、その前提(米軍からの依頼の条件)からして、決定的な制約があった。それは彼女が、日本人とアメリカ人の似ているところではなく、ちがうところを探さなければならなかったことだ。日本占領が間近に迫った米軍幹部にとって、文化や生活習慣の異なる民族をいかに統治するうかが喫緊の課題だった。日本人とアメリカ人の「共通性」は、たとえあったとしても情報として無価値だったのだ。

    P.68
    長い進化の過程で、因果論を神経系に組み込んだ生物が、このプログラムを持たない生物よりも子孫を残すのに有利だったからだと考えられている。生き残るためには、「物音がする」→「敵が近づいてくる」という因果律によって素早く身を隠さなくてはならないのだ。
    私たちがつねにものごとを因果論で考えるのは、それが正しいからではなく、脳が世界を因果論的に解釈するようにできているからだ。ヒトは、原因と結果が結びつかないと「わかった!」とは思えない(腑に落ちない)。そしてこれは、人間だけではなく、生物そのものの基本原理なのだ。
    だがここに、ひとつの重大な問題がある。
    脳にプレインストールされた基本プログラム(OS)が因果律だとしても、世界が因果律でできているとはかぎらないのだ。
    因果論というのは、善業を積めばよいことが起こり、罪を犯せば報いを受けると言う考え方だ。これはきわめてわかりやすいけれど、現実には、真面目に生きていても不幸なひとはたくさんいるし、極悪人が酒池肉林の生活を謳歌することも珍しくない。そこで仏教は、輪廻によって「因果応報」が貫徹されるというアクロバティックな理屈を生み出した。現世の悪人は来世では虫けらになり、現世で清く貧しく生きたひとは来世では極楽浄土が約束されている。

    P.72
    男と女では、生殖機能のちがいによって愛情のかたちが異なっている。
    男の場合は、精子の放出にほとんどコストがかからないから、より多くの子孫を残そうと思えばできるだけ多くの女性とセックスすればいい。すなわち、乱交が進化の最適戦略だ。
    それに対して女性は、受精から出産までに一〇ヵ月以上もかかり、無事に子どもが生まれたとしてもさらに一年程度の授乳が必要になる。これはきわめて大きなコストなので、セックスの相手を慎重に選び、子育ての期間も含めて長期的な関係をつくるのが進化の最適戦略になる。(中略)これまで人類は、文学や音楽、映画などで男と女の「愛の不毛」を繰り返し描いてきた。しかし進化心理学は、あなたが恋人と分かり合えない理由をたった1行で説明してしまう。すなわち、「異なる生殖戦略を持つ男女は”利害関係”が一致しない」のだ。(中略)同性愛社は愛情(欲望)の対象が異性愛者とは異なっていて、男性同士あるいや女性同士でパートナーをつくる。そこで恋人同士のあいだに生殖戦略のちがいが存在しないから、お互いの利害が一致した”純愛”が可能になるはずだ。(中略)
    ゲイはバーなどのハッテン場でパートナーを探し、サウナでの乱行を好む。(中略)彼らは特定の相手と長期の関係を維持せず、子どもを育てることにもほとんど関心を持たない。
    それにたいしてレズビアンのカップルはパートナーとの関係を大切にし、養子や人工授精で子どもを得て家庭を営むことも多い。(中略)進化心理学だけが、この問いに明快なこたえを与えることができる。

    P.91(ロバーズ・ケイヴ実験)
    ヒトは社会的な動物で、集団がなくなってしまえば生きていけないのだから、アイデンティティというのは集団(共同体)への帰属意識のことだ。「私」と「奴ら」に対する「俺たち」のことで、「敵」を生み出すのはヒトがヒトであるための定義ともいえる。
    私たちが遠い祖先から受け継いだプログラムは、世界を内側(俺たち)と外側(奴ら)にわけ、仲間同士の結束を強め、奴らを殺して貴重な資源(女)を奪うためのものなのだ。

    P.91
    進化心理学では、「神はなぜいるのか」という深遠な問いを脳の配線で説明する。(中略)「こころ」とはなんだろう。進化心理学では、こころを「シミュレーション装置」だと考える。社会的な動物にとって死活的に重要なのは、集団のなかでの自分の場所を確保することだ。
    そのため集団内の権力構造(誰がボスで誰が自分より格下なのか)や、相手の気分(怒っているのか、喜んでいるのか)や、行為に対する反応(エサを横取りしたらどうなるのか)を正確に知っている必要がある。
    相手の行動を予想するもっとも有効な方法は、相手の立場になってみることだ(もし俺があいつで、エサを横取りされたらどうするだろうか)。これは集団のなかで生き残るのに極めて有利な能力だから、「こころ」というシミュレーション装置を持つ個体はより多くの子孫を残し、世代が進むにつれてその性格は高度化・精緻化
    していったはずだ。(中略)
    いったんこのシミュレーション装置が働き始めると、「相手の立場になってみる」対象は人間だけにかぎらなくなる。ヒトが好んで家畜を飼い始めたのは、ごく自然に家畜(犬や馬)を擬人化し、「友情」や「愛情」を感じたからだ。
    こうした擬人化の対象は、原理的にはなんの制限もないのだから、たちまちのうちに、太陽や月、海や山などの「こころ」もシミュレーションするようになる(「山の神が怒っている」とか)。
    こうした自然の擬人化がアニミズム(精霊信仰)で、どんな社会にも見られるものだ。

    P.104
    農耕社会の行動原理は狩猟採集社会と根本的に異なるものではない。どのような社会でも、私たちは「人間の本性」に制約された文化やルールに従うことしかできない。
    それでも、このふたつの社会にはいくつかの明確なちがいがある。
    もっともはっきりしているのは、農耕とともに「土地への執着』が生じたことだ。(中略)農耕民は、農地から収穫以外に生きる術はないのだから、土地を奪われて仕舞えば家族もろもと死ぬしかない。
    こうして、土地は「なわばり」として意識されることになった。なわばりを守ることは生物にとってもっとも原初的な生き残り戦略だから、この感情はとてつもなく強力だ。(中略)日本人の心性が「島国根性」だと批判されるが、囲いをつくって敵から土地を守ることは農耕社会の基本原理で、「開放的な農村」などというものは原理的にありえない。(中略)もうひとつの特徴が、「退出不可能性」だ。
    あなたは生まれたときから私の隣人で、私が死ぬまでずっと隣人でありつづけ、私の子孫とあなたの子孫は未来永劫、隣人同士だーー農村というのは、ようするにこういう社会だ。
    それに対して狩猟採集社会や遊牧社会では、共同体のルールが気に入らなければ家族(と家畜)をつれて出て行くという選択肢が残されている。(中略)
    政治的な決断というのは、共同体のなかで利害の対立が生じたときに、一方の要求を認め、もう一方の要求を拒絶づることだ。(中略)不利な判定を下された側は、相手が優遇されることを恨みに思い、いつか復讐しようと考えるだろう。(中略)それを避けようと思えば、すべての政治判断は誰も損をしないようなものになるか、あるいは、今回は一方が損をしても次回は損が取り返せるようなものになるほかはない。

    P.107
    農耕社会の行動文法(エートス)の上に成り立つ農耕文明には、いくつかの共通の特徴がある。
    ひとつは「身分」の固定だ。
    退出可能性のない閉鎖社会で多数のひとびとが共生しようとするならば、各自の社会的な役割をあらかじめ固定しておくのがもっとも合理的だ。このようにして身分制が成立し、「分」を守って生きるという道徳が生まれた。(中略)ひとたび身分が固定されると、個人の社会的な位置(座標)は、上位・下位の「タテの関係」と、同じ身分同士の「ヨコの関係」で定まることになる。(中略)身分制社会は、その制度を維持するためにさまざまな(ムラの)掟やタブーを持っている。こうしたタブーを破ると、共同体から追放されるか、村八分として(葬式と火事を除く)社会的な関係から切り離された。こうした「ムラ社会性」は日本の前近代性の象徴としてしばしば批判されるが、日本にかぎらず、あらゆる農耕社会は「ムラ社会」以外の何者でもない。
    さらに、農耕社会には「進歩」という概念がない。
    農耕というのは、春に種を播いて秋に収穫するという同じ営みの繰り返しだ。基金や農作があるとしてもそれは”天意”によるもので、今年と同じことが来年も起こり、それが再来年も、その翌年も、未来営業つづいていくーーこの世界観が前提となって社会がつくられる。(中略)洋の東西を問わず、すべての農耕社会は似ているのだ。

    P.113
    日本人は、曖昧な状況に置かれると、無意識のうちにリスク回避的な選択を行う。だが状況が明確であれば(自由になんでもやっていいのだとわかれば)、アメリカ人と同様に自己主張をする。
    アメリカ人は逆に、曖昧な状況では自己主張をすることがもっとも有利な選択だと考える。だが過度な自己主張が顰蹙を買うような場面dえは、ちゃんとその場の空気を読んで自分を抑える(遠慮する)。
    それではなぜ、日本人とアメリカ人でデフォルト戦略が対照的なのか。それはひとびとが生きている社会すなわち環境が異なるからだ。
    アメリカ社会では、自己主張しない人間は存在しないのと同じだと見なされる。このような環境では、迷ったら自己主張をする、というのが生存のための最適戦略になる。それに対して日本では、下手に目立つとロクなことがない、と考えられている。このような社会では、迷ったら他人と同じことをしておく、というのが最適戦略になるだろう。

    P.143(仏教哲学者:中村元)
    日本の仏教は、インド仏教(オリジナル)を徹底的に世俗化したものだと中村はいう。
    インドの思想は、その厳しい自然を背景として、この世を穢土(けがれた土地)とし、来世を極楽浄土と見なして、極楽浄土で修行することで仏へと至るというものだった。
    ところが風光明媚な自然を愛でる日本人には、この世界を穢土とする思想はまったく理解不能だった。そこで日本の仏教者は、仏へと至るステップをひとつ飛ばし、現世をいわば極楽浄土に格上げすることで、死ねばすぐに(修行抜きで)仏になれるようにしたばかりか、生身の肉体のままで究極の悟りを得る「即身成仏」の思想まで”創造”した。これは、当時の日本人が御利益のある神にしか関心を持たず、苦労せずに成果の出るインスタントな宗教を求めたためだった。

    P.147
    日本社会では「血縁」」や「地縁」が重視されるというが、これはアジア的な農耕社会ではどこでも見られるものだ。逆に日本人の特殊性は、アジア的農耕社会でありながら血縁や地縁のしばりが弱いことにある。
    近代化を阻む最大の障害はネポティズム(縁故主義)と贈収賄だ。アジアやアフリカ、ラテンアメリカばかりではなく、スペインやイタリアなどの南ヨーロッパでも、政治や行政が地縁や血縁に搦めとられ、賄賂によって影響力を行使するのが当然とされている。だが日本では、明治時代においても権力の腐敗は、皆無とはいえないまでも他国と比較すればきわめて軽微だった。
    血縁の絆が強い社会では、誰か一人が出世をすると一族郎党が利権を求めて集まってくる。だが日本社会は血縁よりもイエ(会社や役所)を優先するのが当然とされていたから、露骨な縁故主義はどこでも嫌われた(コネを使って採用されても、入社後はいちだん低く扱われた)。血縁に対するのこの冷淡さが組織の統制を強め、明治期に近代的で合理的な官僚システム(らしきもの)をたちまちのうちにつくりあげた原動力となった。
    日本の公務員が賄賂を要求しないのは日本人が潔癖だからといわれるが、これも世俗性から説明可能だ。
    血族や結社などの社会保障がないかぎり日本社会では、イエとしての会社・役所から排除されると生きていくことができなくなる。

    P.156
    一九五〇年代のアメリカでは専業主婦が当然とされていたが、いまでは夫婦共働きを前提とする社会にすっかり変わってしまった。一人で稼ぐより二人で働いたほうがゆだかになれるのだから、経済合理性で考えればこれは自然な変化だ。それに対して日本では、保育施設などの環境をいくら改善しても、こどものいる女性たちはなかなか「会社員」になろうとしない。
    これはおそらく、ひとはふたつの共同体に同時に所属することができないからだろう。彼女たちはすでに、ママ友コミュニティという”イエ”の一員になっている。フルタイムで働くということは、その”イエ”を捨てて会社という別の”イエ”に移ることだ。
    しかしそれは多くの母親にとって、これはあまり魅力的な選択ではない。会社という”イエ”は、子どもを排除してしまうからだ。だったらすこしくらい家計が苦しくても、子どもといっしょにいられるコミュニティのほうが快適だと思うのは当然だ。

    P.168
    私たちが現在のゆたかさを手に入れたのは、高度な分業システムを構築したからだ。自給自足の伝統的な社会で暮らすひとたちと、欧米や日本のような先進国を生きる現代人は、ヒトとしての能力にほとんどちがいがないにもかかわらず、生活のゆたかさに天文学的な差が生じている。これは、現代人が自分一人ではなにひとつできないところまで分業を推し進めたからだ。(中略)高度な文明社会では、ひとびとは”無力”になることでゆたかになっていく。狩猟採集の民が現代人と遭遇したら、彼らは私たちがなにひとつできない(火を起こす方法すら知らない)ことを笑うだろう。(中略)私たちがなにもできないのは、生活の大半を他のひとたちに依存しているからだ。そしてそのことによって文明は大きく進歩した。といっても、人類の祖先はべつに難しいことをしたわけではない。苦手なことは他人に任せ、自分は得意なことだけに集中して、足りないものは交換したのだ。

    P.175
    自由貿易がユートピアへの道ならば、それを否定する”鎖国”論はすべて間違っているーー論理的にはこうなるはずだが、じつやここにひとつやっかいな問題がある。いまの「自由貿易」は、ユートピア思想としての自由貿易とはにて日なるものだからだ。(中略)本来の自由貿易は、単一の世界政府が樹立され、国家が地方自治体となって、お金やモノだけでなく、国境を超えてひとも自由に移動できる世界ではじめて可能にあんる。この「効率的な市場」では、アジアや中南米、東欧やアフリカの貧しいひとたちは仕事を求めてゆたかな国々へ移動するから、絶対的な貧困や飢餓が特定の地域に集中するうことはない。
    なぜこのようなグローバル市場が成立しないかというと、いうまでもなく、(日本を含む)ゆたかな国が門戸を閉ざして移民を厳しく制限しているからだ。(中略)理由は、治安維持とか国内労働市場の安定とかいろいろな名目があげられているけれども、もっとも恐れているのは福祉社会が破壊されてしまうことだ。(中略)当然、既得権を持つ国民はネオナチのような極右政党を結成して移民排斥を政府に要求するようになる。(中略)このようにしてゆたかな国は、貧しい国のひとたちをまずしいままに監禁することを望むようになる。
    貧しい国に独裁国家が多いのは、ゆたかな国々の政府や国民が、貧しいひとたちが国境を超えて流入してこないよう、人の流れを強引に堰き止める強圧的な権力を必要としているからだ。こうした国々への経済援助の大半は賄賂として権力者の懐に納まるが、これを刑務所の看守への報酬と考えれば、先進国の資金はもともと「囚人」に分配されるはずなどがなかった。

    P.187
    古代の神は祖先の霊魂がアニミズムと一体化したもので、それぞれの民族ごとに固有の神と神話を持っていた(神と神話を共有する集団が民族だった)。異なる神を奉じる民族はあい争い、神々はけっして交わることがなかった。
    だがこのような”神々の闘争”では、ユダヤ人のようなマイノリティー(少数民族)の神は、エジプトやバビロニア、ペルシアなど大国の神に対抗することができない。そこでユダヤ人が考えたのが(ユダヤ人民族の前に現れたのが)、すべてのローカルな神を超越する絶対神だ。(中略)ユダヤ教の神は、絶対神でありながらユダヤ民族のためだけの神でもある。それはユダヤ民族のみが神と契約を交わしたからなのだが、これでは実態としてローカルな神のままだ、
    この矛盾を解決し、神の権威に合わせて教義を書き換えたのがイエス・キリストだった。このイノベーションによって、「(民族を超えた)万人のための神」というグローバル宗教がはじめて誕生した。
    キリスト教は、数々の弾圧に耐えてやがてローマ帝国の国教となる。だがこれは、ローマが多民族国家であったことを考えれば、歴史の必然だった。

    P.190
    近代物理学の祖アイザック・ニュートンが敬虔なキリスト教徒で、錬金術を熱心に研究していたことはよく知られている。彼にとって古典力学の諸法則は、キリストの教えに矛盾するものではなく、神の偉大さを示すものだった。ニュートンにとって(そして多くの啓蒙思想家にとっても)神とは至高の理性であり、だからこそ世界は(力学法則のような)シンプルでうつくしい論理によって組み立てられていて、その法則を発見することは神の御こころに近づくことだったのだ。

    P.204
    伝統的な正義は”俺たち”の正義だから、本質的にローカルなものだ。他者が他者と出会うグローバル空間で誰もが伝統的な正義を主張すれば、殺し合いになるほかない。近代というグローバル席あの成立には、新しい正義の概念が必要だった。
    近代的な正義の特徴は、「原理主義」にある。正義は状況に依存せず、いついかなる場合でも、誰が相手であっても、普遍でなければならない。こうした正義の普遍性は、利害の異なる多種多様なひとびとが自発的に従うルールを定めるうえで不可欠のものだった。
    原理主義的な正義は、契約(法)の絶対性を要求する。いちど相手と契約すれば、王様が替わったり政権が転覆したからといって、内容が変更されたり約束が反故になったりすることはない。
    こうして近代的な正義は、”俺たち”ではなく”私”の正義になる。個人と個人が平等な立場で契約を結ぶのなら、もはや世界を”俺たち”と”奴ら”に分割することは意味がなくなり、社会は自由な”私”の集合体となる。
    もちろんこれはフィクションで、この世の絶対の正義などあるはずもない。だがそれでも、「自由」や「平等」といった”つくり話”をでっちあげなければ、近代社会の秩序は形成できなかったのだ。

    P.242
    古代の呪術世界では、王は民衆の支配者であるということよりも、神と交感する霊媒と見なされていた。その役割は豊作をもたらす神の恩寵を得ることで、日照りがつづくとひとびとは王を殺し、神の生贄にしてしまった。旱魃や洪水、地震などの天変地異は、神を怒らせたおうの「責任」とされたのだ。
    こうした”呪術的責任”は、範囲のない定めのない”無限責任”でもある。(中略)日本では、いったん「責任」を負わされ、スケープゴートにされたときの損害があまりにも大きいので、誰もが責任を逃れようとする。その結果、権限と責任が分離し、外部からはどこに権力の中心があるのかわからなくなる。

    P.243
    戦国時代の農村は旱魃や飢饉が頻発し、農業だけでは村の人口を養うことができず、蓄えのつきる冬から春にかかては大量の餓死者がでた。このような極限状況のなかで、戦国初期の村はむきだしの暴力の世界だった。
    戦国時代の重要な合戦は、その多くが冬や農閑期に行われた。これは大名や領主が、放っておけば餓死してしまう農民を雑兵として連れていき、なんとか生き延びられるようにしたからだ。
    とはいえ、戦国大名は合戦に参加した百姓に給金を払ったわけではない。彼らは武士や侍たちのためにただ働きをするかわりに、戦場となった村での濫妨狼藉が許されていた。戦国時代の戦争は一種の公共事業で、大名たちは添加を統一するためではなく、村人たちに”職”を与えるために隣国に攻め込んだのだ。(中略)
    こうした暴力性は村の内部にも浸透していて、一部の長老たちが結託し、ささいな瑕疵を理由に村人の田畑や資産を取り上げ、家族もろとも追放するか、場合によっては皆殺しにすることともあった。農耕社会は土地を中心に退出不可能な世界だから、ものごとは全員一致でしか決まらない。だとしたら、相手が合意しないときは物理的に消滅させてしいまうほかはない。
    このように中世初期の村は、過酷な暴力の掟で運営されていた。
    だが中期になると、そこに自主的な秩序が生まれてくる。それが「連帯責任」だ。
    その当時、村にとってのいちばんの難題は、出奔や逃散といって、借金を抱えた村人が耕作を放棄して村を出ていってしまうことだった。(中略)村の人数が減っても領主は年貢を減免するわけにはいかず、かといって村が貧しくなればますます逃散が増えるから、これは領主にとっても、村人にとってもきわめて深刻な問題だった。(中略)こうして、イエを単位とした土地の管理と、「五人組」などの連帯責任制度が始まった。
    中世のムラ社会では、土地は原則として分割も売却もできず、イエとともに長子がそのまま相続することになっていた。逃散などで放棄された場合でも、残った村人たちで分け合うのではなく、共有地として全員で耕作し、跡継ぎが成人するか、当人(正当な所有権者)が戻ってきたら返却されるのが慣わしだった。
    このように土地の所有権を確定したうえで、隣家同士が助け合い、監視試し合いながら村の秩序を維持していく制度が自然と生まれた。(中略)
    歴史の教科書では、五人組は権力者が農村管理のために押し付けた制度とされてきたが、近年の中世史研究では、もともと村にあった制度を領主がつい人したものだという見方に変わってきている。

    P.249
    法によって支配された社会では、どこまでが適法で、どこからが違法なのかが、社会のすべての成員にあらかじめ開示されていて、違法行為に対する責任も、逐一その上限が決められている。これによってひとびとは、安心して生活し、商売することができる。(中略)社会がゆたかになるにつれて、「無限責任(=無責任)」から「連帯責任」、そして「自己責任」へと責任のとり方は”進歩”していく。だが日本では契約の絶対性はまったく理解されず、法は融通無碍な便宜的なもの(努力目標)のままだった。

    P.254
    明治日本は、伊藤博文山縣有朋など幕末の志士たちによってつくられたベンチャー国家で、統治は彼ら”創業者”によって行われていた。だが国家も会社も、創業者が退場すれば組織は形骸化していく。このようにガバナンスは名ばかりのものとなり、統治構造はいつのまにか空洞化していった。
    戦後日本は、占領軍から統治構造の組み直しを強制されたが、日本人は権限と責任が一対一で対応する近代的なガバナンスを理解することができず、形式だけを整えると、その内部に自分たちがよく知るムラ社会をつくっていった。
    統治のない社会には「責任」もない。戦争にせよ、原発事故にせよ、日本ではむかしもいまも、責任を追及しても”空虚な中心”を待ち構えているだけなのだ。

    P.269
    合意形成の積み上げによって意思決定する組織は、経済が拡大するなかでの分配には長けているが、全体のパイが縮小するとたちまち足の引っ張り合いを起こしてしまう。(中略)こんなことは、これまで繰り返し指摘されてきた。しかし、日本ではもっとも知的なひとたちの集まりであるはずの官僚組織は、何十年たってもこの欠陥を自ら修正することができない。
    いつまでたっても変わらないのは、変わらないことに合理的な理由があるからだ。(中略)公務員制度改革の理念では、官僚を企画(総合職)と実地(一般職)、および技官(専門職)に分け、政策の立案に携わる企画官僚は内閣に新設される人事局でプールし、省庁を横断して最適な人材を派遣していくことになっていた。(中略)だがこの理想世界には、決定的に重要な前提条件がある。(中略)つねに最適なポストがあるとはかぎらない。幹部の人数はかぎられているのだから、人材プールで待機中は民間企業で働くことになる。アメリカで行われている、官と民の「リボルビングドア」だ。ところが年功序列と終身雇用の日本的雇用制度では、たとえ現役官僚であったとしても、企業は中途採用をしたがらない。(中略)官僚機構をアメリカ型につくり変えるには、その土台である日本的雇用制度を解体しなければならなかった。

    P.289
    これは、日本の社会がこのままなにも変わらない、ということではない。好むと好まざるとにかかわらず、グローバルな競争に巻き込まれ、外国という<他者>と接触する場面はこれからますますふぇていくだろう。(中略)ローカルルールの耐用年数が切れたことで、企業や行政の行動も変わり始めた。(中略)だたこれは、日本社会がグローバル化しているということではない。グローバルスタンダードに対応した社会の仕組みをつくることができないまま、周縁部から局所的にグローバル化が侵食しているだけだ。これがローカルルールでしか動かない中心部を不安定化させ、「得たいの知れない不気味なものによって大切なもの(伝統や共同体)が奪われていく」という怒りを呼び覚ます。(中略)だがこれは、日本だけの運命というわけではない。

    P.302
    英語がグローバル言語であることによって米国企業は国際化に成功したが、それと同時にアメリカでは、製造業ばかりでなくサービス業の職までもがインドなど英語を母語とする新興国に流出していった(外への国際化)。その一方で、メキシコとの長い国教のため中南米諸国からの不法移民の流入は止まらず、彼らが飲食業や建設業など低収入の職場を”独占”するようになった(うちなる国際化)この”ふたつの国際化”によって、これまで世界一ゆたかだった白人中流層が没落し始めたのだ。

    P.308
    経済学者で人気ブロガーでもあるタイラー・コーエンは、人類は過去三〇〇年以上、”容易に収穫できる果実”を食べてきたが、経済の繁栄をもたらす果実のほとんどを私たちは食べ尽くしてしまったとして、これを「大停滞」と名づけた。
    アメリカの経済成長を支えてきた”容易に収穫できる果実”とは、無償の土地、イノベーション(技術革新)、未教育の賢い子どもたちだ。

  • 人に薦めてもらった本。
    書店の検索システムに全然引っかからなくて苦労しましたが、『かっこにっぽんじん』と読むんですね。

    「日本人は礼儀正しい」「日本人は意思決定ができない」「日本人はマナーがいい」…。
    私たちの周りにはたくさんの日本人に関するイメージが溢れている。
    しかし、それは本当に日本人の特徴と言えるのだろうか。
    日本人は特別、という視点から離れて、もう一度客観的な評価に立ち返り、再定義してみよう。
    日本人を( )に入れて、国家や国民などの規制の枠組みから開放されたとき、この世の中で起こっている様々な問題点と正面切って向き合い、解決の糸口を分析し、未来に向けて歩けるようになるはずだ。

    世間一般で通用している「日本人は○○だ(、だから〜)」について、それが正しいのかを検討しながら、純粋な日本人性を洗い出していこうとする試みが斬新です。
    どんな事案にも共通することですが、人間の性質や考え方に物事の原因を見出してしまうと、それ以上の進歩は望めません。
    知らず知らずのうちに、行動するorしない理由のひとつとして日本人性をこじつけている自分を、本書を読むことで発見できたように思います。
    ステレオタイプは物を考えなくていいので当座は楽なのですが、理論的な反論に対処できない(そもそも対処することを放棄している)と実感できます。

    余談ですが、先日読んだ『読んでいない本について堂々と語る方法』なる本の実践型を本書で垣間見ました。
    著者は恐らく経済学、心理学、文化人類学、哲学といったすべての学問に精通しているわけではないのでしょうが、全体体系を理解していることによって非常に説得力のある意見を述べることに成功しています。
    専門家の本を読むのも楽しいですが、広く浅い知識を有している方の本もまたおもしろいものですね。

  • 「(日本人)」橘 玲
    思想書。クリアグレー。

    いわゆる日本人論ですが、政治学、社会学、経済学などに立脚して書いています。
    論点があっちゃこっちゃ散在していて非常に読み辛い。起承転結のない本なので、全体の要点が掴みづらい。
    でも、ひとつひとつの考えは、個人的にしっくりくるものが多くてオモシロいです。
    あと、ある程度の章ごとにまとめを入れていただいているのは分かりやすい。

    「(日本人)」が世間との協調を美徳とし、権威・権力を嫌うのは、実は突出した世俗個人主義によって、
    ①原理主義を持たず、〈水〉の中に生きていて
    ②私の自由権を制限する政府、官僚、大企業…を憎悪する
    から。という解釈でいいのかな。

    ばっさり感想を一言で言いますと、明治以降の西欧近代化の歪みを戻そうとする国民性の力をさらに抑え付ける道徳論という、二重の歪みを感じますー。

    本書の最後で示される自由のユートピア、徹底的な世俗-合理的:自己表現優位社会は、既得社会をバージョンアップさせる世論形成がなされれば、容易く日本に根付くでしょう。とな。
    何となく、グローバル化した江戸元禄文化をイメージ。鎖国の下で花開いたこととの矛盾がありますが。(3)

    以下メモ
    ----------
    p31.タイ社会は、つねに"ガイアツ"を必要としている。

    p50.貨幣空間の拡大(市場原理主義)というのは、世界の歪みを平準化する運動のことだ。

    p112.それぞれのデフォルト戦略が異なるのだ

    p135.イングルハートの価値マップ。所得/文化-{合理,自己表現}空間

    p160.日本は本質的に「無縁社会」だった。

    p168-172.経済学における自由貿易の余剰の話。分業化の高度化の度合いを「生産性」という。

    p207.正義をめぐる四つの立場

    p216.もしそこがグローバル空間であれば、好むと好まざるとにかかわらず、誰もがグローバルスタンダードに従うしかないというだけのことだ。

    p263.すなわち官僚制とは、日本においては、社会諸集団の結節点として機能しているのだ。

    p282.そのため過当競争と過剰設備でどこも利益をあげられなくなってじった。

    p288.日本がグローバルスタンダードの国に生まれ変わることはものすごく難しい。それは、日本の社会に〈他者〉がいないからだ。

    p317.フリードマンがネオリベの元祖だ。

    p329.ネオリベがグローバル思想だからだ。

  • この本のいたるところで今までの固定概念を考え直させる著書でした。
    内容に触れてしまうので、少ししか書けませんが、これだけでも考えさせられます。

    従来の日本人論で「日本人の特徴」とされていたことの大半は、ヒトの本性か農耕社会の行動文法(エートス)で、世界の至るところで見られるもの

    日本人性の謎を解くカギは、「空気=世間」ではなく、「水=世俗」にある

    日本人はアメリカ人よりも個人主義的(自分勝手)

    日本人は世界でも突出して世俗的な国民である
    「空気」の支配は個人主義の結果だ(拘束が強くなければ共同体を維持できない)

    <この本から得られた気づきとアクション>
    ・この本をまたいつか読み返すときがきたら、日本はどうなっているだろうか。

    <目次>
    ほほえみの国
    1 LOCAL(武士道とエヴァンゲリオン
    「日本人」というオリエンタリズム
    「愛の不毛」を進化論で説明する ほか)
    2 GLOBAL(グローバリズムはユートピア思想である
    紀元前のグローバリズム
    「正義」をめぐる哲学 ほか)
    3 UTOPIA(「大いなる停滞」の時代
    ハシズムとネオリベ
    電脳空間の評判経済 ほか)

  • ★★★★世界的規模の価値観調査基づくネオ日本人論。日本人は世俗的-合理的な価値観が高く、自己表現の価値観が相対的に低い(うんうん!)。一方、欧米人は自己表現の価値観は高いが、以外と日本ほど合理的ではなく、伝統的な価値観も尊重している(へ~)。また、日本人は自分の生き方は自分で決め、自分らしくありたいと強く思っている。個人主義も強い(一人暮らし等)。これで自己表現が高まれば、超越者のいない世界で最も世俗的・合理的な日本人こそ自由のユートピアに辿り着ける。。。かも?
    要再読。

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著者プロフィール

橘 玲(たちばな・あきら):作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。同年、「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)、が30万部を超えるベストセラーに。06年『永遠の旅行者』(幻冬舎)が第19回山本周五郎賞候補。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮社新書)で2017新書大賞受賞。著書に『「読まなくてもいい本」の読書案内』(ちくま文庫)、『テクノ・リバタリアン--世界を変える唯一の思想』(文春新書)、『スピリチャルズ 「わたし」の謎』(幻冬舎文庫)、『DD(どっちもどっち)論――「解決できない問題」には理由がある』(集英社)等多数。

「2024年 『親子で学ぶ どうしたらお金持ちになれるの?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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