俺の文章修行

  • 幻冬舎 (2025年1月8日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (264ページ) / ISBN・EAN: 9784344043954

作品紹介・あらすじ

ゴミカスみたいなおのれを命懸けで書いてきた。
町田康の文体に宿るその精神と技巧。はじめての告白
「お互い、ええ文章書こうで!」

・千回読んだ『ちからたろう』がつくった文章の原型と世界観
・ゴミ捨て場から持ち去った『ことわざ故事金言小事典』の活躍
・筋道を見せる「プロレス」的文章と敵を倒すための「格闘技」的文章の違い
・文章のいけず――かさね、刻み、間引き、ばか丁寧、無人情/薄情、置換、時代錯誤、がちゃこ、国訛、半畳、ライブ、バラバラ――を使う
・「俺は」と書き始めるか? 「私は」と書き始めるか? その一瞬が次の内容を決める
・「書く姿勢」を取れるのは、いずれ此の世からいなくなる人間だけ
この世にある、書くことでしか伝わらない現実。生きるための文章読本。

感想・レビュー・書評

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  • 相変わらずの町田さん節に浸れた。
    終始難解で容易に理解できるものではなかったが、ここに書いてあること全て脳裏に焼き付けたいと渇望するほど面白い内容だった。

    ・面白い文章を書くにはとにかく読書をする。
    ただあらゆる書物を貪るのではなく、少々難解だと感じた本を繰り返し読む。
    ・文章の書き方を教わったところで、内蔵型の変換装置は身につかない。
    外付けと内蔵のバランスを保ち、高尚なことを述べねばと肩肘張らず、心中に蠢く糸クズを探る。

  • 町田康の文章の作り方 笑
    例文あげたりしてくれて親切
    でも難しい

  • 町田さんの小説は好きですが、本書は難解で流し読みしてしまいました

  • 子どもの頃の愛読書で何回も読んだものってなんだろう。
    本好きだったとはいえ、いまさら思い出すもないかも。
    筆者は「ちからたろう」
    やはり子供のころから、文才はあったんだろうなと。

    難解な話なんだけれど、独特の言葉の言い回しでテンポよく読み進める。
    とはいえ、半分も良くわからなかったけれど(笑)

  • ■いきなり読後感
    僕にとっても「町田康の文体克服」という修行でもあったが、今回も『う〜ん、刺さらなかった』、一冊が長かった…。

    ■内容
    本書は、町田康が「文章とは何か」「良い文章とは何か」「文章修行とは何を鍛えることか」を自身の経験と思索を通して掘り下げた文章読本風エッセイ。

    若き日の迷走、自意識との格闘、そして言葉と格闘する日々の中で得られた〈言葉との関係性〉を描いている。

    …という内容なのと、町田康なので、数多の文章読本とは一線を画しています。あくまでも文章読本風エッセイ。
    【内容の3ポイント】
    ①独特の〈冗舌体〉で綴られる語り口。
    →あえて文意を膨らませ、回りくどく描写しながらも〈言葉の密度と手触り〉を伝える手法
    ②文章修行の過程を〈精神修行〉や〈自己観察〉と重ね合わせて語る。
    ③小説家というより、詩人・思想家のようなスタンスで文章を『生き物』のように扱う態度を取る。

    ■我が感想
    町田康文体アレルギーの私の感想と肯定派の感想を併記。ちなみに肯定派意見はネットから引用。
    ①文体について
    私:町田康の特有の『冗舌体』のリズムに乗れないと内容が頭に入ってこない。
    肯定派:町田節全開で、文体に魅了される読者にとっては“町田康の真髄”とも言える内容。
    ②文章読本の是非
    私:文体があまりに個性的すぎて、文章修行の参考にならず、かえって混乱するのではないか。
    肯定派:自分も文章修行中という人にとっては『悩んでもがくこと』そのありのままさが潔い
    ③読後感
    私:読後に『何が言いたかったんだっけ?』と印象が薄れがち。
    肯定派:文章指南書ではなく、言葉との“格闘記”として読めば味わい深い。

    ■『冗舌体』いう文体についての考察
    ①冗舌体とは?「無駄」をあえて残す表現手法
    論理性よりも〈語りの温度〉や〈感情のうねり〉を優先する文体ゆえ『意味が曖昧』と片付けられるのを承知で、あえて“曖昧”にする。感情の揺れやためらいをそのまま文字に落とし込む手法。

    ②冗舌体が生むものと失うもの
    ◎ 共感→話し言葉に近く、独特の“間”や“リズム”があるため、感情移入しやすい読者も。
    ◎ リアリティ→思考の迷いや揺れをそのまま文字にしているため、『生の声』として響く。
    △読みにくさ:テンポが悪く、文意が捉えづらい。
    △ 読者を選ぶ:ロジカルな読み物を好む人には向かない。

    ③橋本治との共通点
    僕の中では、町田康の文体の源流には『故 橋本治』が鎮座している。橋本治の文体も中々クセが強く、「思考をそのまま文に垂れ流す』スタイルを貫く。

    『何が言いたいのかよく分からんけど、妙に面白い』という不思議な魅力があった。今回書棚の隅に眠る橋本治のエッセイを取り出し、読んでみて合点が入った。

    冗舌体とは〈『考える』と『書く』の間に一切フィルターを通さない文章スタイル〉なんだという結論に辿り着いた。予め整理をして論考に臨むのではなく、整理しながら語り、そこから派生した事にも触れつつ論考を重ねるという、一見『ぶっつけ本番スタイル』の文体。

    ふたりの冗舌体大家の文章を読んだことで、難儀する理由が明白になり、あゝスッキリした。

    ■総括
    本書を読み了え、町田康の一篇のエッセイを音読してみると、あら不思議。冗舌体って、語り成分が含まれているから、音読しているうちに、リズムやトーンを感じてくるではないですか⁈

    町田康の前世は『琵琶法師 説』を唱える方もおられるぐらいだから、今さらの感想かもしれませんな。
    ただ、この読み方は通勤の車中ではできない読み方ではあります…。

  • 2025.03.22
    これを読んで文句を言いたくなる人も多いと思う。だけど、その気持ちを乗り越えて読むと、商業ベースに乗る本を書く、あるいは出版社に書かせてもらうために、何が必要かが筆者独特の言い回しで表現されているとも思った。

  • 町田康流の文章術が、町田康流に表現されている。話の枝葉と言葉遣いがいちいち面白くて、反応して笑ったり突っ込んでしまったりで、大切な話の本質をスルーしてしまう。私の集中力散漫だと思う。
    町田康さんの本を読むととても元気になる。ご自身のことを、しきりにアホだと書いてらっしゃるけど、自ら『高尚』に陥らないためなのかな。こんな面白い文章誰も書けないのに。新作の太平記も楽しみ。

  • 口語体でふざける系の文章って素人がやると寒くなりがち
    この手の書き方で面白いを維持できる著者のバランス感覚はすごい

    文章で余分だなって感じること多いけど必要なことではあるのだなと改めて思った
    手法というか書き方の指南もちゃんとあって参考になった

  • 町田康の文章は、一般的な文章と違い、そこに町田がいるように錯覚してしまうほど口語的な雰囲気がある。深夜寝床で頭に思い浮かぶすべてを記したように要約の逆を行く形ですべて書いてある。故に、要点が掴みづらく、抽出されたニュアンスが印象に残る雰囲気の創り。

    当然の如く、一般的なチップスというより、町田流のやり方、町田節の書き方である。町田作品を書くとき氏の頭の中はこういう感じになってるんだなと思うための書である。

    インプットとしては、起承転結がしっかりしていて、読みやすく結末がハッピーエンドといった綺麗に終わる物語より、どこかツッコミどころがあり、理解できない部分がある物語の方が、気になって何度も読んで行くうちに新たな気づきがある。故に自分好みの本よりそうでない本の方が発見がある。

    町田作品は文章のいけずによって出来ている。
    まずは変換装置という、言わば言い換えによって単なる説明的文章にユーモアを足すことによって、内容説明ではなく文章そのものに内容を孕ませることが出来る。次に刻みである。
    刻みによって、同じ場面であっても細かく刻むことで要素をふんだんに盛り込むことが出来る。
    例)吉岡はうどんを誂えた。
    →最終形態: 吉岡は、店の敷居のところで、牛乳を撒き散らして、股立ちをとり、予備の茸を鶴に与えてから、右の太腿をたっかく上げて、店に入り、うどんを誂えた。

    「いいよね」「あかんがな」のどちらかに振り分けられるようだが、「雑な感慨ホルダ」はどう作用するべきなのか、よくわからなかった。

    大河ドラマとなった司馬遼太郎『翔ぶが如く』に憧れて『呼ぶが如く』を(おそらく)ChatGPTに生成させたところNHKラジオドラマみたいなあらすじになって印税収入が減りそうで萎えたみたいなエピソードまで書いてある。

    相変わらずバイブスのみで読み進めるような感じの文章。

  • ”俺の修行”だから、必ずしも万人受けする文章教室を謳っている訳でなく、当然、そのまま真に受ければ、皆が上手くいくとは到底思えない。くさしている訳では全くなく、著者の無二の文体の、その来し方が垣間見えて非常に興味深い。ハウツー本としてじゃなく、ひとつの読み物として、ただ楽しめる。かつて”今日から俺は”で触れて以来、”気色ええ”って言い方がツボなんだけど、それがここで出てくるとは…。素敵。

  • 関西人に生まれてよかった、河内弁の呼吸が分かって良かった、と思う文章で、読んでいて楽しかった。自分の文章も含め、読んでいて行間から何かくさみが上がってくるなと思うことがある。その現象が気のせいではなく、なぜ起こるのかが克明に明かされていた。

    文章の内容とは自分の中にある糸屑のようなゴミカス(心の錦)から湧き出てくるものという。いかにも関西人らしい、自分をあげることへの気恥ずかしさを感じさせる。なんだか照れながら大真面目、真剣な人だ。

    ノリ、グルーブ、または文体と内容はお互に呼応しながら組み上げられていくものらしい。

    文体、文章のいけずで迂回しながら書き上げなければ、基本、小説は2行、純文学は1行で話が終わるものというのは核心をついていてむちゃくちゃ面白かった。

    女が死んでいた。
    犯人はフナコシであった。以上。

    その間をいかにいけずをして、読者を焦らしながら展開するかが小説。

    純文学は人間の嘆きを描くもので、1行。

    女に持てたい・女とやりたい
    他の奴が出世して腹立つ
    人が死んで悲しい
    社会に不正や不平等が多くて腹立つ
    もっと俺をフィーチャーしろ

    あはは。

    これを、迂回して文章で楽しませられるようにながながと書くのが純文学、というのは、いやー確かに。

    純文学の定義をこれだけ明快に言い表した人に初めて出会った。

    雑な感慨ホルダー、という概念も面白かった。

    自然ていいよね
    人工あかん

    銭儲けあかん
    心っていいよね

    二項対立でもたれあい、世間一般に受け入れられている雑な感慨に自分の考えを、すべて収斂させて単純にものを見ていては、自分が本当にどう思っているか、感じているか、自分の真実は何かがわからない、という話。

    以下抜粋。

    ええなあ、と、あかんがな、が互いに無れ合いながら、ひとりで立つことがないまま補強し合うことによって、その外皮がどんどん強靱になっていく。だけどそもそもの根拠はきわめて雑、という雑な感慨が知らず知らずのうちに育ち、自分では精緻だと思っている考えの、その出発の地点で、まったくなにも考えずに事物・事象を雑な感慨ホルダに入れてしまっている、という事が、よくあるというか、殆どそうである、という事、そして、それが心の錦=言葉を動かす最初の力を弱めているという事について前に申しあげた。

    このあいだ読んだ、現代思想の本のデリダの二項対立から離れたグレーゾーンを見ようという話がまさにこれで、哲学的な話を、こんなにもわかりやすく平たい言葉で紐解く手つきに感嘆した。

    雑な感慨ホルダー、使いすぎないように気をつけよう。






  • 町田康の本初めて読んだ。関西弁いいなあ。木蓮が咲いている。なめとんな。ほだいくでおげあ絶対に出てこない言い回しだ。
    よーい、エークション笑った。

  • 文章の書き方をテーマにした(たぶん)エッセイ。
    よい文章どうのについては、ともかく町田節読みたさで読んだ1冊。
    切腹サークルが面白かった(単語)。
    「ギケイキ」や「宇治拾遺物語」のエッセンスが随所に感じられて、あの本たちはこういう思考が裏にあって生み出されたのか〜とも思いつつ、面白い(町田氏風だと、おもろい)単語、表現は出てこないかとワクワク読み進めました。
    (ははっ、ていう乾いた感じの笑いも好き。)

  • ふむ

  • 凄かった

  • 自分はアホなのか?良く分からなかった。8章まではなんとかついていけたが、それ以降は???が頭に蠢いていた

  • 『ちからたろう』を1000回読んで文章の原型と世界観がつくられた、というところで、一気に引き込まれた。本嫌いだった私が珍しく数十回は読んだ本だったからだ。

  • ばりクセな町田康節の裏に隠れるのは真摯な文章論。結局は多読と再読、結局は内容、結局は自分。「形式と内容」以降は金言がたくさんあり、再読するときはマーカーを引こうと思う。きっとすぐにでも再読する。

    日頃大阪弁にふれない人は読みにくくてしゃあないこっちゃろうけど、まあしゃーないな。これが町田康です。そして、あなたは、わたしは。

  • 文章力を身につけるにはたくさん本を読めと。ただし同じ本を百回読めという。確かに魅惑的な提案だ。そんなに読めばきっと何かを手にするような気がする。町田さん曰くそれは文章変換能力だそうだ。しかし僕には一冊の本を百回読むほど時間は残されていない。学生時代に教えて欲しかった。いい文章を作成するテクニックとして「いけず」したらええんやとか。いわばそれはノイズであり、つるりと転倒しないための滑り止めっていうやつちゃうんかな。そしておのれの「心の糸クズ」に向かい合って、ステレオタイプな感情のフォルダにしまいこまわんことやそうや。これは、たぶん、ネガティブケイパビリティではないかと察する。しかしそれは大変なエネルギーを必要とされるのではないかと思う。「糸クズで人が狂わぬよう、神様は忘却という名のルンバをくれた」と町田さんが言うてるくらいやから。しかし、町田康さんの文章の無駄に饒舌なしょーむないところと、そのリズムが好きや。翻弄といといされるわ。

  • ①おもろっと思った、おもろって思ってる自分を認める
    ②おもろって考えてる自分はしょーむないもんなんかもしらんと思う
    ③そのおもろっていうのはどこから湧いて出てきたんか考える

    A.雑な感慨ホルダ内に、私のこれまでの人生でおもろって思ったものを詰めてきてて、その詰められたものごとに類似してるから、おもろって判断した
    B.町田康の文体からは、勢いというかグルーヴというかほんまに楽しんでノリながら書いてる姿が見えてくるし(と、本人が説明してくれてた)、頻出する(というか私がそこに注目してる、させられてる)「うどん」「吉岡」「はは」「くほほ」「しかーし。」「いやさ」「茲」「窶す」「扨」「というこっちゃ、ちゅうこっちゃねん、ちゅうこっちょ」「〜ことをしたら、〜になって、〜にもなって、〜ということになって、死んでいくほかない。」という全て死に至る構文、などなどの語の使い方、表現に惹かれているという根拠ゆえにおもろっと思ってる。その語の使い方、表現の独特さがどういう理屈のもと用いられてて、どんな効果をもたらすのかを知れたこともまたおもろっと思った理由のひとつである。

    ③の考察の結果、Aに傾くと思って書き始めたけど、根拠が思いの外するする出てきて案外Bなんかもしらん。いやでも元々町田康の文体が好きやからって理由ならAやんな。
    なにをしてるかというと①〜③の作業を、日々バックグラウンドでし続けることで心の錦=ゴミカスをかろうじて認識できるようになり、文章のタネになるとのことやったので、やってみた。

    町田康が何度も読んだ『ちからたろう』のように、わたしはこの本を何度も読む本にしようと思た。というか自分はこの文体が好きなんやなと改めて気づいた。早速この本に影響を受けまくって、口語を交えつつ表記をズラしつつ書いてゐる。というようなことを、仕事の文章でもし始めており、これはちょっと考えもんである。時と場合を選ばねばならぬ。この文章論を活かすのは一体自分の生活のうちで、どこなんやろう。とりあえず誰かが読むことを前提とした文章を書くのが最近億劫になってて、この本に助けを求めるように縋るように読み始めたけど、ははーん救われたーとなったところは、自分がおもろいと思える文章を書けばいいのであって、他人を笑かすことを意識するんではなく自分を如何に笑かせられるかってことを基準に書けばええというところです。自分が文章を書くことに対して気負いすぎてたなと思いました。
    いやでもやっぱ読み手を意識せずに書くんてやっぱむずいですよね、やっぱって2回重ねてしまうくらいにはむずいです、どうすれば?と思ってたけどその答えも書いてくれてました。救う救われるのところ。生徒に口語体と文語体は混ぜてはならぬと赤ペンを入れていたが、混ぜたってええではないか、と思ってきました。それが意図した表現ならばええです。救う救われるの話を思い出したら生徒を思い出して急に赤ペンの話に飛びました。
    末筆ではございますが、ブクログの運営さんこの本にはやくサムネイル画像を付与してあげてください。表紙も好きなんです、素敵なんです、オレンジ色で。

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著者プロフィール

町田 康(まちだ・こう)
一九六二年大阪府生まれ。作家。九六年、初小説「くっすん大黒」でドゥマゴ文学賞・野間文芸新人賞を受賞。二〇〇〇年「きれぎれ」で芥川賞、〇五年『告白』で谷崎潤一郎賞など受賞多数。

「2022年 『男の愛 たびだちの詩』 で使われていた紹介文から引用しています。」

町田康の作品

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