- Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344406100
作品紹介・あらすじ
15歳の夏、恐ろしい病魔が少女から青春を奪った。数々の苦難が襲いかかる中、日記を書き続けることが生きる支えだった。最期まで懸命に生きた少女の言葉が綴られたベストセラー。
感想・レビュー・書評
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筆者の木藤亜也さんは「脊髄小脳変性症」という病気にかかる。この病気は、運動をするのに必要な脳の神経細胞が変化し、ついには消えていってしまう病気であり、病気の進行とともに、徐々に全身の運動能力が蝕まれ、寝たきりの状態となってしまう。通常は、発症から5~10年で亡くなるのが普通である。
木藤亜也さんは、中学生、14歳の時にこの病気が発見される。そして、25歳の時に亡くなる。その間の(といっても、20歳までの)ご本人の日記の抜粋を中心に書籍化したのが本書である。
この病気は、人の助けがなければ生きていけない。日記には、時に、自分の世話をしてくれる人たちへの遠慮や感謝が書かれていたり、逆に、なぜ自分がこのような病気にかかってしまったのかという不運をうらむ気持ちや、日々進行していく病状に絶望を感じたりということが記録されている。それは、涙を誘う記述であるし、また、けなげであり、この子が頑張っているのだからと励まされる気持ちになったりもする。
本書の救いは、本書の最初の出版が、木藤亜也さんが存命中になされたことだ。それは、本人や家族の励みや救いになったはずである。亡くなられたのは、1988年5月23日なので、既に35年が経過する。これだけの長い間、読み継がれてきたことがよく分かる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読後感じたのは『えらい』です。
何故えらいのかは上手く言えませんが、一つ間違いなく言えるのは『自分には出来ない』事だと思う。
ご本人は相当辛かったはずだけど… -
何年ぶりかの再読でした。
以前読んだ印象とはまた違って、今は親目線での気持ちがとても心に刺さります。
人の重荷になって生きている気持ち、想像するだけでも苦しくて仕方がありません。
それを支える家族や医師たち、信頼関係や愛情が最後のときまで気持ちを支えてくれていたのだと感じます。
私自身も悩んで壁にぶつかって、足踏みの毎日だと生きていましたが、もっと強くならなきゃと思いました。 -
意識は清明、知能は保たれたまま身体の機能だけがどんどん衰えていく脊髄小脳変性症という病気。
中学から高校という、人生で最も楽しく、キラキラと輝く時期にその病気にとらわれてしまった亜也さん……
その境遇を思うだけで、涙がでてくる。
でも、彼女はどこまでも清らかで前向きで…健康な人を妬むことも、自分を排除した人たちを恨むこともなく、『今の自分にできることをする』ということに真っ直ぐだった。病気や運命を呪うこともあっただろうに、書かれているのは前向きな言葉と迷惑をかけてしまっている家族や友人への謝罪の言葉ばかり。
もし亜也さんが、こんな病気になっていなかったら、どんな輝く人生を送っていただろうと考えると悲しすぎた。
思春期の子どもたちには是非読んでもらいたい一冊。 -
そうなりたくて障害になったわけではない、話したいのに話せない、歩き回りたい、走り回りたいのに体が動かないことへの悔しさがひしひしと伝わってきた。
障害って一括りに見がちだったが、生まれた時から障害を持って生まれる人、途中から障害を持つ人が違うのはもちろんだけど、中途の中でも元気な人と徐々に後退していく人がいると改めて分かった。自分の意思がある中で出来なくなることが増えるのは悲しいだろうな。
障害とか病気は、いつなるかわからないし、なってはじめて「普通」じゃないことを痛感するんだろうなと思う。自分は当たり前の生活を、毎日感謝して送れているだろうか。
失ったものではなく、残されたものに目を向ける、という言葉が素敵だなと思った。 -
主人公である15歳の少女、亜也を難病がおそう。病気が進行するにしたがって、入院生活を余儀なくされ、楽しみにしてた高校生活を送ることはできず、体が不自由で強いられた車椅子生活、など多くの苦難を経験しながらも生きる支えとなっていたのは日記を書くこと。
3度目の入院で山本先生という医者が「医者をしている限り、亜也ちゃんを見捨てないからね」と言ったことは弱っていた主人公とその母親をどれほど気持ち的に救ったかと考えると1番印象的な部分でした。
主人公の亜也がかかった難病のように、医療が発達した現在でも治せない病があるのが現実で、この本を読んでより考えさせられた。今現在、健康に毎日を送ることができていることを幸せだと感じ、毎日を生きていこうと思える作品でした。
本館3階東閲覧室(人文系)
請求番号 916 Ki
ハンドルネーム だく-
涙物はあまり読みませんが、なにか辛いことがあったときにでも読んでみたいと思いました。
ハンドルネーム ちょす涙物はあまり読みませんが、なにか辛いことがあったときにでも読んでみたいと思いました。
ハンドルネーム ちょす2019/12/03
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病と闘いながら懸命に生きた亜也さんの実話。
多感な時期に病にかかり、日々自分の体が自分の意思で思うようにならなくなっていくことに向き合い生きていく少女の強さと儚さ。
彼女を支える家族、友人、医療関係者のノンフィクションは現在健常者として当たり前の日常を過ごしている私の心に一条の光を照らしてくれた。 -
昭和63年(1988年)、25歳で亡くなった女性の日記を、母親である潮香さんがまとめ、昭和61年に出版したものが文庫化。
脊髄小脳変性症という、次第に身体の自由がきかなくなり、歩くことはおろか、排便も言葉の発音もできなくなってしまう病気にかかった少女が、発病から文字が書けなくなるまで自らの気持ちを日記に記す。
原因不明で治療法も分かっていない病気と闘っている様は恐怖で一杯だと読むだけで分かる。希望さえも持つのが辛い、そんな感情が伝わってきて、私もボーッと生きていてはいけない、と強く思った。 -
「身体障害と言語障害があると、バカにみえるのかしら」
耳がちぎれるほど痛かった。亜也ちゃんに限らず、そういう患者さんは少なからず知的障害があると、心のどこかで無意識に思っていた。
こんなに知的な詩が書けるのに、春の七草を見分けられるほど繊細な眼を持っているのに、日記以外で存分に意思疎通がしてこられなかったのは、どんなに悔しかったことだろうと思う。亜也ちゃんの心の中にはもっともっと、素敵な言葉が眠っていたに違いない。
ひとりの親として、母親の、亜也ちゃんや妹弟に対する接し方についても、非常に学ばせて頂きました。これは単なる手記でなく、素晴らしい育児書でもあると思います。 feb. 24, 2015 -
本来ならこういう本は好きじゃない。
何故ならこのレビューを書いてる今にも人は病気や思いがけない事故や自殺などにより死んでるから。
その殆どは死んだことすら、世間は知らず日々は過ぎてゆく。
本を出した人だけ特別「かわいそう」と思い同情を集める。不公平という言い方は正しくないかも知れないけど何とも言えない気分になる。
でもこの本はよくある可哀想本とは一味違う。
一度病気になれば救いなんかない。努力も報われない。突然ただ、病魔に選ばれただけのそんな病気の「現実」を見せつけられる。
人は、自分だけは大丈夫と思いながら日々を生きていく。でも何の脈絡もなく、選ばれる人は選ばれる。
決して人ごとではない。明日にも自分も選ばれるかも知れない。生きていく覚悟をする為にも、一度は読んだ方がいい良書です。 -
難病と闘い続ける少女亜也の日記。考えさせられたり思わずグッと来たところでページの端を折っていたら、いつのまにか、本の肩がかなり分厚くなっていた。
人知れずなす努力と工夫、辛さやくやしさを耐えバネとする力、まわりの友達や母を想う気持ち、追い込まれてからもなおみずからと将来を見つけようとする冷静さ。
それらをもとに亜也は、人生にささやかな喜びをも見つけつつ、立派な人間へと成長していく。前向きに、輝いて、生き抜こうとする。そして、周りの患者たちにさえ、エネルギーを与えていくのである。
日記としてのこされた言葉の一つ一つに、読者である私の未熟ささえ思い知らされて、恥ずかしくなる。小難しい話はただ一つもない。書かれているのは、人間社会の本質あるいは思いやりといった、もっと大切なことの悟り。
そうした思いと同時に、いくつかの事柄が頭をよぎる。ケア、当事者・・・。
内村鑑三は『後世への最大遺物』として、金、事業、思想(教育・文学)、勇ましい高尚なる生涯、を挙げた。亜也は、金は遺さなかった。「誰かの役に立つ仕事がしたい」と願ったが、その事業もかなわなかった。しかし、立派に「文学」を遺し、そして何より、あまりにも「勇ましい高尚なる生涯」を送りとおして、人々に、勇気と感動を与えることに成功した、ということなのかもしれない。 -
昔母親とドラマで見て、私の隣で母親が号泣していたな〜とふと思い出し、小説を読んでみようと電子で読みました。
やはりドラマとは違ってリアルに綴ってあるため胸が痛くなりました。
いつ何が誰に起こるか分からない中で目の前の人を大切にしたいと思いました。
ドラマを見たことある方も是非一度小説を読んで頂きたいです。 -
私と年齢が比較的近いため、日記の中にある辛さも分かり、胸が痛くなる。「なんで私だけが…」というもどかしさ、辛い運命のレールの上を走る現実、徐々に不自由になっていく。ただ、木藤亜也は決して諦めなかった。その生を乞い、抗う姿に私は言葉が出なかった。特に彼女と近い年齢層の10代後半の人にぜひ読んでもらいたい一冊。
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脊髄小脳変性症。進行性の病気。できることがだんだん少なくなっていく亜矢。そんななかでも、自分にできることを必死にやっていく姿勢に心が打たれた。亜矢を見守るお母さんも本当に強い人。冷静に対処している所が。
特に印象に残った場面。それは、亜矢が歩けなくなり、這ってトイレまで移動する時。後ろでお母さんも同じ姿勢になり、ボロボロ泣いている…。想像して涙がでた。
この作品は、ヘタな自己啓発本を読むより、よっぽど大切なことを教えてくれると思う。
文中にたくさん出てきた、亜矢の好きな本を自分も読んでみたいと思った。
当たり前は当たり前じゃない!
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小学生の時に読んだもの。
久しぶりに読んでもいいかも知れない。近々 -
とにかく泣いた。
まじめに、素直に日々できることを頑張る亜也さんの生き方。
家族の愛。
努力の先に突き付けられる結果は、どうしてこんなに理不尽なのか。
世の中は、障がい者にとってこんなに生きにくい場所なんだと、実感した。
それをなんとかできるのが私たち健常者だと思う。
私は正しいエネルギーに自分を使わないといけない。 -
「神様、病気はどうして私を選んだの?」恐ろしい病魔が15歳の少女亜也の青春を奪う。友達との別れ、車椅子の生活、数々の苦難が襲いかかる中、日記を書き続けることだけが亜也の生きる支えだった。「たとえどんな小さく弱い力でも私は誰かの役に立ちたい」最後まで前向きに行き抜いた少女の言葉が綴られた感動のロングセラー、ついに文庫化。
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障害を持たない私たちにとって、それは遠くて縁の無い世界と考えがちだけど、15歳から20歳までの日記の内容が書かれている本作では、本当にふつうの女の子が段々病魔に侵されていく様子が書かれており、他人事と思うことができない。誰だって、後天的な障害を持つ人は自分がそうなるだなんて思っていなかったのだと思う。日々を大切に生きよう、周りの人の役に立とう、希望を持とう。たくさんの感情を読者に与えてくれる、読むべき本である。
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だんだん動かなくなっていく体。周りに迷惑をかけて申し訳ないという気持ちと、何故自分がこんな病気にという神様への恨み、悲しみが伝わってきました。健康な体なのに「死にたい」と思う人に「じゃぁ、代わってよ」と思う気持ちは分からなくはない。また、障害を持つ人に対して言った何気ない一言に落ち込む彼女を見て、本当に色んな事が難しいなと思った。「私、結婚できる?」と言われて先生が言った答えがちょっと腑に落ちない。もっと違う言い方があったんじゃないか。本当に難しい。
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読まれることを意識していない日記でありながら、表現力に富んだ文章に圧倒された。生活能力の大半が衰える中、思考を維持する大脳が活発であり続けたのは幸せなことだったのだろうか。