私たちはどこから来て、どこへ行くのか (幻冬舎文庫)

著者 :
  • 幻冬舎
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  • Amazon.co.jp ・本 (504ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344426009

感想・レビュー・書評

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  • 端的に言えば、本書は宮台氏による日本論であると思います。
    あとがきに「衒学的」とある通り、確かに時に言葉遣いは思想業界用語のクロスオーバーとなり思想・哲学・社会学に馴染みのない方には到底すんなり理解できるものではないと思います。しかしながら、良くも悪くも短編集の寄せ集めの体を成すことから、筆者の主張したいこと・思いは、繰り返し語られることでおおよその理解ができる形になっていると思います。

    ・・・
    宮台氏の若者論はブルセラや売春などの事象を取り上げることで「いろもの」の感がありました。しかし論の根っこは日本社会論があると思います。

    とどのつまりは日本社会が若年層を滋養する<生活世界><中間世界>を失ったということです。なぜこうした中間組織がなくなったかと言えば社会が自由主義的になり、ヒトモノカネが自由に行き来するようになったからだと思います。過剰流動性により「まともに生きること」と「うまく生きること」に乖離が発生し、うまく生きるだけの自己に自ら価値観を見出せなくなる傾向。あるいは「こんなはずじゃなかった」という落胆。

    その落胆の先にかつては北朝鮮であったりデモであったり、いわば埋め合わせる思想や理念(中間世界ですかね)が存在した。しかし今はあらゆる相対性の中で何でも選べるので何も選べない。自己の揺らぎ。

    かつては地域や学校や或いは会社や、それこそ家族(生活世界ですかね)が受け止めていた包容力を失い、若者は「居所を失った」結果、承認を求めて売春やブルセラ、ネトウヨ、うボランティアに走る、と言うような論調だと思います。ここ以降が良くわかりませんが、きっとこうやって何物かの”他”なるものによって自己を埋め合わせるようなことを「終わりなき日常」と言っているように見えました。いわば、自分探しは否定的な意味で終わりのないゴール、と言っているように思いました。

    ・・・
    では承認されづらい不安定な社会、「うまく生きる」だけの納得のいかない社会でいいのかと言うとそうではありません。<中間社会>に代わる新たな解として、氏は「包摂」というワードで希望を表しているように思います。

    ここでバラバラになった人たちをいわば、巻き込む。対立があってもなくても、ともに居る。連帯感や共通性は事後的に得る。なんとなればお見合い婚の夫婦の得る連れ添ったからの愛情のような? そうすることで当事者性を各人が持ち、変革の兆しを生む、という事のようです。そのための手段として「祭り」だったりインターネットだったりがキーとなることが示唆されます。

    こんな感じで読みました。

    ・・・
    全般的にはやはり難解だと思います。乱暴にとらえれば、我々は人間資本(ヒトとの繋がり)をより強くし、そうした繋がりの団体として政治に関わるべき、という事を主張しているのでしょうか。総論は賛成です。

    国を頼りにするのではなく自らを頼りに隣人をたすけ(たすけられ)、そしてそこから国や自治体を変えていく。あれ?これってひょっとしたら私がやりたい事と似てるかも!?

    そうそう、あと少し疑問に思ったのは、「終わりなき日常」を生きた若者のこと。90年代の彼らって、そのままブルセラや売春をし続けて老いていくわけではないと思います。私も今は立派なおっさんになりました。そうした過去の若者たちがどうやって自己を「受容」する、ないしは社会に飲み込まれていくか、その仕組みや過程を知りたいと思いました。その飲み込まれ方がポジティブであれば、それはそれで今を生きる若者へのなにがしかのメッセージになるのかも、とふと思いました。

  • 難しいが、宮台氏の著作は正鵠を射ている。いくつか氏の著作は読んだけれども、読むたびにその意を強くする。
    本作においては、モダンからポストモダンへの移ろいの中で、主に日本というドメスティックな社会がどのように変化したかが論ぜられ、またそうした社会への対応策としての処方箋も示される。時には欧米諸国などとの対比も交えながら論を進めるので、難解ではあるが、自身の経験や感覚に照らして首肯できる内容が多い。
    宮台氏は本著の中で、「空洞化」というキーワードを繰り返し述べている。特に「システム」を利用して生きていると思っていた「我々(生活世界)」は、いつしかシステムの一部となり、その結果いつしか「我々(生活世界)」は、「システム」の生成物に過ぎない、との主張は鋭い。となると、氏の言に従えば、「スマート化社会」も素直に手放しでは喜べない。「スマート化テクノロジー」がもたらす便益は確かにあろうが、一方で我々はそれによって「選択」権を取り上げられてしまった。つまり、「我々(生活世界)」が「システム」に完全依存する形でしか生きられないことを意味している。よくよく考えると恐ろしい。
    ポストモダン状況では、我々は「空洞化」し、全面的にシステムに依拠することとなる。そして、それをもたらしたのは、グローバル化、すなわち「資本の自由移動化」であると指摘する。

    これは井沢氏が『日本史真髄』の中でも同様のことを述べていたが、日本人は「みんなで決めたことは正しい」という認識を持っている。本来多くの意見を集めれば、それは相対的に「間違っているはず」である確率は上がるはず(そして、その「間違う」前提を受け入れつつも、社会の多数意見を受け入れるのが民主主義の本義のはず)だが、多くの日本人はそうは考えない。そもそも「誰が優れた人間か」を判別することも難しいが、少なくとも現在日本の中枢にいる者たちの多くが「馬鹿丸出し」ばかりであることは自明であろう。宮台氏は、この日本の全体主義的民主制について、「デタラメな民主制」と称している。民主党政権への交代の期待、歓喜、そして絶望を経て、劣化した55年体制に逆戻りしたような今を見れば、そう言いたくもなる宮台氏の考えは、単なる理解を超えて心に響いてくる。
    これまでの東浩紀氏の著作にあった「大きな物語」から「小さな物語」へ、といった主張と合わせて考えてみると、(とりわけ日本では)自立した共同体がなく、さらにはその共同体さえ空洞化し、社会を牽引するのは「我々」ではなく、ましてや「対米自立の道を完全放棄し、もはやその素振りさえ見せない」安倍政権などではあろうはずもなく、「システム」がその役割を担う。しかし、「自立性」を持たない日本人は、それでもなお国家やあるいはそれに準ずる巨大企業(例えば東電)に「依存」するしかない。
    宮台氏が本著で語った内容には、いちいち首肯するしかないけれども、その日本で生きている「私」は、そのたびに同時に背筋が寒くなる思いにかられてしまう。宮台氏が示した「処方箋」は、デタラメな日本を正すことのできるベクトルを提示していると思うが、それは社会学的手法であるがゆえに、「私」個人ではどうにもならない諦観をともなってしまう。

  • 講演の起こしが主なので、大部の著作。
    ・経済の内需部門は政策的に保護されなければならない。
    ・経済が外需部門に偏ることが許されるのは、比較優位な高付加価値産業で勝負し続ける場合だけです。
    ・どのみち新興国に追いつかれるしかない既得権益産業は、古典派経済学の言う利潤率均等化の法則ないし生産要素価格均等化の法則にしたがい、新興国並みに労働分配率を下げるしかありません。
    ・「市場/国家から、共同体へ」「経済/政治から、社会へ」「効率/再分配から、相互扶助へ」「『任せる』から、『引き受ける』へ」が、必要です。<システム>全域化=<生活空間>空洞化。

  • 進む社会の分断、台頭する排外主義、ポピュリズム。我々が依拠する基本的人権や民主主義の価値が足元から揺らいでいる今、社会を構築する一歩を踏み出さなくてはならない。

  • 宮台社会学35年分のエッセンスが講演記録などでわかりやすくまとめてある。

    袋小路に入り込んだな〜と感じる日本社会について、社会学という視点でするどく分析した論考のかずかず。

    わたしが思っていたより、状況は絶望的だったのだ。。。。と暗い気持ちになる。

    さて、ここからどう進むのか、が問題だ。

  • 読み応えあります。大切な事がたくさん書かれているけど、情報量が多すぎて覚えきれません。何度も読み返して忘れないようにしたい。

  • 昭和・平成の流れは社会学的にどう捉えてられているのかを知ることのできる良い本だった。

    特に自分たちの世代が客観的に指摘されることで、何が他の世代と違うのかという点について理解でき、また他の世代の方の考え方を知る指針ともなった。


    また本の内容を踏まえ今のマネジメントのトレンドも社会学的な背景もあるんだろうと感じた。

    法の奴隷とならざるを得なく、偽りの自分を演じるようになったときに、偽らなくても良い「1人の時間」が大切となる。

    そのため「会社の飲み会にいきたくない」というようなことが起こり得るんだろう。

    本当の自分を出せる場が必要であり、その場を構築するための手法として1on1がトレンドになっている。

    逆説的にいえば1on1でも「偽りの自分」を演じる必要があるのであれば意味がなく、弱みもさらけ出せるような場にする必要があるのだろう。

  • [出典]
    武蔵野市図書館

  • 注釈が充実。議論は正直難解だが、伝えたいことを繰り返し記述していて、切迫感が伝わる。中間項の消失という問題は、本が書かれて数年経った今も変わっていないと感じるが、また新しい議論も気になる。

  • 出版されてからだいぶ経つが、2022年の現在迄に、この当時に想像できなかった事が起こっている。
    そして宮台氏自身の身にも。
    果たして宮台氏はこれからどんな論説を発表するのだろうか。

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著者プロフィール

宮台真司:1959年宮城県生まれ。社会学者、映画評論家。東京都立大学教授。1993年からブルセラ、援助交際、オウム真理教などを論じる。著書に『まちづくりの哲学』(共著、2016年、ミネルヴァ書房)、『制服少女たちの選択』(1994年、講談社)、『終わりなき日常を生きろ』(1996年、筑摩書房)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(2014年、幻冬舎)など。インターネット放送局ビデオニュース・ドットコムでは、神保哲生とともに「マル激トーク・オン・ディマンド」のホストを務めている。

「2024年 『ルポ 日本異界地図』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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