- Amazon.co.jp ・本 (233ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344981904
感想・レビュー・書評
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文字通り、外様大名の出で立ちと、江戸時代の各外様大名の歴史について綴った一冊。
外様大名の出で立ちについて真新しい記述は特にないものの、江戸時代のお家騒動(織豊時代入れれば300年なので、大概どこでも存在する)については知らないものが多かったので、勉強になった。 -
幕末には大いに活躍して明治政府の要職を独占しましたが、外様大名にとって江戸時代は過ごしにくかった時代だったと推察されます。このような時代が250年以上も続いたので、幕末まで残れた外様大名には、いわゆる「負け組」としての生き延びるコツがあったのだと思います。
それらは歴史の表舞台に出ることもないので、それらに関する書物は少ないのは予想されることですが、その中でこの本の著者である榎本氏は、外様大名40家を選び、彼等が生き抜いた処世術について解説しています。
社会人においても、「譜代」だと思っていたらいつの間にか「外様」になっていることもあり、彼らの生き方については参考になる点があったと思います。
以下は気になったポイントです。
・信長が支配の手を全国に広げるにあたって、武士たちは生まれ故郷を離れて、新たな領地へ移っていく、これは当時の常識からすると激烈なパラダイムシフト(p5)
・戦国大名が官位、役職を求めたのは、それを持つことで他の武将よりも格が高くなったりして、元は同格だった中小の国人たちを従わせやすかったから(p21)
・信長の政策で特にクローズアップすべきことは、常備軍の創設(p25)
・本能寺の変の後に、河尻秀隆が一揆で滅ぼされたり、滝川一益が北条氏に負けて追い出されたのも、家臣団として取り込んでいた国人たちの反抗がある(p28)
・北条攻めの命令を無視して、かつ秀吉とよしみを通じていなかった、大崎・葛西・黒川といった大名は取り潰された、彼らは旧織田家時代の同僚であったが(p29)
・秀吉が全国を統一した後に本領を保持できたのは、中央から離れた遠隔地の大名のみ、陸奥の南部・津軽・岩城・相馬、出羽国の最上、戸沢、常陸の佐竹、安芸の毛利、長宗我部、宗、肥前の松浦・五島・大村・鍋島・相良・島津、江戸時代でも守れたのは、鍋島と島津のみ(p31、32)
・由井正雪の乱(1651)が契機となって、幕府がむやみに大名を改易・減封されることはなくなった、同じ年に末期養子が解禁となったことも味方した(p38)
・諸大名の家臣は「陪臣」であり、石高が高くとも、旗本・御家人よりも格下とされた、親会社の社員と子会社の社員というべき関係(p42)
・江戸城における詰所にも位置づけがあり、大廊下、溜の間、大広間、帝鑑の間、柳の間、雁の間等(p43)
・関ヶ原で東軍に寝返った一人の脇坂安治は、譜代の堀田家より養子を迎えてからは譜代となり、老中も輩出した(p45)
・伊達家は、藤原氏の流れをくむ一族、源頼朝の奥州征伐で戦功をあげたので、陸奥の国伊達郡を与えられて、この名を称するようになった(p88)
・伊達家は奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍と戦ったが、最後には降伏して、28万石に減封されて廃藩置県を迎える(p91)
・丹羽長秀は秀吉から厚遇されて120万石を与えられたが、その子の長重が跡を継ぐと所領を没収されて、最終的には加賀と石川の12.5万石になった(p96)
・佐竹は関ヶ原での優柔不断な態度を攻められて、出羽へ厳封(54→18万石)となった(p101)
・上杉家は会津120万石を与えらえたが、関ヶ原後に米沢30万石となったが家臣の数を減らさなかったので慢性的な財政危機となった(p105)
・喜連川藩は、室舞幕府を開いた足利尊氏の次男で、鎌倉公方として東国を納めた基氏の末裔で、代々鎌倉公方を継承してきたが、上杉や室町幕府と対立することになり、下総古河に移って古河公方を名乗った(p107)
・池田家が転封したのちは、姫路藩には、本多家・松平家・榊原家・酒井家といった譜代大名のみが入っている(p139)
・長州藩は、外国船を攻撃する事件を起こした1863年頃以後に、藩庁を山口に移して、以後は山口藩と呼ばれる(p158)
・黒田家で問題となったのは、5千石を以上の高禄を有する家臣が多数存在し、藩主がその連合の長という立場を抜け出せなかった点にある(p181)
・島津家は関ヶ原で家康に味方する方向で意見がまとまっていたが、伏見城に入ろうとしたところ、入城を拒否されたいきさつがある(p209)
・薩摩藩は、キリシタン禁令に加えて、一向衆(浄土真宗本願寺派)を禁止して、たびたび調査していた(p211)
・宗家は、源平合戦において平氏側で活躍しながら、壇ノ浦で入水した平智盛の遺児、惟宗判官知宗の末裔で、その名前にちなんで宗氏と名乗った(p216)
・明治時代には朝鮮との開国交渉は宗家が担当していたが、最終的には外務省へ移った(p218)
2013年4月21日作成 -
古本屋で購入。期待していなかっただけに、最初のまとめはわかりやすい。色々な知識が増えて掘り出し物だった。
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サブタイトルにあるほど、「処世術」という感じはしない。
結構、近年の研究が盛り込まれているのだが、
それを踏まえると、司馬遼太郎の作品のなかでは、
成立しなくなってしまうものもいくつか……。
サクサクっと読めるので、これはこれでいいかも。 -
退屈。
冒頭に「大名とは何か」「戦国時代概説」といった趣の章があり、ひとしきり蘊蓄を聞かされる。こんな本を買う層は、そのへん先刻承知じゃないかと思うのだが。
そしておもむろに各論に入り、北から南へ攻めていくも、文字どおり各論に終始する。系図は「略」ばかりで家康の娘以外の妻はほとんど書かれないし(藩どうしの結びつきを知っておく上で、そこが何より重要だというのに)、諸藩の継承をめちゃくちゃにしたという家斉の息子たちも多数登場するのだが、「○代藩主」と語られるだけで、その点に言及するでもない。
横の連係に触れなけりゃ、代々の当主なんて平凡・平凡・夭折・堅実・暗愚・たまに名君くらいのくり返しで、どの家もそんなに大差ない。それを四十回も読まされては、「かなり苦痛」と言って許されるのではないだろうか。
やりたいことはわかるが、もう少しサービス精神を身につけないと、教科書としても売れないよ、と。
「略」の部分が省かれていなければ、あるいは資料的使いみちがあったのかもしれないが。
2011/1/18〜1/19読了