- Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344981942
作品紹介・あらすじ
平成20年の犯罪件数は253万3351件。被害者家族はマスコミ取材による二次被害で心の傷が癒える間もないが、実は加害者家族も凄惨な生活を強いられる。身内の犯罪を機に失職や転居を余儀なくされるだけでなく、インターネットで誹謗中傷され、写真や個人情報まで流出される。そんな過酷な現実を受け止められず、自殺する人も多い。事件への自らの非力を嘆き激しい後悔に暮れる加害者家族も多いが、そもそも身内の犯罪を未然に防ぐには限度がある。まさに他人事ではない実態を明らかにした、衝撃の一冊。
感想・レビュー・書評
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先日読んだ釈放前教育でも触れられており、前から気になっていたこともあって読みました。
犯罪が生み出すのは、被害者と被害者家族、そして加害者家族もまた然り。
身内の犯罪のせいで失職や転居を余儀なくされ、昨今はSNSでの特定や拡散ももはや当たり前となって誹謗中傷の悪意に晒される。自殺してしまう人も多い。
「連続幼女誘拐殺人事件」「神戸連続児童殺傷事件」「和歌山毒物カレー事件」等々、本書ではこれまで実際に日本で起きた事件の、犯人逮捕後に加害者家族が突き落とされていった底なしの悲劇がたくさん紹介されている。
加害者が絶対悪いことは分かっている上で、加害者家族もこれほどの罰を受け迫害されなくてはならないのだろうか?と考えると言葉に詰まる。
音を立てて崩壊していくようなその後の凄惨な生活を知るにつけ、加害者家族を社会でどのように扱っていくべきなのか、というのは本当にすごく難しい問題だと改めて感じさせられた。
今後私たちが被害者/被害者家族になってしまう可能性があるとして、加害者/加害者家族になってしまう可能性もまた同じようにあるのだと思うと怖くなった。
加害者家族がどのような状況に置かれているのかをこうして知ることは、絶対に加害者になってはいけないという確固とした意志、家庭や子育てにおける関係の築き方を見つめ直す動機にもなった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者には、ほかに「新聞消滅大国アメリカ」などの著書がある。
多くの事例が書かれており、衝撃を受けた。
たとえば、和歌山のカレー毒物事件の犯人宅が放火されたとか、幼児殺害事件の犯人の父親が自殺したとか。
加害者の家族へのいやがらせが日本では多いが、米国では逆に励ましという形で他者が係ることが多いとの記述があったが、この辺も衝撃を受けた。 -
犯罪の加害者は責められても文句はない。だが、その家族はどうなのか。加害者が未成年であれば、その親が責められても仕方のない部分はある。でも、加害者が大人の場合その家族の責任とはどれほどのものなのか。わたしにははっきり答えることはできないなと思った。ただ、アメリカの例のように、加害者の家族を激励できるかといえばそれも難しい気がするし、加害者に匿名で嫌がらせをする人達には全く同情できない。
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年間139万件(日本は7万件)もの凶悪犯罪が起きているアメリカでは、加害者家族に対しての視線は決して冷たくなく、嫌がらせどころか励ましの手紙が届くという点に驚いた。犯罪を犯した本人は相応の刑罰を受けるべきだが、本来家族は関係ないと私は思う(未成年者の場合、親の責任はあるかもしれないが)。にも関わらず、この国では加害者家族も真っ当に生きられなくなる。それはやはりどこかこの国の歪みを表しているように思う。
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日本社会では「善人の悪意」が多いと感じる。
自分は正しい。自分たちは関係ない。悪人は不幸になるべき、抹消すべき。
そんな意識が更正を更に難しくし、再犯を招く。
「善人」が犯罪を作っていることもあると自覚して欲しいし、まさにバッシングなどの行為が犯罪に等しいものであることを知って欲しい。 -
刑事事件の加害者でも被害者家族でもない、加害者家族に焦点を充てた一冊。
当然、加害者家族として責任を感じつつも、マスコミやインターネットの過熱報道もあって、必要以上に大変な実態を知ることができた。
また、印象的だったのは、アメリカの銃乱射事件で加害者家族に山ほど手紙が来たけど、ほぼ全て励ましの内容だということ。
もちろん、日米双方で良し悪しはあるものの、こと加害者報道の捉え方においてはアメリカ人の方がはるかに成熟してると感じた。 -
被害者にも家族がいてその苦しみははかりしれない。それを考慮しつつも基本は加害者家族中心の本だから、読んでる途中や読み終えた直後は加害者側のことばかり考えてしまう。
苦しくて泣いた。
このままだと量多いけど、抜粋簡略版を小中学校の教材とかにしたら犯罪の抑止力になると思う。 -
加害者の息子を抹殺しろとか、姉をレイプしろとか、親を市中引き回しにしろとかいう人たちって、自分を神だと思っているのだろうか?
匿名で、本来見知らぬ人である加害者家族を責める人って、警察も司法制度も信じていない人たちだと思います。
法治国家の敵は、誅伐気取りで弱い者いじめをする烏合の衆。被害者家族はもちろん、加害者家族に無言電話や脅迫電話をかける輩を、法の下で罰することができたらいいのにと思いました。
しかし、多勢に無勢で、反撃できない相手に四六時中の攻撃をする精神って、同胞として悲しい・・・。 -
自分自身は犯罪をしていない。でもしかし、もし仮に自分の"身内"が犯罪行為に関わっていたとしたら…。
今までその立場上、焦点を当ててこられなかった加害者家族。彼らがある日突然直面することになる「加害者家族」としての現実に迫りながら、海外や日本での加害者家族への支援策などについても紹介されている。特に実際の事件の加害者家族を追った部分は読むだけで息苦しい。
「加害者家族」というタイトルながら、単に「加害者家族」を追ったルポという枠にとどまらず、日本社会の特質、つまり顔の見えない「世間」というものが持つ力をもあぶり出している。関係なき者が振りかざす正義。ある事件と直接的な関係を持たない第三者が正義を唱え、加害者自身だけでなく、加害者「家族」も徹底的に糾弾される。確かに、加害者家族が被害者とはまったく無関係に、何の償いもなく生きることは許されるべきではないのかもしれない。でも彼らを糾弾し、窮地に追い込むのは往々にして顔の見えない第三者なのである。償いは犯罪者とその直接的・間接的な関係者、犯罪被害者とその遺族、そして「世間」を代表した国家権力の三方間で行われるべきものではないのだろうか?そこに入り込んでくる「見えない第三者」とは一体何者なのだろうか?
本書の中にこんな記述がある。
◼️p158 西欧的な意味での「個人」は、「世間」には存在していない。西欧的な社会の概念では、一人ひとりの確立した「個人」が集まって「市民社会」を作り上げているのに対して、日本は個々人があいまいな「世間」によって成り立っているというのが、その概念の簡単な説明になる。
あいまいな「世間」、顔の見える相手に対し、顔の分からない状態で非難するのはやはり理不尽だ。彼らは第三者は、直接的な関係を持たない事件の中に自分自身を投影し、そして彼らの中で生じた怒りを現実の加害者や加害者家族にぶつける。
たとえ家族の一員が罪を犯しても、やはり他の家族は生きていかなくてはならないのである。その生き方について、正しい唯一の答えはないのかもしれないが、この本は考えるきっかけを与えてくれる。自分には本書の中の引用部分が一番納得できた。
◼️p191 「でもいまの自分は被害者でも加害者でもない。第三者だからこそ社会の中でやれること、やるべきことがあるのだと思う」
第三者として、どういう態度であるべきだろう?