下山の思想 (幻冬舎新書)

著者 :
  • 幻冬舎
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  • Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344982413

作品紹介・あらすじ

どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国をめざす道はない。敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。

感想・レビュー・書評

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  • この作品は、2011年の東日本大震災後に書かれたもの。
    五木さんは1932年生まれなので、この作品を書かれた時の五木さんの年齢は、79歳位。

    55頁に、「明治期の作家たちは、みな鬱をかかえて生きてきた。不機嫌な時代といわれるゆえんである」と書かれている。
    そして、56頁に、明治期の流行語の一つに、「暗愁(あんしゅう)」があったと、書かれている。

    今では、「暗愁」などという言葉を使うことはないし、私も初めて聞いた。
    が、漱石も、鷗外も、荷風も、この語を用いてみずからのなんともいえない鬱屈した感情を託したという。

    「暗愁」を検索していて見つけたことだが、やはり、五木さんが、ある講演で次のように語ったらしい。

    鬱を、現象的に表現すれば、確かに、気分が落ち込み、萎えるということになりますが、その裏側には、じっとエネルギーを貯め、反転成長を期するために、人知れず力を蓄えるというプラスの意義があることを、かつての人間は知っていました。

    鬱というのは、いずれは回復するもので、鬱状態にあるのは、充電中ということなのか。

    これは、鬱状態の私にとっては、嬉しすぎる発見!


    167~168頁。
    今様のことが書かれている。
    今様とは、、平安末期~鎌倉時代初期にかけて、大流行した歌謡。
    後白河法皇が編者である『梁塵秘抄』は、今様集だが、その中に、

    遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ。

    がある。


    219頁には、タンゴのことが書かれている。
    アルゼンチンタンゴとコンチネンタルタンゴ。

    どう違うが調べると、コンチネンタル・タンゴとは、アルゼンチン・タンゴに対して、ヨーロッパで作られたタンゴを指すための和製英語、だとか。

  • 夫の本棚から選んだ一冊。

    五木寛之さんの本は2冊目です。
    たくさんの作品を書かれているのに、小説は読んだことがない。
    1冊目も夫の本棚にあった【人間の覚悟】だったから。
    五木さんの書かれるこの類の本がしっくりする年代に入ったのだと思う。

    戦後の日本の発展は凄まじかった。
    敗戦国でありながら、他国が驚くスピードでGDP世界第2位にまで登りつめた。
    それが中国に抜かれ、じわじわと下降線をたどっているような実感がある。
    登山と同じ、頂上を目指してただがむしゃらに登ってきた。
    しかし、登ったからには当然、下らなければならない。

    五木さんは、「戦後六十年の「登山の時代」が終わって、「下山」にかかる時代にはいった」と言われる。
    「すごいことというのは、相当な無理をしなければできないことである。そして、当然のことながら、ずっとすごいことを続けることはできない」とも。

    高度経済成長を経て、豊かな国になった日本
    しかし、その過程で見て見ぬふりをしてきたこと多々あっただろう。
    そのつけが、これからやってくる。
    だからと言って、滑り落ちては元も子もない。
    五木さんは言う。
    「日は、いやいや沈むわけではない。堂々と西の空に沈んでいくのだ。それは意識的に「下山」を目指す立場と似ている」
    私たちが目指さねばならないのは、「見事に下山する。安全に、そして優雅に」

    自分自身もそうだと思った。
    見事に下山したい。
    安全に、そして優雅に。

  • 本書が出版されたのは2011年。東日本大震災が起きた年です。あの頃すでに「下山の思想」を語っていたのです。あれから11年、私たちはコロナという新たな脅威と格闘しています。未だに先が見通せないし。2022年はさらに第三次世界大戦が現実味を帯びてきてしまっています。「下山の思想」などと悠長なことを言っている場合ではなく、「崩壊」とか「滅亡」という言葉のほうが脳裏にチラついてしまうのです。

    作者の五木寛之は1932年生まれ。奇しくも先日亡くなった石原慎太郎とは同年同月同日の生まれのようです。ちなみに大江健三郎は3つ下の1935年生まれ。谷川俊太郎は1つ上。戦後日本を支えてきた人たちも多くが鬼籍に入られてしまいましたが、まだまだ現役で活躍している人もいる。

    五木寛之というと私は小説よりも「大河の一滴」「人生の目的」を書いたエッセイストとして身近に感じています。この本もそうですが、人生に迷ったとき、彼の言葉が生きる指針を与えてくれるのです。

    今年、父が脳梗塞で倒れ、自宅療養しています。母や自分のことは分かるようですが、それまで日常的にしていたことのほとんどができなくなってしまいました。やがては家族の顔も忘れてしまうことでしょう。私自身も昨年は、それまでに経験したことのない痔の手術をしたし、仕事を休職し、高血圧の薬も飲み始めました。体に老いを感じ始めたときに、この本と出会いました。この先の生き方を考えていきたいところです。

  • 上り坂、下り坂、栄枯盛衰、そして人生において、社会でも、国家にも当てはまるだろう。改めて、下山と名をつけ、語られる内容には、大きな意味があるのか?大戦後、日本は発展を遂げ、世界でも屈指の経済大国になった。バブル、経済低迷、近隣諸国の台頭、中国の発展。今からは、緩やかに下山もよいではないか?
    同様のことは過去の歴史の中で繰り返されてきたことだと思う。先哲の意見を参考にしたいと考えるものである。


    疑問
    ・現代では60歳(定年)が下山を始める歳か?
    ・下山は、あきらめや放棄ではなく新しい物差しで人生を成熟させるものである。ゆっくりと振り返りながら、到着点では安心。善悪という二者択一の決め方は当てはまらないときがあるのか?


    民という字の語源について
    アベック・ラブホテル:今では使わない言葉

  • ひとが歴史にひかれるのは、そこにノスタルジーをおぼえるから。郷愁を自信をもって楽しもう。

    自然の風景にその美しさに感じるものも限りなくノスタルジーに近い。

    私も下山の途中である。

  • 「下山」は高い山を一度制覇したものが使う言葉であって、
    登ったという実感がないものにとってはいささか理解がし辛い。
    戦中戦後を越えてきたという筆者はまだまだ上から目線だ。
    いま「下山」という言葉を使わなくても、
    バブルが終わった瞬間に大抵の人間は危機感を感じただろう。
    「遅いよ、五木先生」…読みながらそう呟いてた。
    思想本というより散文集として読めばそれなりに面白い。
    ひとつ反論させていただければ、
    日本には「スパシーボ」という言葉はないが
    「いただきます」と「ごちそうさま」という言葉がある。
    それは素晴らしい文化なのではないだろうか。

  • <印象に残ったこと>
    *「下る」ということに対しての軽視の感覚があるようだ。
    *下山しながら見えるもの
    *登山行のオマケのように考えられていた下山のプロセスを、むしろ山に登ることのクライマックスとして見直してみたい
    *頂上をきわめたとは、下山しなければならない。それが登山というものだ。
    *私たちは沈む夕日のなかに、何か大きなもの、明日の希望につながる予感を見る
    *下山の過程にさしかかった、そして、突然大雪崩に襲われた。
    *少年よ、大志を抱け
    *下山に失敗すれば、登山は成功とはいえない。登って、下りる、両方とも登山であり、山は下りてこそ、次の山頂を目指すことができる。
    *人は生まれながらにして、四百四病を内側にかかえて生きるという禅の考えかたには正しい。人はある意味で、すべての病人である、ともいえるだろう。私たちの体の中には、その両者が混在し、しかも時々刻々と変化しつつ年を重ねていく。

  • うーん…。
    筆者と同年代なら面白いのかな?
    なんかこう、目から鱗!みたいな、導いてくれる!みたいな何かを期待しましたが、そういうのはありませんでした。
    面白ければ、新書は一日で読了しますが、これは進みが鈍かったです。
    「下山」という発想に惹かれたから読み始めたので、言いたい事は分かるのですが、それは一度登ったからこそ出るモノであって、登ることすら許されない、というかそもそも登る、下りるという概念がない、私達のような世代にはピンとこない、どころか傲慢すら感じさせるモノなのではないかと思います。
    筆者の靴談議まであって、なんだかな~という感じです。

  •  五木さんが最近書かれた文章をまとめた本です。タイトルが五木さんらしくて,すぐに手に入れました。
     頂上を目指して生きてきた日本人はこれからどこへ行くのか。復興というのはもう一度山を目指してひたすら上り続けることなのか。そうではなく,山から下りていく思想こそ,今後の日本には必要ではないのか,そう説いています。
     これからも,私たちはやっぱり「世界で一番」を目指すべきなのでしょうか。何よりも(人の命よりも)世界で一番の経済大国を目指してきた結果が今回の大震災につながったとすれば,レンホウ大臣に言われなくても,そろそろ私たち自身で気づくべきなのだと思います。
     それは決して情けなくて覇気のない道ではなく,新しい風景を余裕を持って感じながら進んでいくことができる道なのだと五木さんは教えてくれます。
     本書の文章は,たぶんいろいろなところに書かれた小編をあつめたものなので,同じような文章が重複して出てきて,ちょっと物足りないと思う方もいるかもしれません。
     

  • GDPが一時は世界第2位となった日本。
    一方で失われた20年と言われる現在。

    筆者は日本の人口とGDPを世界の人口やGDPと比較し、無理をしてきたのではないかと指摘する。

    高度経済成長からバブルで山頂に達し、失われた20年と言われる下山の真っ最中だった日本。
    その下山中を襲った未曾有の大震災。

    あの震災は明らかなターニングポイントとなった。
    復興を通じて日本は昔のような経済的に豊かな国を再度目指すのか。
    それとも、経済以外の豊かさにも目を向け、これまでとは違う枠組みでの豊かさを目指していくのか。

    筆者は下山することの難しさを語る。
    高度経済成長やバブルを経験した世代は経済的な豊かさに囚われ、その再来を夢見てしまうからだろう。

    経済が成長し続けると盲信し続けず、幸せとは何かを考え直す岐路に立たされているのかもしれない。

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著者プロフィール

1932年、福岡県生まれ。作家。生後まもなく朝鮮半島に渡り幼少期を送る。戦後、北朝鮮平壌より引き揚げる。52年に上京し、早稲田大学文学部ロシア文学科入学。57年中退後、編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門筑豊篇』ほかで吉川英治文学賞、2010年『親鸞』で毎日出版文化賞特別賞受賞。ほかの代表作に『風の王国』『大河の一滴』『蓮如』『百寺巡礼』『生きるヒント』『折れない言葉』などがある。2022年より日本藝術院会員。

「2023年 『新・地図のない旅 Ⅱ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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