- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344982659
作品紹介・あらすじ
「ふつうの幸せ」が難しい時代だ。憧れの仕事、理想の結婚、豊かな老後…そんな選択ができる人はごく少数。日本は、個人の努力とは無関係に、就職できない人、結婚できない人、孤独のまま死んでいく人がますます増える社会になる。そこでは「人並みになれない自分」に焦り苦しむより、人生を半分あきらめながら生きることが、心の奥深く満たされて生きる第一歩となる。自分ではどうにもならない現実に抗わず、今できることに集中する。前に向かうエネルギーはそこから湧いてくる-。臨床経験豊富な心理カウンセラーによる逆説的人生論。
感想・レビュー・書評
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「あきらめる」という言葉をキーワードに、生き方を語る明治大学教授の一冊。この先生の本を読んでみたかったのと、タイトルに惹かれて読んだ。生きるとは、小さな「あきらめ」を積み重ねていくこと(P3)という書き出しからはじまり、今の時代を生きる上でものすごく大事なアドバイスをもらった気がする。生き方のカウンセリングを受けているよう。「あきらめる」と言いながら、それでも生きていくという前向きなメッセージを感じる。半分はあきらめても、半分は本気で生きる。
・人生の大半を占める「どうしようもないこと」「なるようにしか、ならないこと」を少しずつ、少しずつ、じょうずにあきらめながら、心のいちばん深いところだけはしっかりと満たされた生き方をする。(P14)
・「深く満たされた人生を生きていくには、どうしても必要なこと」にだけ、こだわって、本気で生きる。(P41)
・私たち、無力な人間にできるのは、ただ1つ、「今日1日が、人生最後の日になるかもしれない―そんな思いを胸に刻んで、日々の一瞬一瞬に心を込めて生きること、だたそれだけ(P95)
・「未来の自分」のために、今この瞬間を犠牲にしている(P104)
・「大切なあの人」と過ごした「大切な思い出」―それはだれがどんなことをしても消し去れない。それが1つでもあるならば、人は自分の人生を深いところで肯定しつつ、生きていくことができる。(P144)
・「過去の願望」や「未来への空想」に逃げない。「ただ、この瞬間を、心を込めて生きること。」「いつ突然、人生の終わりが訪れても、思い残しがないように、日々を生きていくこと(P198)
なお、「まあいいか」「しょうがない」って、すぐに口にする気がするけど、それも悪くないんだなぁと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
タイトルや導入部分はただネガティブで辛くなりそうですw ですが読み進めるに、人間は本来ネガティブであり、社会もネガティブにならざるを得ない状況で、以前のようにポジティブ礼賛では生きにくくなっていることが説明されます。
そのような時代にどう生きるの?一つの指針として「上手にあきらめる」ことが書かれています。
個人的には苦しみを脇に置いて客観視する「脱同一化」というワードが参考になりました。人間は一日に六万回もの自動試思考が頭に浮かび、ネガティブな内容が多いそうです。そのときに脱同一化を習慣づけておけば、日々落ち着いた心で過ごせるのではと思いました。 -
『人生に意味はあるか』や『〈むなしさ〉の心理学』など、生き方に関する多くの著作を世に出して、心理学者・教育学博士・カウンセラーなどの肩書きを持つ諸富氏が唱える「半分あきらめる力」。「あきらめる」とはギブアップするという意味ではなく、物事を「明らかにする」ことであり、人生の半分を占める「どうでも良いこと」で悩まずに、それらを積極的にあきらめて、残り半分の「満たされた人生のために必要なこと」だけに集中して頑張って生きるということ。「理想の自分にはなれない」「子供は親の思い通りにはならない」「最高の恋愛や結婚なんて夢」..... 頑張り通してあきらめない頑固な生き方を良しとせず、人生の半分を上手にあきらめる柔軟な生き方を提案する。
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心に響くフレーズ!!
①「本当にしたいことだけにこだわって生きる。他のことには執着しない」②「いつかしたいと思っていたことがあれば、先延ばしせずにどんどん行う」 -
すべて、ただ、
あきらめるしかない、のです。
しかし、大切なのは、
多くのことをあきらめた上で、
「にもかかわらず、なおも、
本気で生きていく」ことです。
(諸富祥彦/教授・心理カウンセラー
『人生を半分あきらめて生きる』より)
* * *
がんばっても 必死になっても
思いどおりにならないことがある
肩に力が入って
心も体もガチガチになるより
「ま、いいか」「仕方ない」
「やるだけのことはやった」と
どうしようもないことや
なるようにしかならないことを
あきらめたり
手放したりすることが大事
そして ときには
「あきらめきれない自分」がいることも
そのまま受け入れて あきらめる
あきらめを受け入れて
自由になったとき
それでも どうしても自分が
大切にしたいものが見えてくる -
「あきらめる」という言葉は明らかにネガティブな言葉で、どこかでそう感じていながらも、体面上はそういった仕草・振る舞いを見せない人は多くいるのではなかろうか?
私自身、読んでいるうちに「あきらめる」という言葉が多用されすぎていることに嫌悪感をいだいたが、「あきらめる」を「受け入れる」という言葉に置き換えたところ、ものすごく受け入れやすいものとなった。
人との出会いや別れを含め、自分にとっての行動・思考、そして起こるべく出来事はすべて一定の摂理の中で起きている。目に見えない何かが関係し、その関係性でもって関係を結びつけている。
人は今後起こること、そしてすでに起こったことに対し、規定事実を変更させることはできない。それでも、その事実を自分の中でどう受け止め、どう咀嚼していくかということはできる。感情の波にまかされすぎず、また頭でっかちにもならず、時の流れるまま、風の吹くまま、心穏やかに自分のこれまでの人生、そしてこれからの人生に向き合っていきたいものである。 -
読了
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なーんだかなー、そうなのかー。
なかなか悲しい現実を書いてきたな。
努力は報われない世の中なのかな。。
とにかく、、、
旦那のことは、諦めて生きていこう。 -
■「人生はあきらめであり、あきらめこそが人生である」■
なるほど。シンプルだが噛むほどに味わい深い。この言葉、オリジナルはエリザベス・キューブラー・ロスのもので、著者が「喪失」を「あきらめ」に置き換えたものだ。
本書はいくつかの代表的なシチュエーションを例示する中で、がんばりすぎることの害悪、あきらめることの有用性、その考え方や方法論を説いたもので、その趣旨にとても共感できる。人生うまくいかなくてもう疲れたわ〜とか、自己啓発本はもうお腹いっぱいって人に読んでみてほしい。
ただ前半、「ふつう」に囚われることについて次のように説かれており、違和感を覚えた。
現代日本人は「ふつう教」の信者。「ふつう」という幻想に囚われて生きるから苦しい。あなたが「ふつう」と考えているものは、そんなに「ふつう」でもないですよ。現在は多様な価値観が存在するのだから、あなたの考える「ふつう」はすでに少数派ですよ。だからもう周りと比較するのはやめて早くあきらめて安心しましょう。
おそらくこの本を手に取る多くの読者は、-少なくとも僕は-そんなまやかしの答えを求めているのではない。
あきらめることができるか否かは、本質的には「ふつう」か「ふつうでない」かの問題ではないと思う。理不尽な事実、嫉妬、挫折、後悔…。頭ではあきらめ、受け入れたつもりでも、心の奥深くジメジメした場所にはそれらが毒蛇のごとくとぐろを巻いており、そいつが鎌首をもたげるたびにどうしようもなく苦しくなったり悲しくなったりするのだ。
理屈や哲学的思索だけでそれを抑え込む、あるいは見ないふりをするには限界がある。そんな時に頼るべきものは宗教やスピリチュアリティしかないのではないだろうか。実際に本書でも冒頭のキューブラー・ロスのほか、『夜と霧』のヴィクトール・フランクル、神学者の言葉や仏教の教えが随所に引用されている。そういった観点に絞った方が散漫にならずに伝わりやすいし、理屈を並べるより印象に残るのではないかと感じた。
いずれにしろ悩みや苦しみは人それぞれ。本書も人によって心に響く箇所は違うと思うが、どこかにあなたのための文章が用意されていると願っておすすめしたい。 -
内容には理解のできる部分がたしかにあります。
ただ、表現が独特であまりにも読みにくい…
諦めないことが褒められる現代では、人並みになれない自分に直面した際に、挽回を図り、それがうまくいかないことがさらに苦悩を招き…と悪循環が発生する
それがやがて慢性的なうつの症状を引き起こしていく
ならば、人生を半分あきらめながら「ま、いっか」という心持ちで、自分にとって本当に大切なこと以外はあきらめることで、自身の使命を明らかにして生活の質を高めていこう
というのが、本書の内容であると思う…たぶん…
著者が心理カウンセラーということもあり、苦悩に対して正面から立ち向かうのではなく、客観的に向き合う術の大切さを書かれていることはとても参考になった。
一方、冒頭で書いた通り抽象的な表現が多く何を訴えたいのかなかなか理解できない印象が強かった。
加えて、プロローグで語られた内容が各章の冒頭に繰り返し差し込まれており、ページ数に対して内容が薄いように感じた。
人生をあきらめて生きる一方で大切なものと向き合っていくというのがテーマではあるのだが、前半部分ではあきらめて生きれない人々は苦しむという部分ばかりが強調されており、主張が理解できず読む手が止まってしまいそうになった。
本書のメッセージが決して誤ったものであるというわけではないが、読み手を選ぶのではないだろうか。