『永遠の0』と日本人 (幻冬舎新書)

著者 :
  • 幻冬舎
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  • Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344983328

作品紹介・あらすじ

「妻と娘のために必ず生きて帰る」と言い続けながら特攻を志願した、『永遠の0』の主人公・宮部久蔵。その強烈な生と死は、「特攻とは何だったのか」「日本人はなぜあの戦争を戦ったのか」という、我々が向き合うことから逃げてきた問いをつきつける。映画『永遠の0』から、『風立ちぬ』『終戦のエンペラー』、小説『永遠の0』、そして特攻隊員たちの遺書へ。丹念な読み解きを通して、「戦後」という見せかけの平和の上に安穏と空疎な人生を重ねてきた日本人に覚醒を促す、スリリングな思索の書。

感想・レビュー・書評

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  •  献本でいただいた一冊となります。著者は『約束の日』の小川榮太郎さん、非常に興味深く&大きな期待で拝読いたしました、感謝。 <(_ _)>

     つい先日、幹事として参画している読書会にて「日本は先の大戦の総括を未だ成してない」との話題があがりました。そういった意味では70年が過ぎようとしてる今でも“歴史”として昇華できていないのかなと思いますが、、今がその過渡期かな、なんて風にも感じ始めています、それはこちらを読んだからでしょうか。

     題名にもある「永遠の0」についての解題としての位置付けられる一冊ですが、その他にも2013年に公開された「風立ちぬ」と「終戦のエンペラー」の2本とも対峙させているのが、なかなかに興味深く。

     “ 私は、(宮崎映画の)いかがわしさを語らねばならない。”

     なんてフレーズがなかなかに衝撃的ですが、述べられている事は真っ当です。「風の谷のナウシカ」も引き合いに出されていますが、共通するのは「宮崎映画は“歴史”から逃げている」との点でしょうか。

     “(崇高な)理想に本当に近づこうとすれば、
      まず現実を直視しなければならない”

     ようするに、現実の問題を認識することなく観念の世界でとどまっているのだと、、宮崎さんの映画は痛いほどに美しく神話的で、フィクションの世界にしか存在しえない“理想の世界”であると。故にこそ、現実と向き合わないといけない我々から、一つの“夢”としてあれほどの支持をうけているのでしょうか。

     私も「風の谷のナウシカ」はもとより、「天空の城ラピュタ」、「紅の豚」、「千と千尋の神隠し」などなど、繰り返し観たくなるジブリ映画はたくさんあります。もっとも宮崎監督ご自身でも、別の著書の中で「トトロを100回も見ていると言う人にゾッとした、そんな時間があったら現実の自然に触れてほしい」と述べられているように、理想と現実の境目は認識されていると思いますが。

     “(アメリカにとっての)日米戦争は「日本の卑劣な真珠湾攻撃」に尽きる”

     「終戦のエンペラー」で感じられるアメリカの歴史認識とのことですが、、最近では、軍港であったハワイ・真珠湾に空母が一隻もいなかったこと、反撃までの即応時間が奇襲にしては異様に早かったことなど、いろいろと検討してみたい材料が出てきています。「永遠の0」でも、宮部に「真珠湾には空母が一隻もいなかった」と語らせていました、そういえば。

     “(原爆投下や東京大空襲は)言うまでもなく一般市民の無差別殺戮であり、
      アメリカが犯した最大の戦時国際法違反だ”

     終戦後の“東京裁判”でも同じような事は指摘されていましたが、、黙殺されてしまっています。その結果としてあるのは、日本は“絶対悪”との刷り込みで、精神的な占領はいまだに継続中との言い様にもつながります。

     その象徴の一つとして“特攻”の狂信性なども言われていますが、、対象からして異なっています。特攻はあくまで戦闘のための艦船を相手にする、戦闘行為の延長であったとの点を忘れてはいけないと、このことは「永遠の0」の劇中でも述べられています。

     もちろん“特攻”という作戦自体を肯定するものではありません。十死零生、そんなものは作戦とは到底呼べない代物であることは変わりません。それでも、一般市民を対象にした原爆や東京大空襲と並べて語られるものでもないかと。

     “(日本は)エネルギーがほしかったので、領土がほしかった訳ではない”

     戦争の理由に資源が大きなファクターは“資源”であり、これは、今この瞬間の日本周辺の状況を見ても、同じ現象を確認できるのではないでしょうか。この事を見失うと、70年前に一度失敗したことを再び繰り返すことになります。

     なんてことは『日米開戦の真実』でも述べられていて、面白いところでシンクロするなとあらためて。この辺り「日本人にとっての“大東亜戦争”を歴史としてとらえようとしているのか否か」で、奇しくも2013年に揃って公開された「風立ちぬ」「終戦のエンペラー」「永遠の0」の3本の見方が変わると、述べられています。

     「風立ちぬ」と「終戦のエンペラー」は結局見れていませんので、どこかで観ておかないとなと、、そして、もう一度「永遠の0」が観たくなりました、また違った見方ができると思います、そんな風に感じた一冊です。

  • 映画「永遠の0」「風立ちぬ」「終戦のエンペラー」の解説あるいは批評かと思って読みだしたが、直ぐにそれが誤りだったことに気づかされる。著者はこの3作品を俎上に載せて、戦前(風たちぬ)・戦中(永遠の0)・戦争直後(終戦のエンペラー)の時代を語ろうとしている。
    穿った見方(読み方)をすれば、先の(太平洋戦争でなく)大東亜戦争や特攻の賛歌ではと、誤解を受けやすいが、問題の切り込み方や、論理展開が半端でなく、我々がこれまで目を背けていた「あの戦争」は何だったを考えされられる。
    個別の映画の批評としては以下のような内容になっている。
    「風たちぬ」
    著者は宮崎駿の中に内在する「戦後の平和日本」の矛盾を指摘する。つまり「風の谷のナウシカ」はその自己矛盾に身悶えし、それがリアリティを保証しているが、「風たちぬ」は零戦という戦争の申し子を主題に選択したにも関わらず、戦争とは一切関係なく「世界一美しい飛行機」作りに邁進する主人公・堀越二郎を描いていると。『彼(宮崎)は零戦を生むに至る歴史を正視しない』
    この著者は「風の谷のナウシカ」が好きなのが行間から伝わってくる。そういう作品を作った宮崎駿が最後の仕事での、中途半端さへの苛立ちが聞こえてくるようである。

    「終戦のエンペラー」
    この映画は、「偽りと不信の日米関係」と切り捨てている。具体的には戦後のアメリカによって行われた検閲問題に迫っている。

    「永遠の0」
    ここで、著者の言いたい事が爆発している。
    小説にあるが、映画では切り捨てられているものに焦点をあて、両者の違いを丹念に探っていくことにより、主人公宮部の苦悩、大東亜戦争、特攻・・・家族・祖国を守るということは何だったのかを正面から我々に問いかけてくる。

    私は必ずしも著者の考え方に同調するわけではないが、これまでの我々が目を背けてきた「現代史」あるいは「戦争」および「戦後の平和」とは何かと言う問題を、改めて考えさせてくれる本であった。

  • 年末に「永遠の0」を観て以来、その余韻をずっとひきずっていたところこの本を見つけたので読んでみました。
    そうだ、原作の宮部さんはこういう人だったんだよなぁ~、また原作を読み返したくなりました。
    「風立ちぬ」については、まえから宮崎駿の作品ってなんか上から目線っぽい感じがしてなんか好きになれなかったんですけどその理由が具体的にわかり、やはり自分は宮崎駿は嫌いだと思いました。

  • 風の谷のナウシカは文明の進化が生んだ神話であり、文明の進化なしには生まれなかった。

  • 前半は「永遠のゼロ」、「風立ちぬ」、「終戦のエンペラー」の本と映画の感想にあてており、いまひとつと思ったが、後半は具体的な分析がされており、まあまあの内容だった。

  • 文芸評論家小川榮太郎の「永遠の0と日本人」。
    映画「永遠の0」、映画「風立ちぬ」、映画「終戦のエンペラー」、小説「永遠の0」、特攻とは何だったのか、の5つの章で構成されています。
    映画「永遠の0」の章では、最初に観た時の違和感について書かれているが、自分自身も本で読んだイメージと主人公のキャラが少し違うのと物語全体の空気に違和感を覚えてたので、その解説は大いに参考になりました。
    「風立ちぬ」の章では、宮崎駿作品が戦後日本や国家というところに直視していないところを厳しく突っ込んでいます。
    「終戦のエンペラー」の章では、この映画が俳優・スタッフたちの驚くべき無知から作られていることを詳しく指摘しています。
    小説「永遠の0」の章では、現代の読者が感情移入しやすいようにあえて宮部を傀儡とした設定しているとの事で、なるほどなと感心。
    そしていよいよ白眉の最終章。
    まず前提として特攻は非戦闘員への無差別攻撃ではなく、敵を絞り込む最大の戦果を求めて、叩くべき極点を限定した戦術であり、その意味においてテロとは全く異なる。という事。
    大西中将があえて特攻という作戦を固辞した理由として、1つはは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。2つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、5百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう」ということである。
    大西中将は8/16未明に割腹自決を行った。介錯を拒み15時間近くもがき苦しんだ末、同日夕刻に生涯を閉じた。特攻隊員への懺悔という意味もあったとの事。
    著者は特攻の成果についても従来の定説を公開されたアメリカの資料により覆しており、加えて、もし特攻がなかったなら、アメリカは大船団を引き連れて日本近海まで自由に到達し日本本土に上陸したであろう、そして戦争末期は、リンチのようなワンサイドゲームになったであろう。
    有色人種である日本人が、一方的なリンチで敗北したら、敗戦処理はどうなっていただろうか。インデアンやハワイのように国家主権そのものが半永久的に剥奪され、世界は植民地から解放されたのに、肝心の日本は奴隷の国に落ちぶれなかったと言えるか。と。
    しかしながら、この本の最初の見開きに親日家のアンドレマルローが昭和天皇に騎士道にも合い通じる武士道について語り、しばし黙られたあとのお言葉。「しかし、あなたは、来日以来、一度でも武士道を思わせるものを見ましたか」と。
    「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」現代の日本人もその精神はなくなってはいないものの7年に及ぶGHQの弾圧の占領政策により戦後、大切なものを失ってしまったようである。先人たちの尊い犠牲のうえに今私たちが享受する平和があることをかみしめつつ、この後の世に彼らの命が無駄にならなかったと思える日本になってほしいと願うばかりであります。

  • 書評がどうとか、考え方がどうとか、そんなことの前に、ここに書かれていることの現実に感じることがたくさんあった。

    70年前に何があったのか。

    小説や映画「永遠の0」は80代90代の方達と戦争を知らない世代との距離を縮めてくれた。神聖化しなくていい、同情しなくていい、ただ私たち世代が知るということ、感謝をしてもらえばいいんです。ーーどこかで読んだご老人の言葉を思い出した。

    何があったのかを知ることが大事。

  • 永遠の0を読んだときは、最終的に興ざめした部分があったけど、この本を読んでもう一回読むと違う視点から読めるのではないかと思った。
    悪くない。悪くないけど、気合をいれて読まないと、
    置いていかれてしまう本だった。
    もう少し大きくなって、長い休みが取れたら、
    もう一度読み返したい本だった。

  • 私が観た映画のことが書かれていたので学校の課題用に購入しました。永遠の0をべた褒めしすぎかなと思いましたが私もそう思ったのでまあそれはいいとして、全体的に読みやすかったし偏見があるような気もしますが戦争映画の考察としてはよい文献だったと思います。

  • 食わず嫌いはいかんと思ってよんでみたが、やっぱりまずそうなものはまずかった。
    『永遠の0』自体、現代の、歴史修正的な主義的な都合のよい解釈に立った話だと思っていて、そこで描かれている世界観に違和感を感じているんだけど、世の中的にはベストセラーだった。それの映画版について述べているんだけど、この本は『永遠の0』威を借るようなもんだよな。おまけに、非難の文脈でだけどジブリの『風立ちぬ』の威も。
    幻冬舎の本って節操がないものが多い印象でこれもその類かな。何だかブログレベルのお説を読んでいるような感じで「本」というメディアの価値を下げてると思う。

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著者プロフィール

文藝評論家。一般社団法人日本平和学研究所理事長。昭和42年生まれ。大阪大学文学部卒業、埼玉大学大学院修了。専攻は音楽美学。論壇を代表するオピニオンリーダーの一人としてフジサンケイグループ主催第十八回正論新風賞受賞。アパグループ第一回日本再興大賞特別賞受賞。専門の音楽をテーマとした著作は本作が初となる。
著書に『約束の日 安倍晋三試論』『小林秀雄の後の二十一章』『戦争の昭和史』『平成記』ほか多数。

「2019年 『フルトヴェングラーとカラヤン クラシック音楽に未来はあるのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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