なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 仏教と植物の切っても切れない66の関係 (幻冬舎新書)
- 幻冬舎 (2015年3月20日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344983731
感想・レビュー・書評
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仏教誌に連載されていた、仏教にまつわる植物の話色々。
曼珠沙華が元は食用として持ち込まれたなど、興味深い話が盛りだくさんだった。
人は古来より植物の特性を知り活用してきた。いつの間に自然は遠いものになってしまったのだろう。
個人的に納得したのが日本人の植物に対する価値観。
教義や体質や嗜好ではなく「動物は可哀想だから」と言う菜食主義者の話には違和感を持っていたのだが、植物にも動物と同じように命があると感じるのは日本人の自然観からくるもの。
そこから植物も食べた人間が成仏すれば、その人間の糧となったものも全部成仏するという考え(植物も成仏する)となったそう。
雑草も活用し、その言葉も「雑草魂」などとポジティブに活用するのが日本人ならではらしい。
植物の話から命とは、生きるとは、と宗教らしい話になっていくのは掲載誌ならでは。
でもそれが押しつけがましくなく、植物すごいという印象で読み終えることができた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
仏教誌に連載された植物のお話し。そこそこと植物のことも仏教のことも学べる。
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稲垣氏は仏教の言葉も次々と出てきて、とても博学だな、と感じました。専門の植物学に比べると掘り下げ方が今ひとつですが、エッセイとして楽しく読ませて頂きました。
・ハスは約1億年前、白亜紀に地球に出現。恐竜が闊歩していた時代。化石として発見されている。花びらが多いという古代植物の特徴が見られ、おしべとめしべがやたら多くごちゃごちゃしている。
・哺乳動物は辛いトウガラシを食べられない。鳥はカプサイシンを感じる受容体がないため、食べられ、遠くにタネを運ぶ。
・もともとは仏教で肉食が禁じられていたにもかかわらず、現在、中国や韓国の料理に肉を使うのは、蒙古支配の影響。
・仏教伝来以降、日本で肉食が解禁されたのは、明治時代。
・「雑草」という概念は、明治時代以降に持ち込まれた。
・キリスト教では、悪い草は「雑草」、よい草は「ハーブ」。
・「雑草」が褒め言葉に使われたり、「雑草」と呼ばれて喜ぶのは、日本人くらいのもの。 -
稲垣栄洋著「なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか-仏教と植物の切っても切れない66の関係-」を読む。
植物たちは緩やかに連関しながら、それぞれが環境に対して自己最適化をすることで種として生存してきました。その生態の豊かさは驚くべきもので、植物学の深遠さはまったく底がしれません。やっぱりこの世に「雑草」はありません。
p.173
「弘法大師の言葉に「医王の目には途に触れてみな薬なり」とあります。優れた医者は道ばたの雑草も薬草に見えるというのです。
アメリカの思想家エマーソンは、雑草を「未だその価値を見出されていない植物」と評しました。
こんな小さな雑草にさまざまな価値を見出した昔の人の観察眼には本当に驚かされます」
世界にはいろいろな国があって、いろいろな人がおり、それぞれが様々な価値観と問題を抱えながら生きているのだと思いますが、折り合いのつかない問題をまるっと飲み込んで全体最適のバランスをとる能力(もしくは、そうしたいと願う本能)にかけては日本人はいい線いってると思います。
でも植物の場合も、生態系として豊かさを守りながら、それを持続可能なものにしていくためには、まずは個別に変化の方向を決める思想と自己最適化の努力が必要です。
単層の護送船団方式では全滅の危険があり、やはり生態系の中における個別の多様さを認めて伸ばしていく必要がある。そこに学ぶべきところは多いと思いました。
あと、なんだか菜食主義って結局は偽善っぽいなぁと思っていたので、下の記述はスッと腑に落ちました。
p.188
「日本では菜食主義者は多くありません。日本人の多くは肉を食べなくても、植物を食べていれば殺生しているのと同じことではないかと考えます。そのため、道徳的見地型肉食禁止にこだわる菜食主義者が、どこか偽善者に思えてしまうのです。
童話作家、詩人で熱心な法華経信者であった宮沢賢治に『ビジテリアン大祭』という本があります。「ビジテリアン」とは、今でいうベジタリアンのことです。
この童話はある村に世界各国の菜食主義者の代表者が集まった際に、そこで批判者紛れ込んで祭りが大論争となってしまう話ですが、批判者が次のようなことを言います。
「命を奪うのがかわいそうだというなら、植物を食べるのもやめて餓死するといい」
植物に対する日本人の考え方は独特のものです。
そのため、「植物は食べても殺生にはならない」というインド仏教や中国仏教の考え方は、日本人には理解しにくいものでした。
しかし、植物を食べなければ生きていくことはできません。そこで、日本で広く受け入れられたのが、「草木国土悉皆成仏」という思想でした。これは、「草や木はもちろん、土や水にさえも私たちと同じように、仏性があり、成仏する存在である」というものです。そして食部は食べられることによって成仏すると考えました。
宮沢賢治には次の言葉もあります。
「一人成仏すれば三千大千世界 山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ」
一人が成仏すれば、その人が食べたものも全て成仏するという意味です。人は自らが高みを極めることによって、自らが食べたものの仏性も高まると考え、よりよく生きようとしたのです。
植物でさえも成仏するというこの考え方は、修行して初めて成仏できるという伝統的な仏教の考え方からは逸脱したものでした。しかし、古くから植物の中にも命を感じてきた日本人にとっては、腑に落ちる考え方だったのです」 -
「ナーム」という仏教誌に、7年近く連載してきた植物にまつわるエッセイを母体とする本。
だから仏教がらみの話題なのね。
第一章「仏教と縁の深い植物の謎」から第三章「心に染みる仏教と植物の話」のあたりは、他の稲垣さんのエッセイと同じテイスト。
具体的な植物を取り上げ、その生態などを解説していく。
マンジュシャゲなど、他の本で取り上げたものもある。
第四章「仏教が理想とする植物の生き方」は、これまでとは少し趣が違う気がする。
仏教や日本人の生命観などにかなり踏み込んでいく。
植物が、むしろ命が短くなる方向で進化してきたという指摘が面白かった。
仏教では意識のない植物は食べても殺生に当たらないと説くが、日本人には植物にも命を見出すので受け入れがたかったというのは、どうなんだろうか?
仏教の考え方については参考文献などあげてほしかった。 -
タイトルから、仏像がハスの花の上に座っている理由を仏教側から解説した本だと思ったが、実際は、少し違った。
様々な植物は、色々な角度、理由から仏教と密接な関係を保っていた。
それを植物サイドから解説した本。
だから、この本の中には、見知った植物、見知らぬ植物と66種類もの植物の物語が描かれている。
昔の人は、理にかなった植物の使い方をしていることを知る。
道の端に咲く小さな花々が、とっても身近に思えて、愛おしく思える。