貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」 (幻冬舎新書)
- 幻冬舎 (2024年11月27日発売)
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感想 : 108件
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Amazon.co.jp ・本 (248ページ) / ISBN・EAN: 9784344987531
作品紹介・あらすじ
自己責任ではない!
その貧困は「働けない脳」のせいなのだ。
ベストセラー『最貧困女子』ではあえて書かなかった貧困当事者の真の姿
約束を破る、遅刻する、だらしない――著者が長年取材してきた貧困の当事者には、共通する特徴があった。世間はそれを「サボり」「甘え」と非難する。だが著者は、病気で「高次脳機能障害」になり、どんなに頑張ってもやるべきことが思うようにできないという「生き地獄」を味わう。そして初めて気がついた。彼らもそんな「働けない脳」に苦しみ、貧困に陥っていたのではないかと――。「働けない脳=不自由な脳」の存在に斬り込み、当事者の自責・自罰からの解放と、周囲による支援を訴える。今こそ自己責任論に終止符を!
感想・レビュー・書評
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オーディオブックで。先天的、あるいは後天的な脳の障害や、幼少期の生育環境が、適切な福祉にアクセス出来なくさせる要因になっている。また脳の障害は目に映らないため、健常者には改善する、という発想が生まれない。何にせよ楽をしたがるわたしたちだから、見えないものの悲惨さには考えが及ばないのだ。そうぞうりょく想像力を働かせなくてはならない。
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衝撃の内容だった。そしてかつてそういう人が職場にいたことに気づいて落ち込んでしまった。やはり知らない事は罪だなぁとも。
行政で働く人たちは必読と思った。福祉部門に限らず。
ホワイトカラーの人は他人事ではないよ、との著者の言葉。切実でした。
はぁー -
発達障害をテーマにした小説を立て続けに読んだということもあり、ここに書かれていることは、腑に落ちることばかりだった。
著者自らが、脳梗塞による高次脳機能障害であり、自分ができなくなってしまったことを例に挙げていることで、説得力が俄然増している。
脳のワーキングメモリが働かない状態。
これが全ての鍵だった。
ワーキングメモリの低下は誰しもが経験することなので、だからこそ、頑張ればなんとかなると思ってしまう。できないのはただの甘えだとも思ってしまう。たって自分はなんとかしてきたから、と思ってしまう。
なんで支援ので差し伸べていのに、そんなにぐうたらなんだ!なんで約束を守れないんだ!やっぱりそういうところがダメなんだよ!
そう思ってしまう。
けれど、それとは全く違うんだ、と経験者だからこそ、著者は主張する。自分もかつてそうだった。でも今見た数字も一瞬で忘れてしまう。なにをどういう順番でやればいいのかわからないで立ちすくんでしまう。
これは、ワーキングメモリの問題なんだと。
全く次元が違うのだと。
そして、ライフハックを工夫することで、改善されることも多くあるという。この具体的な援助の方法はいい。大上段に構えて上から目線で書類を渡すのでなく、わかりやすく番号をふること。指をさしてどこに書けばいいか誘導すること。1行ずつ読むように他の行を隠すこと。
こんな簡単なことでパニックを抑えることができる場合もある。
支援の方法を変えることで、支援が生きる。
そうやって適度な依存をすることを自分も周りも許容すること。
この本が売れていて多くの人が手に取っていることで、貧困は自己責任だと切り捨てるだけの風潮が少し変わるとよいなと思う。
合理的利他主義的なことを敢えて言うと、結局は、自分たちのためにもなることだ。
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自己責任ではない!
その貧困は「働けない脳」のせいなのだ。
ベストセラー『最貧困女子』ではあえて書かなかった貧困当事者の真の姿
約束を破る、遅刻する、だらしない――著者が長年取材してきた貧困の当事者には、共通する特徴があった。世間はそれを「サボり」「甘え」と非難する。だが著者は、病気で「高次脳機能障害」になり、どんなに頑張ってもやるべきことが思うようにできないという「生き地獄」を味わう。そして初めて気がついた。彼らもそんな「働けない脳」に苦しみ、貧困に陥っていたのではないかと――。「働けない脳=不自由な脳」の存在に斬り込み、当事者の自責・自罰からの解放と、周囲による支援を訴える。今こそ自己責任論に終止符を!
☆3つけてるけど3.5をつけたい。
歳とともに 脳が疲れるということを実感することが増えてきたような気がしています。
本が読めなくなる、ドラマの内容が入ってこない。そんな時はしばらく横になって 目を閉じて脳を休めるとずいぶん楽になるのでそうしています。
けれど、ここに書かれているのは休んで治るものでは無いんですよね。
不自由な脳の存在は 確かに一般の人からは受け入れるのは難しいだろうなと思う。判断が出来ないと思います。
この本を読んで 納得した方々がたくさんいるんじゃないかと思う。
私も歳を取るにつれ どんどん不自由な脳になっていくかもしれない…
出来る限り、気持ちに余裕を持って 他人と接するように心がけたいなと思いました。
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少し前に、「風呂キャンセル界隈」という言葉が話題になった。「あぁ、面倒くさくて入れないとき、あるよね」。そう笑いを持って受け止めた人も多いだろう。しかし、それを笑えない人たちがいる。本気で風呂に入れないのだ。入りたくないわけではない。入らないといけないこともわかっている。でも入れない。どういうことか。
うつ病の兆候としてよく挙げられることのひとつに、入浴の困難がある。健常者でも夜遅くにクタクタになって帰宅し、「もういいや、風呂は明日の朝入ろう」と考えて、そのまま寝てしまう経験はあるだろう。うつ病になると、朝起きた瞬間その状態からスタートする。謎の疲労感と倦怠感。十分に寝ているはずなのに疲れが取れず、体がだるい。歯を磨く、服を着替える、髭を剃る……日常生活にさまざまな支障が出始めるが、いちばん顕著に現れるのが風呂である。
医学的には「易疲労性」と呼ばれるが、本書では「脳性疲労」という言い方をしている。脳が疲れた状態、脳のはたらきが低下している状態、つまり体じゃなくて脳が不自由な状態。この「不自由な脳」がいかに貧困と結びつきやすいか。それが本書のテーマである。
「不自由な脳」は一般に理解されにくい。それは怪我や肉体の欠損と比べて見えにくいということもある。内臓疾患でもレントゲンや各種検査の数値で可視化されるが、脳の「不自由さ」は数字や言葉で伝えることが難しい。だがそれだけではない。
著者はもともと貧困層や生活困窮者を取材してきたルポライターである。その中で、彼らには共通した特徴があることに気づいていた。時間を守らない、計画性がない、約束を破る、危機的状況なのに何もしない。なぜこんなにもだらしがないのか。でも著者はあえてそれを書かなかった。書けば「こんな人間は貧困になって当然だ」と自己責任論の燃料になり、貧困者に対する攻撃を助長してしまう。そういう危惧があったからだ。だが同時に、著者自身もその「なぜ」を深掘りせず、「結局そういう人たちなのだ」と考えることしかできなかった。
それが一変したのは、著者が脳梗塞で脳機能障害を負ってからである。そこではじめて、彼らが「やらない」のではなく、「できない」ということに気づく。冒頭の例を思い出してほしい。誰かが「風呂に入れない」と言っても、健常者は「そういうことは誰だってあるよ」と、自分にとって既知の困難の延長線上で理解してしまう。「できない」のではなく「やらない」だけ。つまり努力が足りないとしか思ってもらえない。この断絶感。
僕の話をしよう。前に勤めていた会社で隣の席だった先輩の話。その先輩は真面目で几帳面な性格だった。彼の作る資料はいつも綺麗に色分けされていて、先輩の性格をよく表していた。その先輩があるときから急に遅刻や欠勤が目立つようになった。昼頃にようやく出社しても、パソコンの画面をただぼうっと眺めている。僕は先輩の分まで仕事しなくてはいけなくなり、正直心の中では「もっとしっかりしてくれよ!」「気合いを入れろよ!」といつも毒づいていた。ほどなくして先輩は会社を辞めた。いま考えると、その先輩は間違いなくうつ病だった。それが理解できたのは、僕自身もうつ病になってからだった。
でも、そういうのは病気の人でしょ。病気と怠けてる人を一緒にしないでほしい。そう思うかもしれない。だが、著者は過去の貧困の取材を振り返って、その対象者たちに高い頻度で発達障害や精神疾患による精神科通院歴があったことを思い出す。そして何より、「確実に間に合う時間に家を出たのに約束に遅れる」「買い物でレジの表示金額を見ても財布からいくら出せばいいかわからない」といった、かつての取材対象者たちと同じ状態に著者自身も陥っていた。そこではじめて「不自由な脳」、すなわち「やらない」のではなく「できない」脳が存在することに気づく。
こうした不自由脳の持ち主は、現代的な社会生活から容易に脱落する。なぜなら、この社会は「できる脳」を基準に回っているからだ。不自由なのが体であれ脳であれ、介助も経済的支援もないまま生きていくのは同じくらい無理ゲーなのに、脳の場合は助けてもらえないどころか自己責任論の矢を向けられる。「俺たちは同じ環境でこんなに頑張っているのに、たったそれしきのことで!」というわけだ。そうやって当事者は口を閉ざす。いっそう自分の苦しさを隠す。
うつ病というと、一般には気分が落ち込む病気と思われているかもしれない。しかし、うつ病や双極性障害のような精神疾患は、もっと全般的な脳機能の低下を伴うことが多い。たとえば僕の場合、朝から午前中にかけての意識や記憶が不確かになる。自分が何をしていたのか、あるいはいま何をしているのかすらわからないことがある。こんな経験があった。頂いた桃を冷蔵庫に入れておいたので、それを食べようと思った。だが、冷蔵庫を開けたら桃がない。妻が帰宅してから「冷蔵庫の桃どうした?」と聞いたところ、驚きの答えが返ってきた。今朝僕が自分で剥いて食べていたというのである。刃物を使っていたのに、その記憶が一切ない。寝ぼけているだけだと思うかもしれないが、催眠状態のような感じで自分に保証が持てない。自分が自分でなくなってしまったようで、シンプルに怖かった。
そんな僕も夕方から夜になると、だんだん意識がはっきりして、普通の生活が送れるようになる。問題はそこだ。周囲の人間は元に戻った僕を見て、「ほら、やっぱりできるじゃん」と思う。そして、できるときの僕を基準にして「やる気がない」「サボってる」と判断する。健常者は意識はコントロール可能なものだと思っている。なぜなら、脳とはまさにコントロールする器官だからである。したがって、その脳が「不自由」になったときにどんな事態が立ち現れるか、想像がつかないのだ。
ほかにも本書を読んで思い当たるのは、中長期的な思考や判断ができないことである。僕の場合は予定を立てて計画的に実行することができない。たとえば、僕は家で家事をやりながら仕事しているが、休みの日に妻から「洗濯して」と頼まれる。これは簡単だ。ところが、平日の夜に「洗濯物が溜まってるから明日洗っといて」と頼まれると、かなりの確率でできない。やることはまったく同じなのだが、「明日の予定に組み入れる」になった途端、急に難易度が上がる。いつから始めていつまでに終わらせるか(普通はそんなこと意識せずにできると思うが)、それが思考できない。気がついたら夕方になっている。目の前のことをひとつひとつ処理していくのはできるが、To Doリストを作って優先順位をつけてやろうとすると、混乱して何をすればいいかわからなくなる。本書に出てくる建築デザイナーの女性と同じだ。あるスパンの中で自分の現在地がどこで、いま何をすべきかが思考できない。
だが、こんな僕でも誰かがタスク管理してくれれば、健常者と同じように仕事することができるのだ。いや、僕はもともとデザイナーで、デザインしたりこういう文章を書いたり、クリエイティブな作業なら普通の人より得意だという自負さえある。つまり、体の不自由な人でも適切な支援があれば社会生活が送れるように、脳が不自由な人にも支援が必要なのだ。だから、まずはその「不自由さ」を可視化すること。それによって不毛な自己責任論を終わらせること。それが本書の目指しているゴールである。 -
脳機能障害になった著者が実際に体験した「働けない脳」「不自由な脳」の実態について書かれています。
私の周りにも約束を守れない、毎回遅刻をしてくるような人がいましたが、それはもしかしたら「だらしがない」訳ではなく、「働けない脳」なのかもしれない。
この本を読むまでは、そのようなことを全く考えたことがなかったので、新たな知見を得られて良かったです。
そして、将来自分も同じような状況に陥った時に、この症状の存在を知っているか否かで心の持ちようが大きく違ってくるような気がします。 -
うつ病の真っ只中だった時、まさにこの状態だった。
書類や本が読めない、自分で取ったメモを見てもさっぱりわからない、不意の質問に頭が真っ白になる、簡単なメールの返信に半日かかる、“不安”になればなるほど頭は働かなくなる…そして、突然限界が来て休職に至った。
当時から、自分でもこういう困難があると思っていたし、ネット上を探せば同じ病気で同じように困っている人は沢山いた。だから、界隈ではこれらのことは当たり前のように共感を得ていた。
こういう辛さ、困難さを家族には説明してきたつもりだったが、おそらく、伝わっていなかった。
「あの時、この本があったらよかった」
この本を相手に手渡して、こんな風になっていると言えたらよかった。そうしたら、不安が減ったかもしれない。もしかしたら、業務調整だって出来たかもしれない。もっと早く回復出来たかもしれない。今も残る脳性疲労は、もっと少なかったかもしれない。
支援者や周囲の人、今はまだどちらでもない人(でもいつそうなるかわからない)に、ぜひ読んでほしい。そして、この困難を想像してほしい。きっと、想像してもわからないと思う。けれど、そういうことがある、と知ることで、当事者に対する見え方はきっと変わる。 -
作者の鈴木大介氏は、映画化もされた漫画「ギャングース」の作者(肥谷 圭介)が原案としたノンフィクションルポルタージュ「家のない少年たち」や脳梗塞を発症し高次脳機能障害の当事者となりつつも執筆した「脳が壊れた」の作者でもある。
同著「最貧困女子」等の取材対象となった貧困当事者たちには「約束を破る」「遅刻する」「その時やらなければならないことから逃げる」「圧倒的に事務処理的な作業が苦手で、逃げたり先送りする」等々といった共通した特徴がある。
なぜそうなのか。
「それは本人の努力不足・本人の問題」と“自己責任論”で片づけられるであろうこの問いに、作者は高次脳機能脳障害の当事者になるという経験を通して「やらない」ではなく「できない」それは脳の機能そのものに由来する事なのだと考える。
脳のワーキングメモリが小さい場合、“普通”の人ができる事が処理できずにフリーズしてしまったりする。そういう特性を持った人たちが、今まで自分の「なぜ」の対象だったのだ。
そしてこれは、生まれもってそういう特性を持った場合と、作者のように脳梗塞のような外的要因だったり、過度のストレス等のような環境要因によって後天的に起こることもある。つまり“誰にでも起こりえる”現象だ。
というお話。
―――――
「寝坊して遅刻?自己責任でしょ。」
「学歴が無いから仕事に就けなくて貧乏ですって?知らないよ自己責任でしょ。」
「仕事ができないからクビになった?自己責任でしょ乙。」
「生活できないほど貧困?知らないよどーせ今までサボってたんでしょ?自己責任だよ。」
誰が言い出したかはわからないが現代ではメジャーなフレーズとして使われている“自己責任”という言葉。
かくいう僕も“自己責任論者”である。努力しないやつがどうなろうと知ったことではない。勝手に苦しめばいいし、僕に迷惑をかけないで欲しい。今でもそう思う。
ただ、それは“自分と同じ事ができる人”を対象とした場合だ。
大人になり、たくさんの人を見て、たくさんの人と接する中で
「なぜ、あの人はこんなに仕事が遅いのか」
「なぜ、あの人はこんなに話が下手なのか」
「なぜ、あの人はこんなに簡単な事が理解できないのか」
「なぜ、同じ人間なのにこんなことも出来ないのか」
たくさんの「なぜ」を僕も僕なりに感じていたが、この「なぜ」に対して1つの解を示してくれた気がする本だった。
しかし上記に“今でもそう思う。”と書いたのは、この作者は高次脳機能障害を抱えながらもそれとうまく付き合うための努力をし続けているからだ。
作者はこの「なぜ」の対象を“支援が必要な存在”と位置付けているが、僕はその“支援”とは“努力の仕方”を学ばせ根気強く生き続ける力を身に着けさせることだと考える。
そんな事を考えながら読んだ本だった。
「貧困に悩む人の理解」のために読む本というよりは「そういう存在もいる中で、自分の取る行動をどう位置付けるか」のために読む本だと僕は思う。
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自分の悩みの本質に初めて触れてくれた内容でした。誰にも理解されず自分の中だけで消化していたことを綺麗に言語化されていて、読んでいて自分がとても救われたように感じられました。自分を責める事をやめ、自分を愛する事を少しずつ学んでいきたいと思います。
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貧困と脳にどのような関係があるのか気になり読みました。
内容は、著者の最貧困女子を水増しした内容とで、あまり新しい発見というものはなかった。 内容もかなり、この本の中でも重複してて読みにくかったです。
貧困と脳の関係についても、納得がいかない内容でした。
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「されど愛しきお妻様」「脳が壊れた」の著者がまた新たに出された著作、タイトルも最初の著書「最貧困女子」に絡む内容なのかな、ということで発刊から気になっていたもののやっと手に取ることができ読了。
難しい内容ではないものの、咀嚼しながら読んでいたせいか読了までかなり時間がかかりました。
発達障害系や後天的に脳に何らかの障害を負った人が日常的にどんな困難を抱えながら暮らしているのか、当事者からの視点で解き明かしてくれたのがとても納得できました。
大抵の場合そういう人達は自分の状況を自分で語る言葉を持てないので周りも理解して援助したり出来ず、流されたり放置されてしまうことが多いと思いますが、こうして言葉にされると「そうたったのか!」と腑に落ちることばかりでした。
こう言っては何ですが、著書のように貧困の人を取材してノンフィクションを出しているような人がまさに当事者になったことに運命のようなものがあったというか、「よくぞそんな目に遭ってくれた」というような因縁めいたものを勝手に感じてしまいました。この人でなければこのように「行政につながれない」人の理由を言語化して世に出せなかっただろうと思います。
p110ほんとうに、どんな疾患や障害が原因かは別にしても、実に様々な要因で人間の脳はたやすく「働くのが困難な脳」になり得る。けれどここで、理由もわからず混乱するのと、不自由な背景に何らかの症状があるという機序を知るのとでは、大きく異なる。
たしかにそうだろうと納得すると同時にまずそんなふうには考えられない人が当事者の殆どではないかとも思う。
自分に不利なことを言われた時に自己弁明的発話が出来ないことを指す裁判用語で「供述弱者」(p100)という言葉があるそうです。
知的障害や発達障害のある人をここでは指しているようですが、そのような障害がなくても「供述弱者」傾向のある人はかなりじつは居るんじゃないかなぁと思います。
生活保護ユーチューバーという人がいることも知らなかったので驚きました。
「本来はやりたいことがなくても、別に人は生きていてもいい。生きてるだけでもいいはずなんですけどね」というしばさんの言葉が染みました。
最終章にでてきた「被害児童」の生育歴には想像を超えた凄まじい悲惨さがあり言葉をなくします。
p238福祉とは、それを利用する者を施す側が望む「枠」に嵌め、嵌まらない者を除外するものであってはならない
本当にその通りだと読了後つくづく思いますが⋯現実は難しいんでしょうね。
本書は社会問題ジャンルに分類されていますが、精神科や児童発達関連の医療の方々にもぜひ読んでいただきたい一冊だと思います。
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ここに書かれていることは、多分、いわゆる本書で言及されているような当事者たちと直接関わったことのない人には、なかなか理解が難しいかもしれない。
私は筆者の言わんとするところは非常によくわかる。実際そういう人物、事実に日々直面しているからだ。
ただ、残念ながら行政で支援にあたっている職員も、なかなか当事者の本質を理解できていないことが多い。支援にあたる職員が専門職である場合ももちろんあるが、いわゆる行政職であるにもかかわらず、支援の仕事の割り振りをされていることも少なからずあるからだ(そのことも一つ問題であるとは思うのだが、専門職という人材を確保するのが難しいという面は確実にある。募集しても人が集まらない)。
また本書にある通り、支援対象者本人の責にできないところに事象の原因があることがほとんどで、だからこそ支援者はなんとかしてその牙城を崩そうと試みるのだが、思いの外ハードルは堅牢だったりする。
本書内で書かれていることのほとんどはその通りと思うのだが、唯一生活保護の相談・申請に関する部分だけは、ちょっと違うかなという気がする。「まず相談」ではなく「申請」からできるように、と筆者は言うが、丁寧に状況を聞き取り、ニーズを正しく理解することなしに適切な支援は組み立てられない。なにも、申請をさせないために相談させるわけではない。ニーズをきちんと把握することが全ての支援の大前提。また生活保護を希望する人全てに均等に機会を提供するためには、それぞれの事情を勘案し、誰から見ても公平に支援が提供されていると納得してもらえるものでなければならない。
ただ、その「相談」という行動こそが、彼らにとってあまりにも難しいことは、これまでの経験からわかり過ぎるほどよくわかる。
本書を読んで考えたことは、やはりベーシックインカム、この制度こそが人々の生きる権利を公平に支える制度なのかも、ということだ。
理不尽な扱いを配偶者から受け、でも自身は精神疾患により生活を成り立たせるほど働くことはできず、でも障害年金をもらえるほどには重くなく、生活保護受給は止むに止まれぬ事情があって受給が難しい、離婚もできない頼れる親族もいない、という人がいる。こんなケースでももしベーシックインカムがあれば、利用できる制度と組み合わせて、配偶者と離れて自立することができる。
今のどうにもならない制度の不備を埋めるには、もしかしたらベーシックインカムが最善なのかもしれない。 -
『最貧困女子』や『老人喰い』などを書いた著者は2015年に脳梗塞を発症した。その後遺症として高次脳機能障害と診断され、かつて自分が取材した貧困当事者と同様の状況に陥ってしまう。
約束や時間を守れず、他愛ないコミュニケーションがとれなくなり、簡単な文章を読み解けない。それは脳という重要な器官の機能不全がもたらしたもので、本人たちのせいではなかったのだ。障害を負ったことで、彼女・彼らが置かれていた苦境が初めて理解できたという皮肉。
うつ病などでこうした症状が現れるかは不明だが、著者の気付きには確かな説得力があった。 -
始めに言っておくと、わたしとこの著者とでは決定的に価値観が合わない。
何冊か彼の著作を読んだが、すぐに「差別」の語を持ち出す点や、無関心がそれであると読み取れる点、保守層へのレッテル貼りなど、嫌悪感すら覚える。
本作でもそれは変わらないが、それでも最後まで読み通そうと思える内容だった。
本書の紙面の多くを割いている、生活保護を始めとする福祉への繋がりづらさは、頷ける面半分、イチャモンじゃないか?と思う面半分だった。
わたしも脳の障害者であり、症状が強く出ているさいは書類仕事が上手くできない。役場の申請書類を分かりやすく(※量や質を落とせというのではない。書類1枚に対して1事項のみの記入にする、機能が低下した脳でも視覚的に処理しやすい書式にする、書類とは関係のない役所からのお知らせ、イベントや講演会の告知など申請に関係ない書類は同封しない、など)して欲しいというのには激しく同意する。
ただし、現在の役所の職員にそれ以上の仕事を求めるのは酷だと思う。求めるべきは、支援の必要な者の申請を手助けする、組織なり部署の新設だろう。
また、役所の職員に理解を求めるならば、仕事として給料を発生する形での研修を行うべきなのではないだろうか。
他にも著者は、障害者に対してその職場の人に理解を求めすぎ(障害者の出来ること出来ないことを個々に把握しろ、彼らのいわゆる「トリセツ」に目を通せ、適切な仕事を与えろ、など)ていたり、理解不足ゆえに避けたり距離を置いたりすることを責めるような文面があったり、努力したのなら成果は出ずとも同じ報酬が支払われてもよいということが書かれていたり……あまりにも「してもらう」ことを他人に求めすぎだと思う。
障害者や生活困窮者でなくとも、他人をカバーできるほど余裕があるとは限らないのだから。
個人的な意見だが、厄介事をスルーするのは差別ではなく単に処世術だと思う。支援を求めるなら善意に訴えず、金銭を介したほうが、支援者・被支援者両者にとって精神的負担もトラブルも少ないのではないだろうか。
最終章に書かれていた、非行少年少女たちの心情や生い立ち、行く末などはその通りだと思う。
先天的に発達障害があったり、肉体的・精神的虐待により発達障害様の脳になってしまったり、間違った学習によりコミュニケーションの取り方が分からなくなってしまったり……
犯罪者を脊髄反射で責めることは簡単だが、自分が犯罪者にならずに済んでいるのは単に運がよかったのだと肝に銘じる必要がある。
理解者が現れるのはドラマの中と現実世界のほんの一握りだけで、大抵の不幸な者は「困った人」「変な人」「自己責任」として誰も声すらかけてはくれない。そんな状況の中、必死に踏みとどまっているのだ。
その「踏みとどまれるか」すら、運の要素が大きいことも、忘れてはいけない。
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子供の頃から苦しんだものの正体が鮮明になった気がした。
家族や学校、部活、バイト先、職場で怠け者として扱われ罵られてきた。
家族には「怠け者でーす」という開き直りキャラを演じて、お前は本当にだらしないな!と言われながらも生きてきた。
この本を読みはじめてすぐ涙が出てきた。そうなんだよ、いくら頑張ってもまわりに追い付かないし同じようにできない。頭の中が不安感でいっぱいで目の前の作業を素早く処理できない。何か不利な目に遭うのではといつも苦しくて気が付けば何もしないまま時間が過ぎている。
遅刻しないように出勤して9時間耐えるだけで精一杯。ただそれだけで1日の体力と精神力を使いきり、家に帰れば寝たきり。家は荒れて散らかり放題。1日外の世界と関わっただけでもう心も体も限界。そして精神疾患を抱えた。
今の日本社会で生きていくためには朝出勤して9時間耐える、それのために人生の全ての時間を捧げないとならない。そんな他の人から見たら意味不明な私の人生を、私の頭の中身を説明してくれた本だと思う。
誰にも家族にも理解してもらえない苦しみを、ここまで解像度高く書いてもらえたことが本当に嬉しい。
この本に出会えて本当によかった。鈴木さんありがとう。
できればこの後家族にも読んでもらいたいと思う。 -
もともとは私も、生活保護なんて、怠けているだけ。自己責任、と思っていた。
やる気がないだけだ、と。
しかし最近、いろんな人に接し、いろんな本を読むことで、考えが変わってきた。
自分で考えれば判断できることを、考えないで動いてしまう。
流されてしまうのだ。
世の中、脳がきちんと働いていない人が大勢いると。
63年間生きてきて、今までそういう人が少なかったのか、
いやいや自分に物事を判断する目がなく、そういう人の存在に気づかなかったのか。
後者の可能性が高い。
そんな考えを持ちつつある中で読んだこの新書。ずしんと来た。
貧困をテーマにしていた著者は、脳梗塞で今までできることができなくなった。
スーパーで払うべき金額を財布から出すことも困難になった。
その時初めて自分が取材してきた貧困に苦しむ人たちの行動がわかってきたという。
彼らは取材といっても約束の時間を破る、用意するよう依頼した資料を持たない、
やるべきことをやらない。ちゃんとやれば貧困から抜け出せるのに、やらない。
しかし、これを著作にしてしまうと、「自己責任論」に薪をくべるようなもの、
敢えて伏せた。
しかし、やらない、のではなく、できない、彼は身をもってそのことに気づいた。
先天的か、虐待や暴力などの後天的かは別として、脳が働かない、あるいは、
今の世の中の厳しい決まりに適応しない。結果仕事ができず、貧困に陥る、、、
そうだ、虐待の原因として、先天的に脳が機能しないゆえに親が苦しみ、
そうなってしまう、ということも書いてあった。余計に悪化させる、、
あまりに苦しい。
脳なんて、皆どこか機能していない部分があるはず。
農耕社会であれば、多少のそれはどうにでもなったはず。
それが今の管理社会、特に日本のように、電車が早く着いただけで詫びるような
社会では、すぐ社会とずれてしまう、、、貧困に陥ってしまう。。。
そんな世の中で、格差が広がる。貧富の差が広がる。
とんでもないことだ。
もちろん地頭のよさで世の中のニーズをつかみ、大金持ちになるものもいよう。
でもそれとて、その人間が生まれる前に今の社会は用意されていた。
それは彼の努力ではないのだ。
まして、企業内競争に勝っただけの社長や、偏差値だけのエリート、
世襲議員がうまい汁を吸うのは論外。
競争社会は是と思う気持ちは今も強い私だが、この貧富の差はありえない。
年収100万と何十億ほど人間に差があるわけがない。
いや、脳の働きの問題で世の役に立ってないとしても、極貧で生きなくてはいけない
ということはないはず。死にたいと思いながら生きることはないはず。
社会からずれただけなのだ。。。
再配分をうまく采配するのが政治家の勤め、そしてその采配通りに動くのが官僚。
これらが機能するのは難しい、というのがフリードマンだし、私もそう思う。
思うが、やらないわけにはいかない今の経済。
どうしたものか。
答えは出ない。
しかし、脳が働かない人が貧しくていいわけはない。
第1章 「なぜ?」の原風景
第2章 自己責任的に見える当事者
第3章 やっとわかった彼らの言葉
第4章 「働けない脳」の僕たち
第5章 なぜ彼らは座して破滅を待つのか
第6章 なぜ彼らは制度利用が困難なのか
第7章 「働けない脳」でどうするか?―当事者と周辺者・支援者へ
第8章 唯一前進している生活保護界隈
最終章 貧困の正体 -
この本を読んで、
「見えない・理解されにくい複雑な条件によって生じる不自由」を深く理解できました。
著者が過去の取材資料を基に、かつて理解できなかった人の気持ちを汲み取り、過去の自分に伝えるように執筆した過程は相当な苦労だったと思います。
そのため、決して批判的に受け取ってほしくはないのですが、それでもやはり、その立場になったからそう思うようになったのであって、と、読んでいて少し頭をよぎりました。
私は、自己責任論が強くなる背景には、人々の生活や精神状態が不安定であることがあるのではないかとも思いました。
簡単に言えば、気持ちや生活に余裕がないと、他者へのあたりがきつくなり、思いやりを持てなくなる。そのため、配偶者や家族の愛情が思いやりにうまく紐づかない限り、必要なサポートを提供できる人、それこそ本書にある「適度な依存」に耐えられる人がいないのではと感じました。
「どうすればもっとサポートしてあげられるか」と考える愛のある家族や配偶者、あるいは会社のマネージャーのような視点で読む人には非常に参考になります。
しかし、信頼や愛がない家族や同僚、ただ同じ国民として読むと、
大変なのは分かってる。でも、私も自分でいっぱいいっぱいなんです。そんな中、自分の中で再現できない不自由さを理解してほしい。と言われても、そのメッセージが心苦しく感じる部分もありました。 -
職場のストレスでうつ症状と診断され、休職していましたが、同じ症状が見られました。現在は復職し、元に戻ったと思っていましたが、この本を読んで、疲労しやすくなり、疲労が一定数貯まると途端に人の言っていることがわからない、文字を見て認識しているが頭に入らない自分がいることに気がつきました。
著者プロフィール
鈴木大介の作品
