ドグラ・マグラ (現代教養文庫 884 夢野久作傑作選 4)

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  • 社会思想社
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  • / ISBN・EAN: 9784390108843

感想・レビュー・書評

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  • 1.高校時代の愛読書ナンバーワン 乃至は 禁書
    読み出したら止まらない(終わらない)。
    受験生泣かせの、高校時代の愛読書ナンバーワン。
    何度読んだか分からない。
    一度読み出すと最後まで読まずにはいられない魔的なパワーを持った小説。
    大学受験の時期は<禁書>に指定して、本棚の後ろに封印した。

    人を迷宮に誘い込み永遠に彷徨わせる驚くべき構造と、人を捉えて離さない言葉のデーモンを持った、恐るべき書物だ。
    一人称の語りの中で、人の無意識、共同表象の中に入り込み、狂気の世界に人を誘い込むかのような魔的な力、それを言葉のデーモンと呼びたい。
    この夢野ワールドに一度取り憑かれると、夢野久作を読みたくてたまらなくなる。
    活字中毒症を惹起する危険な作品たちなのだ。
    まだ、角川も夢野に注目していない時代、夢野久作の作品を手に入れるためには、古本屋巡りをするしかなかった。
    高校時代は夢野久作(とキング•クリムゾン)に彩られていたと言っても過言ではない。
    何と言うおどろおどろしい青春!

    2.奇書なんて誰が言った 乃至は 稀書
    昭和初期の新青年は、<ドグラ•マグラ>とほぼ同じ頃、小栗虫太郎の<黒死館殺人事件>を発表していた。
    (誰も語ったことはないが、実は<黒死館殺人事件>は
    未完、と言うより未解決だ、という勝手なコメントをブクログに書いた)
    何と言うアナーキーで、凄い時代か。
    <ドグラ•マグラ>の発行されたのは昭和10年 1935年。
    同じ年に、小栗虫太郎の<黒死館殺人事件>も発売されている。
    当時の読者は、ミステリーの二大奇書(奇書ではなく、稀書と言うべきだが)を、同時に手にして、狂喜乱舞(狂気乱舞?)したはずなのだ。
    昭和10年は、帝国日本が軍国主義に染まっていく予兆を誰もが持っていた時代だ。
    この二大稀書も、そうした時代の閉塞感を濃厚に持っている。
    (<ドグラ•マグラ>の舞台は九州帝国大学精神病棟であり、<黒死館殺人事件>の舞台は要塞のような不気味な洋館だ。どちらも容易に外部に抜け出すことは出来ない)

    3.<わたし探し>の物語 乃至は エンドレス•ゲーム
    本書は一言でいえば、記憶を失った青年が、わたしとは誰かを探る、<わたし探し>の物語だ。
    ただ、その道行はあまりに危険に満ちている。
    (現実の<私探し>も明日をも知れぬという点では同じく危険だが。。。)

    高校時代に、この本に底なし沼のように引き込まれたのは、これが主人公の青年の自己発見の物語であったからだ。
    丁度、自己とは何かを問い始めた時期だけに、青春の書、ある種ビルドゥングス•ロマン(教養小説)として読んだのだろう。
    しかし、この自己発見の物語が、仕組まれたものであり、自己追求の末にようやく掴んだと思った自己が、本当の自己がわからないまま、もう一度リセットされて冒頭に戻ってしまうというドンデン返しに、頭がクラクラしたものだ。
    自己発見とは遂に仕組まれた物語に過ぎない、わたし探しはエンドレス•ゲームなのだ、と思い知らされて衝撃を受けた。

    本人は自分が誰か分からない記憶喪失状態にあるが、帝国大学の精神病棟に監禁されていること、周りの状況は自分を親族殺人の犯人であると指し示していることを認識している。
    知らない内に起こした殺人。
    悪夢を見ていたのが、それが現実だと、突きつけられたような衝撃だ。
    戦後に起こった帝銀事件の犯人特定の道行を的確に予言しているかのようでもある。
    自己を規定するのは自分ではなく第三者である<他者>だという、社会的自己確立のメカニズムを、ミステリーとして印象的に描いてみせていると言えるだろう。

    4.永遠に続く悪夢 乃至は 読書地獄(=極楽)
    時は大正15年11月20日。
    この日付が重要だ。特に、<11月>20日だと言う点。
    冷たい白い部屋で時計の機械音と共に<わたし>はうすうすと目を覚ます。
    失われた意識が蘇ってきたのだ。
    九州帝国大学の法医学教授から、そこが帝国大学の精神病棟だと聞かされる。
    そして、記憶喪失の<わたし>に示された精神病患者の手記は、<ドグラ•マグラ>と題されている。
    冒頭を読んでみると、現在読んでいるこの小説とまったく同一だ。
    時計の機械音とうすうすと意識を取り戻す青年の姿。
    ということは、今読んでいる<ドグラ•マグラ>はその中にもう一つの<ドグラ•マグラ>を含み、当然その<ドグラ•マグラ>は、その中にもう一つの<ドグラ•マグラ>を含み。。。クラクラ。。。
    (ドグラ•マグラとは、夢野久作出身の九州に伝わる方言で<堂々巡り目眩し>の意味らしい。邪宗門伴天連の妖術にやられた様子を表していると言う)

    三面鏡に自分の顔が永遠に映り続ける鏡地獄のように、<ドグラ•マグラ>はブラックホールのように永遠に<ドグラ•マグラ>を含み続けるのだ。
    だから、永遠に終わることはない。
    読書地獄(極楽?)。

    5.論文の連打 乃至は メタメタ•フィクション
    作賓の中に作者が登場して、その作品を解説するスタイルを<メタ•フィクション>と言う。
    その意味で、<ドグラ•マグラ>は、メタメタ(メタメタ。。。)•フィクションと呼ぶことが出来る。

    法医学の教授、若林からは、同教授のライバルで1ヶ月前(つまり<10月>20日)に自殺した天才精神病理学者、正木が<わたし>の父親であるらしいこと、そして生まれた時から<わたし>を精神的な実験の材料にしていたことを明かされる。
    そして、正木教授の書いた論文を読まされる。
    長大な論文の数々。
    つまり、小説に長大な学術論文がいくつも挿入されているのだ。
    これでは小節を読んでいるのか、論文を読んでいるのか分からなくなる。
    それらの正木論文を主人公である<わたし>が読むことは、小説の読者である<私>がそれを読むことだ。
    小説上の<わたし>の論文読破と現実の読者である<私>の論文読破が同時に起こらなくてはならないのだ。あな、ややこしいや。

    読むべき論文は、
    (1)キチガイ地獄外道祭文
    精神病院の存在そのものを徹底的に批判した七五調で唱える阿呆陀羅経。
    狂気そのものを問い直す、フーコーの<狂気の歴史>(1961年)を思い起こさせる画期的な論文。
    (2)地球表面は狂人の一大開放治療場
    精神病院を解放して、地球そのものを精神病院にしてしまおうという破天荒な構想を語る論文。
    (3)脳髄はものを考えるところにあらず
    脳髄は情報交換機関にすぎす、ものを考えているのは全身の細胞だという探偵•科学論文。
    (4)胎児の夢
    胎児は10ヶ月の間に、系統発生を反復する悪夢を見ているとする、三木成夫<胎児の世界>(1983年)を彷彿とさせる論文。
    (5)空前絶後の遺言書
    呉一郎と言う青年は、自分の母親を絞殺し、次いでイトコで許嫁も絞殺していた。
    そこには<心理遺伝>を利用した真犯人が隠されていると若林は睨む。
    記憶喪失になった呉一郎の記憶を呼び戻すことが出来れば、真犯人の特定が可能だと考えた若林が精神鑑定を依頼したのが正木だった。
    中国唐の時代に遡る呉家には、皇帝を諌めるため、美しい妻を殺し、その腐乱していく姿を克明に描いた絵師がいた。
    (これは芥川龍之介の<地獄変>だ)
    と、ここまで<わたし>が読み進めたところで、部屋には自殺したはずの正木が座っていた!

    6.日時の交錯 乃至は 迷宮への墜落
    正木は、今日は<10月>20日だと言う。
    <わたし>が記憶喪失から意識を取り戻して、若林と話をしていたのが<11月>20日。
    その時、若林は、正木が1ヶ月前の<10月>20日に自殺していたことを語っていた。
    <わたし>は1ヶ月前にタイム•スリップしてしまったのか?
    それとも、<わたし>の記憶の中では、若林に会った11月20日と、正木と会った10月20日の記憶の順番が逆になってしまったのか?

    正木は、唐の皇帝を諌めるため、栄華の虚しさを訴えるため、美貌の愛妻を絞殺し、その腐乱していく姿を克明に描き留めた呉消えの絵師の話をする。
    その末裔が呉一郎の呉家であり、そこにはその絵が伝えられたのだと語る。
    そして、正木は自白を始めるのだ。
    自分が犯人だと。

    呉家に伝わる絵に関心を寄せていた正木と若林は、呉家の美貌の女性を争い、その女性はどちらの胤とも知れない赤ん坊=一郎を産む。
    これで心理遺伝の実験の手筈が整った。
    後は、その一郎の成長を待ち、しかるべき時に、腐乱図を見せて心理遺伝の検証を行うだけだ。
    そんな科学至上主義の正木の非道をなじると、正木はいたたまれず部屋を出て行ってしまう。
    平静さを失ったわたしも外に飛び出すが、部屋に戻ってみると、新聞が置いてあり、日付は、<10月>20日。その新聞には、正木教授の自殺と、呉一郎による精神病棟での惨殺事件が報じられていた。

    解答がわからないまま、<わたし>は記憶喪失の迷宮に落ち込んでいく。
    そして、時計と機械音と共にうすうすと目を覚ます。。。

    7.一人称の魔力 乃至は ポーの発明
    <ドグラ•マグラ>が得体の知れないのは、一人称で語られているからだ。
    この場合、語り手にとっての真実が現実の真実と同致する保証はどこにもない。
    一人称による目眩く迷宮世界を初めて作り出したのがエドガー•アラン•ポーだ。
    だから、本書はポーの発明に多く負っていると言える。
    だが、我々は常に一人称で思考しているではないか?
    と言うことは、<ドグラ•マグラ>の齎す戦慄とは、我々日常の戦慄に他ならないのではないか?
    戦慄すべき日常の一人称思考の無限地獄を初めてドラマ化して見せたのがポーであり、それを推理小説仕立てで複雑な物語にして見せたのが夢野久作なのだ。
    共にドラマが伝えているのは、<日常に戦慄せよ>と言うことなのだ。

    ポーの発見したもの、それは無意識だ、とも言える。
    フロイトが発見する前にポーは既に無意識を発見していて、意識と無意識の衝突をドラマの原動力として数々の傑作を生み出していたと考えることが出来る。
    その意識と無意識のドラマを語るためには、一人称でなければならなかったと言うことだ。

    8.時代の転換 乃至は モダニズムの終焉
    <ドグラ•マグラ>は、構想•執筆10年と言う夢野久作の畢生の大作だ。
    夢野は<ドグラ•マグラ>を書き上げた翌年、帝都東京を戒厳令に陥れた2.26事件の直後に脳溢血で亡くなっている。享年47歳。

    小説の舞台となっているのは、大正15年1926年。
    10月20日と11月20日だ。
    この年の年末、12月25日に大正天皇は崩御して、時代は昭和に変わる。
    つまり、一つの時代の終焉、新たな時代の開始の時期をピンポイントで小説の舞台としているのだ。
    大正モダンは終わり、軍国主義の時代が到来する。
    時代が、転換点を迎えていることを、昭和11年の夢野は、その11年前、大正の終わりと昭和の始まりの転換点を軸に描いたと言える。
    それを描いた時、夢野の使命は終わった。
    まるで、<カラマーゾフの兄弟>を書き終えて直ぐ亡くなったドストエフスキーのように。

  • 30年くらい前の大学生の時に買って途中まで読んで積読にしていた
    改めて読み直したら一気読み
    確かに奇書だ
    今は違うみたいだけどちょっと前まで高校生向けの角川文庫夏の100冊的なのに普通にラインナップされていたことに驚く
    しっかしこんなのどうやって書くのだろう恐ろしい

  • 1976年に、文庫判の『夢野久作傑作選』(現代教養文庫)5冊のうち最初のものを読んでから、5冊を順次読了することになった。探偵小説というものは、そういう読者を熱中させるものがあるのだろう。
    今は次の2つについて以外は、内容を思い出せない。
    1つは、長編『ドグラマグラ』に出てくる、新興宗教のような怪しい祭文。チャカポコ拍子をとりながら歌うような長文だったが、あの部分は再読してみたい。
    もう1つは虚言癖の娘が、自らの経歴そのほか全てを虚言で装い、そのように世間にとりつくろい、恋人にも接するのだが、そうしているうちに虚がばれそうになったのか、虚言そのものに疲れ果てたのか、忽然と姿を消す話。今の世の人間は誰しも自分を装うことばかりに気をとられてはいないかというテーマにもなってくる。
    その後の興味や関心の進展により、この2点だけは何度も思い出す機会があったので、自分の永いテーマとして記憶に残っているのだろう。

  • 「……これは何ですか……この『ドグラ・マグラ』というのは……」
    「それは、精神病者の心理状態の不可思議さを表現した珍奇な、面白い製作の一つです。この内容と申しますのは、一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
    「……超常識的な科学物語……」
    「実に奇怪極まる文章で、科学趣味、猟奇趣味、エロチシズム、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが隅々まで重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、気味の悪い妖気が全篇に横溢しております」
    「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」
    「……このドグラ・マグラという言葉は……」

     …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
     …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

     どこか近くで、ボンボン時計が鳴っている――。

    ---------------------------------------------------------

     コンクリートで囲まれた部屋で目を覚ました“私”。だが“私”には一切の記憶がなかった。記憶を取り戻すために、訪れた法医学教授により外に出された“私”だったが――。

     記憶を取り戻すため、教授から様々な情報を与えられ、手渡された書類に目を通していく内に、戸惑い、面食らい、虚と実、現と幻が綯い交ぜになり、やがて冒頭へと回帰していく。円環するウロボロスの理で構築された、無限地獄のような、循環する物語。
     その緻密で理知的ながらも常軌を逸した内容に、日本探偵小説史上における「三大奇書」に選ばれた推理小説。これはぜひ“私”に感情移入して、“私”に自分を重ね合わせて読んでほしい。

  • 文体が特徴的。洗練されてはいないが意識に残る。こういう癖のある文体が大好きだ。

    メタフィクション的に、いくつもの資料の形で提示される文書を読み進めていくうちに、終盤になってすべての伏線が一つになっていく。解決したかと思うと、また覆される。その急展開は、まさに脳髄を引っ掻き回される感覚を引き起こす。面白くて一気に最後まで読み進めた。

    もう一度読みたいと思いつつ20年が過ぎた。読了するのにエネルギーがいる本である。

  • [ 内容 ]


    [ 目次 ]


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    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • ・・・・・書きかけ・・・・・


    121年前の1889年1月4日福岡市に生まれた小説家。

  • 読破したら必ず精神に異常をきたす・・・と言われる
    ご存知、伝説的な奇書。
    読み終わったあと別段(自分では)異常を見受けられなかったので
    ちょっぴり残念に思った。

    もはやこれはレビューなんて書けるシロモノじゃないと承知しているので
    自分の受けた感覚だけを記すが
    とにかく本作は、70年以上昔に書かれたものとは思えないほど
    スピード感にあふれ、色彩豊かで、深い。
    伊達に10年かけて書いてない。

    同時進行・過去進行でさまざまなジャンルの話題が展開するさまは
    パラレルワールドに招待されたかのような感覚。
    医学要素、ミステリ要素、ホラー要素・・・とまさにカオス状態だが
    なぜだろう、読後は「楽しかった」の一言に集約される。

    完全理解はできなくても
    ザッピングに慣れた現代人ならある程度楽しめるのではないだろうか。

    まぁ、万人受けするとは思えないので積極的におすすめはしないが。

  • メビウスの輪、入れ子構造、脳髄の地獄。
    自分の立っている場所すら分からなくなる恐怖。快感。

  • ミステリー小説の決定版。このドグラまだらを知らずしてミステリーを語るな、と言いたい。10年間、推敲を重ね何度も書き直さた。これほど完成度の高い小説はない。

著者プロフィール

1889年福岡県に生まれ。1926年、雑誌『新青年』の懸賞小説に入選。九州を根拠に作品を発表する。「押絵の奇跡」が江戸川乱歩に激賞される。代表作「ドグラ・マグラ」「溢死体」「少女地獄」

「2018年 『あの極限の文学作品を美麗漫画で読む。―谷崎潤一郎『刺青』、夢野久作『溢死体』、太宰治『人間失格』』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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