ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法

制作 : 日本ヴィパッサナー協会  太田陽太郎 
  • 春秋社
4.05
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本棚登録 : 119
レビュー : 13
  • Amazon.co.jp ・本 (241ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393132845

作品紹介・あらすじ

ヴィパッサナーは、からだと心の現実を探索するきわめて実践的な瞑想法である。この瞑想法をおこなえば自分のなかにひそむ問題をさらけだし、それらをすべて解決することができる。さらに潜在能力をフルに発揮させ、自分の幸福のみならず全人類の幸福のために、その能力を生かすことができるだろう。

感想・レビュー・書評

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  • Be happy!
    ただあくまで研修前後の補助的役割。

  • ヴィパッサナ瞑想は超おすすめ。

    ゴエンカ師は尊敬しているけど、この本だけだと修行を実践できないので、他の実践的な本が必要と思う。

  • ゴエンカ氏の意志を受け継ぐ瞑想センターで
    ヴィッパサナー瞑想のコースに参加をした。
    以来、ゴエンカ氏の口癖でもある「Be Happy」な
    生き方を瞑想を通して理解し、生活の指針にしたいと
    考え、本書を読んだ。
    本書を読むと、コース内の講話の内容が
    文字を通してよりわかりやすく理解&記憶される。
    瞑想の魅力は経験あるのみで、経験から得たものを
    整頓する為に本書を読むと良いのではないかと思う。

  • p139まで読んだ

  • クリパルヨガの先生がこのヴィパッサナー瞑想を京都でされ、良かったと言っていて先生が持ってきてくれた本です。
    本には実践でしか感じ得ない部分がありますが、最近思い始めていた事柄(科学知識ではなく自分自身を内面、心で感じること、自己洞察が人間の目的)のまとめのような気がしました。
    船乗りと学者の、実践と知識の例え話では、「星の王子様」の計算で忙しい科学者を思い出しました。

    ・Be Happy!
    ・生きとし生けるものが幸福でありますように
    ・自己の内なる世界を心と体じかに感じとらなければ、ほんとうの現実を知ることはできない。
    ・この世でおよそ「なになに学」と名のつくものを残らず勉強したとしても泳げなければ一巻の終わりです。(船乗りと学者の話)
    ・人の苦しみをわかる、というのは自分も一緒になって泣くということとは違います。
    ・苦の原因は、私たち一人一人のなかにある。自分の本当の姿がわかれば、苦の問題の解決方法が見つかるはずである。「汝自身を知れ」、賢者はみなこうさとしている。
    ・罪の意識を感じたところで、どうにもなりません。マイナスにはなっても良いことはない。

    お寺はたくさんあるのに、日本の普段の生活では仏教、ブッダの教えを知ることはほとんどない。が、ここまで続いてきたブッダの教えは、宗教ではないんだと分かりました
    (「キリスト教徒はより良いキリスト教徒に...」)。
    □ブッダの言葉
    ・人から聞いたこと、古い言い伝え、世間の常識、あるいは文字になっているもの、そうゆうものを鵜呑みにしてはいけない。想像、憶測?外見、部分、可能性、あるいは師の意見、そうゆうもので教えが真理であると決めつけてはいけない。自分が直接「この教えは正しくない、間違っている。この教えを実行すると弊害があり、人々が苦しむ」と悟ったとき、それを捨てればいい。自分が直接「この教えは正しい、間違いがない。この教えを実行すると人々が豊かで幸福になれる」と悟ったとき、それを受け入れ、実践すればいい。
    ・一人一人が自分自身の島になりなさい、自分の避難場所になりなさい。それ以外に避難場所はない。
    ・他人の牛ばかり数えている牛飼いのようなもので、求道者が得る人生の喜びを味わうことができない。
    ・さとりを開いた者は理論を放棄する。なぜなら彼は、物質、感覚、知覚、反応、意識、それらの本質およびその生成と止滅をみきわめているからである。
    ・苦は、満足を求める執着、自分・自我・自分のイメージに対する執着、自分のもの・意見・信念に対する執着、宗教・儀式への執着のいづれかと関係している。
    ・人を傷つける行為、人の心のやすらぎと調和を乱す行為が悪い行為。人を助ける行為、人の心のやすらぎと調和を高める行為が良い行為。
    ・見るときには、ただ見る。聞くときには、ただ聞く。嗅ぐとき、味わうとき、触れるときただ嗅ぎ、味わい、触れる。そして知るときには、ただ知るのです。
    ・人生の浮き沈みに直面しても、心が動揺することなく、嘆くことも、悪意を抱くこともなく、いつもやすらいでいる。これが最大の幸福である。

  • いわゆる瞑想のハウツー本とは違い、むしろ仏教的な生き方、捉え方を啓蒙する良書。特に最後の二章はなんども読み返す。
    無常に気づくこと。

  • ジョンがハマってたっていう瞑想法。
    少しやってみた。

  • 人間はあらゆることに対して苦しみや不満を感じるものであるが、その苦しみを感じさせるものは心が作り出す妄想である事、あらゆるものは変わっていくことを実際に体験しようという修法。

  • 仏教(仏陀の教え)というものについて目の覚めるような分かりやすさで本質を伝えてくれる。

  • ヴィパッサナー瞑想が深まることで体験的にどのようなことが起こり、どのようにして解脱に至るのかが、具体的な表現もちりばめて説得力をもって語られている。瞑想をすすめる上で実に参考になる言葉が多かった。何かが腑に落ちた感じ。なぜ、感覚にサティを続けるのか、感覚の観察が、どうして自己の本質を知ることにつながるのか、得心した。

    瞑想には、精神集中(サマーディ)の訓練と智恵(パンニャー)の訓練が含まれる。精神集中は、「平静さの育成」(サマタ瞑想)とも呼ばれ、智恵の訓練は「洞察力の育成」(ヴィパッサナー瞑想)とも呼ばれる。

    興味深かったのは、サマーディによって得られる心の清らかさは、ほとんどが不純物を抑えこむことで得られると指摘していることだ。サマーディを行うと心の表層が澄んでくるが、不純物は無意識の領域にたまっており、この潜在的な不純物を取り除かなければ、真の心の解放はないという。集中は、他の思いや感情を打ち消して何かに集中するのだから、打ち消されたものが押し込まれるのは当然だろう。

    私自身が、精神集中は心の抑圧につながる面があるのではないかと、ずっと疑問をもち続けていた。ヴィパッサナー瞑想は抑圧されたものに気付きをもたらす方法だと知って強い共感を抱いていた。 だからゴエンカ氏のこうしう指摘には、やっぱりという感じで共感する。

    「真理の正体を見きわめるには、感覚の観察を欠くことができない。‥‥感覚は心とからだの交差点である。‥‥もしも感覚に気づくことがなければ、自己の真実を追求しても不完全で浅薄なものになるだろう。‥‥自己の本質を知り、それに正しく対処するためには、ふだんほとんど感じる取れないような微細な感覚にまで気づく必要がある。」(P128)

    感覚への気づきが深まれば深まるほど、その変化の激しさに気づくようになり、それが徹底すると、おそらく現実は日常的な意識で捉えているのとは全く別の様相を示しはじめるのだ。瞑想でなぜ感覚に注意を集中する必要があるのか。

    「からだの各部に生じているさまざなな感覚を観察していると、あるとき、全身に非常に微細で均一な感覚が起こり、それが生まれては消えてゆくのに気づくようになる。その感覚の誕生と生滅はあまりにも速く、まるでは波動の流れのように、全身を電気が流れるように感じるだろう。からだのどの部分に注意を向けても、均一で微細な感覚がものすごいスピードで生まれては消えてゆく。一つの考えが心のなかに浮かぶと、それにともなう感覚がからだにも起こる。その感覚が連続として生まれては消える。いまや、心とからだの見かけの堅固さは粉々に打ち砕かれ、物と、心と、心の形成物の、究極の真理を体得することになる。究極の真理、それは超高速で去来する波動、微粒子の振動、それ以上のなにものでもない。」(P170)  

    「まるでは波動の流れのように、全身を電気が流れるように」という表現は、気の感覚の表現にも似ているが、一切がそう感じられるのだから非常に徹底したものなのだろう。 微粒子が瞬時に生まれては消えるレベルまで感覚を研ぎ澄ませた時、すべてが変化することをまざまざと実感し、それが実感された時、固定化された自我への幻想も消えるのだろう。感覚のサティの先の方にはこういうレベルがあり、そこでは「自我」という幻想にしがみつくことなど、ありえない。感覚へのサティが、どのようにして悟りにつがなるのか、得心がいったのは、この部分を読んでだった。

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