オウム真理教の精神史: ロマン主義・全体主義・原理主義

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  • 春秋社
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  • Amazon.co.jp ・本 (294ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393323311

作品紹介・あらすじ

オウムを現出した宗教・哲学・政治思想の流れを精査するとき、我々は近代の内奥にひそむ漆黒の闇に直面して戦慄する。気鋭の宗教学者、渾身の現代宗教論。

感想・レビュー・書評

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  • オウム真理教に共感を抱いたことはない。

    オウム真理教は、仏教ではなく、ヒンドゥー教だ。
    本尊がシヴァ神だし。
    シヴァ神を崇拝する人たちを、仏教徒とは呼ばない。

    麻原は、ブッダのダンマを
    テーラワーダ → マハーヤーナ → タントラヴァジュラヤーナ
    のプロセスで完成されていくと考えている。

    しかし、事実は、全く逆。

    ヘーゲリアンの歴史観みたいに、時間が経過するにつれ、歴史が完成していく、という弁証法とは全く逆で、ブッダのダンマは、初期仏教から大乗仏教、真言密教と進むにつれて、どんどん劣化していってる。

    シャーキャ・ブッダが亡くなった後、彼が否定した呪術や占いが行われるようになり、合理的な思考と実践が、しだいに失われていってる。

    大乗経典では、神通力をもった架空のブッダやボーディサットヴァたちが、次から次へと創作されて、現実からかけ離れた、SF的な、SFX的な、アニメーション的な、空想的なキャラクターになって、神通力を駆使して空を飛んだり透視したり未来を予言したり、眉間からビームを発射しはじめる。

    ここにあるのは、シャーキャ・ブッダの現実的な思考と実践、プラグマティックな生き方から大きく脱線してゆく姿だ。

    たとえば法華経では、ブッダの教えとは明らかに異なる差別的な言説が堂々とまかり通り、予言が行われ、意味不明な呪文まで唱えだす・・・。

    密教では、ブッダが退けたはずのホーマー(護摩焚き)をやり始め、ブッダが、迷いの生死の最中にあると見なした神々への崇拝をはじめ、オウム真理教に至っては、巨大なシヴァ神の像までつくって、拝みだすとは・・・・。

    オウムも大乗仏教も、典型的な末法思想なんだよね。
    末法思想だと認識した上で、今の時代を生きている私たちには、このような劣化した教えが相応しいんだと受け止めて、それを謙虚にやっていくのなら、まだマシなんだけど、劣化していった結果を、最終的な完成形だと信じたとき、人は不幸になる。

    タントラ・ヴァジュラヤーナが最高の到達点だとか、法華経が最高の到達点だとか考えている人たちは、現代の実証的な研究によって明らかにされていったブッダの法と歴史を知らない。


    ずっと昔、丸の内線の地下鉄の階段をあがっていくと、白い服の人がいて、BRUTUSをタダで配っていた。オレはそれを受け取った。
    彼らはオウム真理教の信者で、その号のBRUTUSには、中沢新一と麻原の対談が掲載されていた。

    オウム真理教の信者を直接見たのは、後にも先にも、その時だけだ。
    彼らとは、それが最初で最後の出会いだった。

    BRUTUSは好きな雑誌だし、中沢新一の本はよく読んでたから、オレはその対談も、興味深く読んだんだけど。

    中沢新一が麻原のことをやたらとヨイショしていた。
    「聖なる狂気」だって。
    密教ボウヤの中沢が言いそうなことだ。

    その数年前に、オレは、すでに中村元師の『バウッダ』を知っていたから。
    ブッダのダンマというものを、かなり正確に理解していた。
    だから、タントラヴァジュラヤーナに惹かれる理由はどこにもなかった。
    もともと、超能力とか、スプーン曲げとか、そういう話は大嫌いだったし。

    オウム真理教の唯一評価できる点は、教団の中にパーリ聖典の翻訳チームがあって、日本ではまだ翻訳されていないようなものまで翻訳してたこと。
    そこだけは、良いなって思ったんだけど、実際に翻訳されたものを見てみると「釈迦神賢」とか、訳し方がヘンだし、善男善女の訳も、非常にヘンな、見た事もないような訳語になってて驚いた。
    翻訳というより、そもそも日本語になりきれてない、独自のヘンテコな訳だった。
    翻訳に選ばれた教典も、いまいち、よく分からないようなものばかりだった。

    不思議なのは、パーリ聖典を訳していたはずの彼らが、同時に、占星術や予言を行ったり、ノストラダムスのフランス語の原文を専門的に研究していたことだ。

    ブッダは、そういう不合理なものを退けたのだ。
    パーリ聖典は、そのことを明確に伝えているのに。

    麻原は、当たった予言のことだけを、ことさら宣伝してたけど。
    それより遥かに多くの予言がハズレまくってるからね。
    占いとは本来そういう不確かなもので、物事の解決には役立たない。
    だから、オレは、予言者や超能力やオカルトには大きな疑念を抱かざるを得ない。

    空中に浮遊できるとか、水中に長時間潜れるとか、そんなことをして一体ナンになる?スプーンを念力で曲げれる、とかさ。
    仮に、そういうことができたからって、何の役の立つ?

    UFOを見たって言っても、そりゃーアメリカもロシアも中国も激しい軍事競争を繰り広げてるんだから、未確認の飛行物体くらい飛んでて当たり前なんだよ。

    だいたい、空中に浮遊できて、未来が予言できる人間の行く末が、死刑かよ?

    オウム真理教の行く末を見ていると、ブッダが、呪術や予言や超能力を退けた理由がとてもよく分かる。
    そういうものは、人を幸せにしない。


    ただし、当事の若者の一部が、ああいったカルトに飲み込まれていった現象や、彼らが引き起こしたテロリズムについては、すごく興味があったし、今でも、興味がある。
    アレはいったい何だったんだろう?

    絶対に勝ち目が無いのに、一億玉砕とか言ってアメリカ相手に玉砕を叫んだ多くの日本人の心理とか、現人神を崇拝したり、神風特攻隊で突っ込んでいった日本の若者たち、NYのツインタワーに突っ込んでいったアルカイダの人たち、ナチスの熱狂や、アメリカのカルトや、イスラム国の戦士たち・・・・・

    ああいう、人々を破滅へと向かわせる集団的な神経症って、一体、どういうタイミングで、どのような原因があって、起きるの?
    これは非常に興味深いテーマだ。

    いずれにせよ、今後も、起こりえる事件だよ。

    丸山真男はオウム真理教について
    「彼らの精神性について、私はよく理解できる。なぜなら、私が太平洋戦争中に経験した様々なバカげた出来事と全く同じことが行われていたからだ。当事は、現人神だとか一億総玉砕だとか、日本の国内でしか通用しないタワけた信仰が大手を振ってまかり通っていた。一歩外へ出れば全く通用しないタワ言が、あたかも絶対的真理のように崇められていた・・・・」
    という内容のことを語っていたけど、全く、その通りだね。

    オウム真理教に関して言えば、ノストラダムスの大予言や、スプーン曲げ、UFO、数多くのインチキ臭い占い師や、オカルトを、頻繁に取り上げてきたマスメディアの責任は限りなく重い。
    オウム真理教を生み出したのはマスメディアだ。

    一億総玉砕を煽りまくって、日本国民をミスリーディングして日本を壊滅状態に陥らせた当時の新聞やジャーナリズムのやった事と全く同じ事が行われた、と言うことだ。


    以上が、オレのオウム真理教に対する考えだ。
    以下は、本の感想を述べる。

    この本は図書館で借りた。
    正しいことを、ふつうに述べてる。

    というのも、中沢新一の宗教学のどこが問題だったのかを、明確に示してる。
    つまり、中沢新一のポストモダンは、近代以後の新しい思想だったのではなく、プレモダンな錬金術の時代へ逆行するようなものだった、ということ。

    これは、西部邁が、中沢を東大の教授にしようとした時、教授会で、多数派が大反対したときも言われてたことだよね。
    「中沢新一みたいな詐欺師が東大教授になったら、これまで築き上げてきた厳密な学問の体系が、中世の時代に逆戻りしてしまう」
    ということ。

    これに対して、西部は「東大なんかバカばっかりだ」と大見得を切って教授を辞めたわけなんだけど、落ち着いて考えれば、教授会で反対した連中のほうが正しかった。
    だから、オウム真理教事件が起きたときに、中沢新一が反省すべきだったのは勿論だけど、西部邁みたいなカッコつけのお調子者も、猛省すべきだったんだよ。

    そのことを、この地味な、カッコ悪い学者は、たんたんと述べている。(西部の話は出てこないけど)
    学問というのは、もっと地味なものなんだ、という。

    この人は、中沢新一だけじゃなく、社会学者の宮台もケナしてて、なっかなか度胸があって、凄みがあるぞ。

    中沢や宮台みたいな、カッコ良いスター気取りの学者とは対極に立ちながら、その、ずば抜けてカッコ悪くて地味なキャラクターと、本当のことをドシドシ言っちゃうところが、今一番カッコ良いんじゃない?

  • 『現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 』が素晴らしかったので、こちらも期待して読む。
    タイトルにオウムを掲げているが、ほぼ現代宗教論。新書で読んだことの繰り返し部分もあるが、そもそも宗教とはなんぞや、というところから掘り下げていて、特に政教分離のあたりは大変勉強になった。オウムがどのような形でメディアに取り上げられていたかを機関誌のみならず一般雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』等に掲載されていた記事などから論じた箇所は興味深い。

    〔井上嘉浩が、ラッシュアワーの人の渦に紛れて生きる大人たちの生を嫌悪し、それを端的に「救われない」と表現していたことはとても印象深い。麻原は5人の信者にサリンの散布を命じ、全員がそれに踏み切っているが、わたしはその事実が、オウムによる「洗脳」が徹底されていたことのみに起因するとは考えない。おそらく信者たちは心の根深い部分で、群衆社会を自ら強く嫌悪していた。井上と同様、彼ら自身もまた、ラッシュアワーの人混みに紛れる群衆の生き方を「救われない」と感じていたのである〕

  • オウムの思想的源流を探りながら、ヨーロッパ近代の思想、およびそれがいかにアメリカや日本に受容されたか、が分かりやすく紹介されている。それぞれの事項についてそれほど踏み込んだ記述があるわけではないが、無知な私としては非常に勉強になった。

    しかし、その分、オウムそのものの論考として読むと、多少肩透かしであることは否めない。むしろ、80年代の日本においてオウム的なものがもてはやされたこと、あるいはオカルトブームといってしまってよいかもしれないが、それらが世界的な流れに沿ったものであることを示すことが主題となっている。その意味で、オウムが仏教そのものではなくて、それを受容変質させたヨーロッパやアメリカの思想潮流に上に成り立っていたこと、そしてそうした思想潮流は近代個人主義の確立が背景にあることを提示することには成功している。そして、オウムはそうした文脈で論じられなければならないということにも説得力があるように思う。しかし、本書は欧米の思想系譜の紹介に大半が割かれているために、日本におけるオカルトとそれらの類似点ばかりが強調され、日本独自の事情については反対に記述が非常に薄い。近代という状況において生じる類似の現象の一つとして、オウムは理解されればそれで良いのであろうか。

    日本の特殊性としては、欧米と異なり、仏教に対する理解が民衆の間にあらかじめ存在したということがある。そもそも、仏教はその最初から個人主義的な宗教であったのであり、また、はるか昔に政教分離に成功していた中国を経由して日本にもたらされたのであることを考えれば、実態はどうあれ、日本には個人主義に伴う思想自体は以前から流入していたと考えることができる。反対に、日本人のキリスト教徒に対する理解はそれほど深いものではなかった。ユダヤ人についてはなおさらである。今日ですら、ユダヤ人のイメージを明確に持っている日本人は少数派なのではなかろうか。
    この点を考慮すると、欧米と日本では、ロマン主義から受ける印象はまったく逆のものとなる。欧米では、よく見知った思想の上に目新しい思想が接木されていると見られるものが、日本では良く見知った思想がなんだか疎遠なものを基礎として独自の解釈を加えられているように映る。原理主義にいたっては、ほとんど理解の糸口すら見えないような虚言としか思われないような代物であって、宇宙人やUMAと同じ次元で語ることがふさわしいといえる。

    したがって、日本のオカルトブームが欧米から輸入された思想であったことはほぼ間違いないとしても、それがなぜ日本でという疑問と関連付けた場合、キリスト教という切り口は返って議論を困難にさせてしまう可能性がある。本書はそこまで踏み込んだ議論は行っておらず、方針を示すにとどまっているが、著者のあまり好ましくおもっていないであろうポストモダンによる議論を回避するとなれば、なぜ日本において近代の特異点ともいうべき現象が生じたのか論じるにあたって、日本の特質を考慮することは避けられないように思われる。

  • 再読。オウム真理教に繋がる思想や宗教の解説。

  • 大田/俊寛
    1974年生。専攻は宗教学。一橋大学社会学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了。博士(文学)。現在、埼玉大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

  • (01)
    95年の地下鉄サリン事件をピークとして、近代日本のあり方にテロリズムというかたちで波紋を投げかけたとオウム真理教について、社会における近代宗教の特性を踏まえながら、その暴力や信仰の体系の一般性について論述している。
    ロマン主義、全体主義、原理主義という括りの中でオウム真理教をとらえることを本書は試みている。巻末の索引や参考文献を眺めても、この教団に流れ込んだ精神たちのありようをうかがい知ることができるかもしれない。
    精神史を裏付けるモノのありかた、事物史としてはどのようなことがいえるだろうか。
    サティアンをはじめとする道場などの施設群、そして宗教的な開発に必要となる設備と備品類、また、広報等の宣伝媒体などオウム真理教が展開したモノが精神とどのように絡んでいるのかを考察するためにも、本書の整理は、有効な見通しを与えてくれる。

  • <u>従来のオウム論への批判</u>
     ・70年代後半から80年代以降の高度経済成長を達成した後の日本社会の問題に帰着させた「ポスモ」「ニューアカ」系の議論・・・視野が狭すぎ
     ・仏教史全体からオウムを考察する議論・・・視野が広すぎ。近代以前の仏教とオウムのそれとでは根本的な差異が大きすぎて比較にならない。

     近代宗教としてのオウムに着目。ロマン主義、全体主義、原理主義の流れを汲んでいるカルトである。
     →オウム論のみならず近代社会論にもなっていると思う。最近読んだ渡辺京二を思い出した。

    <u>近代における宗教</u>
     そもそも宗教とは、人間が生死を超えた「つながり」のなかで生きていることを示すもの。原初的な祖先崇拝では、土地や家などの財産を究極的に保有するのは祖先の魂であった。これにより所有の正当性を示すとともに、所有のあり方を安定させてきた。人間社会が規模と複雑さを増すに連れて、宗教が「つながり」の中心として提示する「虚構の人格」も祖先崇拝→多神教→一神教と一般化の度合いを強めてきた。

     中世ヨーロッパでは、キリスト教共同体により社会的統合が保たれていた。後のプロテスタンティズムの聖書主義のような個人的信仰ではなく社会的な宗教。ローマ教皇という宗教的権威が封建諸侯という世俗的権威による支配の正統性を証明していた。当時の「教皇権の完全性」という概念が、近代の主権概念のルーツであるとする学説。そのカトリック教会をルターらが批判してカトリック対プロテスタントの政治的抗争へ。

     ローマ教会頼りではいかんということで世俗権力が最初に考えたのが王権神授説。教会を媒介せずに神から直接に統治権を授与されると。そこからさらに「下からの主権論」としてホッブズ、ロック、ルソーらの社会契約論が出てくる。政教分離により宗教は政治の表舞台から撤収。政教分離はヨーロッパから世界中に輸出される。

    <u>政教分離=近代の問題点</u>
     ・限界なき暴力装置としての主権国家(中世は、教皇=主権、諸侯=軍隊と分離していた)。国家間の戦争が大変なことになる。
     ・死の問題の私事化・・・国家は(基本的に)死者を弔えない
     ・宗教の迷走・・・公的領域から撤退して、個人の内面にかかわる主観的現象という扱い。私的な妄想と区別がつかない宗教が多く発生する。

    <u>3つの思想的潮流</u>
     これら3つはいずれも近代が生み出した鬼子としての「反近代」の思想と言えそう。あやしい思想オンパレードで、ある意味たのしく読める。それらの共通点を整理してオウムへの流れを見出す。
    ○ロマン主義 → 空中浮揚とか
     近代の表面が啓蒙主義、裏面がロマン主義。啓蒙主義が主に英仏、ロマン主義が主にドイツではやる。前者が人間の理性に重きを置き、後者はその理性の光に照らされない闇の部分に重きを置く。闇とは何か?よく分からないから闇。ロマン主義は、自らがその存在を指摘しようとするものを明確に表現できない矛盾を抱える。
     特徴:感情重視、自然回帰、不可視の次元の探求、生成愛好、個人・民族の固有性
     社会が大きく、複雑化するほど、「世界の全体像や自分が生きている本当の意味を知りたい」という欲望が増して、ロマン主義的幻想が需要される。
     シュライアマハー、ジェイムズ、ユング、神智学、ニューエイジ思想、本山博、阿含宗、中沢新一
    →プラグマティストのウィリアム・ジェイムズがロマン主義の系譜に位置づけられるとは意外。ご本人の精神的病との闘いが影響しているみたいだが。

    ○全体主義 → グルへの絶対的帰依とか
     地縁血縁から切り離されてアノミーに陥った個人はついつい自分を導く特権的な人物を希求してしまう。近代はカリスマ的指導者がひょんなところから現れやすい社会なのだ。ハンナ・アーレント参照。20世紀にあまりにも歴史的負荷を被ったせいで分析概念としては使えないとの批判もあるが。
     特徴:幻想的世界観、カリスマ支配、善悪二元論、人格改造、閉鎖的共同体などなど
     メスメリズム、ニーチェ、ウェーバーのカリスマ論、フランスの群集心理学、きわめつけのナチズム(オウムも関連が深い)、グルジェフ、ヤマギシ会
    →そもそものメスメリズムからしてロマン主義との親和性が高いようだ。

    ○原理主義 → サリンを撒いてハルマゲドン
     最近は原理主義といえばイスラムだが、もともとは20世紀初頭のアメリカに現れたプロテスタントの一派を名指すための用語。終末思想が大きな特徴。キリスト教以外では、近代以降の日蓮宗が原理主義的。石原莞爾の最終戦争論がそれである。
     聖書が一般に読まれるようになったことや、世界大戦の経験、核戦争・環境破壊への恐怖などが原理主義を後押ししている。
     リンゼイ、ブランチ・ダビディアン、中田重治(日ユ同祖論!)、酒井勝軍、宇野正美、五島勉(ノストラダムス!)
    →うー、どんどん胡散臭くなってくる。たしかにオウムと同じ香りがする。

    <u>オウム真理教</u>
     最終章でいよいよオウムの軌跡をたどる。
     麻原が視覚障害だったのは水俣病の影響?・・・可能性アリ。なんだか考えてしまう。
     麻原は練達のマッサージ師で催眠術の使い手だったであろう。
     ヴァジラヤーナ(金剛乗)へ突っ走ってしまった契機は在家信者の事故死「真島事件」。それを知って脱退しようとした田口修二氏を殺害して、教団の暴力性が決定的になる。
     失敗していて気づかれなかっただけで、90年頃からずっとテロ行為を試みていた。本気でハルマゲドンを引き起こす気で地下鉄サリン事件も彼らにとっては通過点だった。
     そこに混乱したロシアがいたのもアンラッキーだった。教団への武器・技術供給。

    麻原の説法
     「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ」
     近代が放置している「死」の問題をカルトが回収してしまう。しかしオウムにも本当の答えがあるわけではもちろんない。

    なぜ日本にオウムのような世界に例を見ないほど活発なカルトが?
     葬式仏教への反感
     都市の巨大化・・・地下鉄サリン事件は象徴的
     天皇制の下での「最終戦争」敗北の経験
    →ここらへんはムズカシイところですな。

  • 2回目の通読。やはり素晴らしい。オウム真理教そのものを詳述するまでの前振りが長いのだけどそれにはワケがある。オウムという新興宗教があの時期に現れあのような教義を持ちなぜあそこまで多くの信者を獲得しえたのか—— 。教祖・麻原が直接間接に摂取してきたであろう海外・国内のニューエイジや精神世界の諸文献や唱導者の活動内容を地道に紹介することでオウム出現に至る必然性を歴史的に跡付けてみせた。

  • 扱っているテーマは好きだが、言説にいい切り表現や自己言及のパラドクスが多くて読む気をなくす。そして主観論っぽく、共有されていない前提まで勝手に決め付けている感じを否めないというか。。けっこうイライラする荒さがある

  •  評者はオウム真理教についてというより、ダーイシュ(「イスラム国」と呼ぶのはやめよう)について考えながら本書を読んでいる。

     筆者はオウム真理教事件がどう総括されたかと問い、事件後出版された関連著作を、内部からみていた元信者の手記、外部から記録・観察したジャーナリストの著作、全体像を客観的に分析しようとする学術的著作に分類し、最後のものに関してはいまだ十分ではないと断ずる。そして代表的著作として以下の5つを上げ批判を加える。 中沢新一「「尊師」のニヒリズム」、宮台真司『終わりなき日常を生きろ─オウム完全克服マニュアル』、大澤真幸『虚構の時代の果て─オウムと世界最終戦争』、島薗進『現代宗教の可能性─オウム真理教と暴力』、島田裕巳『オウム─なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』。反省することのない中沢新一の独善は読むに堪えないものと痛烈に批判、他の著作もポストモダンの風潮に乗っていて視野が狭すぎるという。

     筆者によるオウム真理教の教義の要約をさらににべもなく簡略化するとこうなるだろう。解脱のために超能力者になれ。そのためには最終解脱者である尊師に帰依しろ。尊師を認めない社会には最終戦争が起こり、その後、千年王国が建国されるだろう。
     この手の思想はさして珍しいものではない。ナチスだったら、アーリア人が総統に帰依してユダヤの陰謀に立ち向かうのであり、ダーイシュなら、真のムスリムがカリフに服従して異教徒と最終戦争するのである。
     そしてこうした思想はロマン主義・全体主義・原理主義から把握可能であるというのが本書の議論の流れである。

     筆者は宗教とは何かと考えるに当たって、人間がまったく未成熟な状態で生まれてくることを重視する。生まれてすぐに自立することのできない人間はすでに存在している人間の世界に依拠して生きていくしかない。そこで「祖先の霊」などといった「虚構の人格」を中心とした社会を作りだし、生死を超えた人間の「つながり」を確保するのが宗教であるとする。であるからかつては国家は神権国家であった。それが世俗国家に取って代わってくるという歴史も重要な視点である。オウム真理教もダーイシュも神権国家の復興という点で共通するのだ。

     そして本書で評者が学んだことは「馬鹿こけ」といえる心を養うことである。
     ロマン主義は理性で捕らえられないものがあるという考えだが、オウム真理教への流れとしては「宇宙という無限の闇のなかに本当の自分を見出す」というモチーフとなる。馬鹿こけ、本当の自分なんてあるものか。
     全体主義について筆者は未成熟なまま出生するがゆえに幼児的万能感を持つ人間というフロイトの説を持ち出して、それゆえにカリスマを希求しカリスマに同一化して支持してしまう人間の心理、さらにはパラノイアとカリスマの相同性を指摘する。アノミーに陥った現代人は自分を特別なもの(超人)と思わせてくれるカリスマを求め、自分以外を畜群=末人と侮蔑する。馬鹿こけ。
     評者にとって目下のところ一番興味があるのは原理主義である。これはもともとは20世紀初頭のアメリカのプロテスタントについて言われたものだそうだ。処女懐胎とか復活とかを文字通りに信じ、科学を否定する一派である。この原理主義の特徴は聖典の無謬性とそれゆえに終末論の近日中の実現である。遡ると近世以降の日蓮宗も原理主義といえ、イスラム過激派ばかりでなく、いずれの宗教においても原理主義があり得るわけだ。当然、この終末論から社会破壊的な活動が生じてくる理屈である。
     とすると馬鹿こけというべき点は、科学的に荒唐無稽な教義そのものに対してではない。寄る辺ない人間に何とか「つながり」を作り出そうとした営みを侮蔑はすまい、だが、千何百年も前に作られた教義を何の批判もなく現代に当てはめること、それは、馬鹿こけである。

     であるから、ダーイシュには、正統カリフの後継者? 馬鹿こけ。奴隷制の復活? 馬鹿こけ。麻原彰晃には、空中浮遊? 馬鹿こけ。皆が言ってやればよかったのだ。

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著者プロフィール

1974年生まれ。一橋大学社会学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了。博士(文学)。現在は埼玉大学非常勤講師。著書に、『現代オカルトの根源 霊性進化論の光と闇』(ちくま新書)、『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社)、『グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション』(春秋社)がある。

「2015年 『宗教学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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