侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力 (連塾 方法日本)

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  • 春秋社
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  • Amazon.co.jp ・本 (471ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393332979

感想・レビュー・書評

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  • ☆3(付箋22枚/P471→割合4.67%)

    編集とその為のアーカイブ収集と、梳いて省いて残るもの。
    “徒然草は「花を盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」と言ってますね。花は盛りだけで見るんですか。月は隈なく煌々と照ってるのだけを見るんですか。そうでもないでしょう。月が見えないとき、花が散ったときに、あるいは花がまだ蕾で雪の中にいるときに、花や月を感じるのが花月を友とするというものではないか。そういう意味ですね。
    「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春のゆくへしらぬも、なほあはれに情け深し」。”
    商店街の花と紅葉のプラスチックの飾り、刺身につけるプラスチックの菊とか大葉、公園の偽の丸太。
    じつは商店街の桜や紅葉は、日本舞踊や歌舞伎では紙細工になっているわけですね。では紙がよくて、プラスチックにしたのがダメなのか、それとも商店街にもってきたのがダメなのか。
    ”私が大好きな能登のアエノコトという行事が、かつては4000世帯でおこなわれていたのに、70年代で400世帯に減り、この20年でなんと6世帯に激減してしまっていることです。やはり何かがおこっているのです。いや、何もおこらないことが進んでいるのですね。これには「待った」をかけましょうね。”
    中国大陸から海に隔たれた半月の島。その季節と形に生まれた日本の文化。グローバルとITと。バブルが崩壊し、虚構と白けた虚無が無くなって、さあどこに向おうかと思う時に、社会と自分を形作る水のような何か。


    ・一言でいえば、主題より大切なものが方法で、方法を主題に従属させてはいけない、方法によって主題を侵していくくらいでなければいけないと思うようになったんです。DVDや携帯といったハード機器が、文化やコミュニケーションのスタイルを変えていくように、あるいは非ユークリッド幾何学や量子力学というメソッドが宇宙論や世界観を変えていくように、主題は方法のあとからやってくるのだと考えるようになりました。
    そういう観点で研究や仕事をしていくと、結局は方法というのは「関係の発見」であるということ、相互関係をおこしていくことこそが方法であるという考え方に、しだいに向かっていったわけです。

    ・「相似律」は、大量の図版を何万と集めて、一枚一枚クリップして色をつけて、ページレイアウトをしました。この、大量の情報を集めて突き合わせるという方法は、いまも私がたいへん重視している方法です。編集というのは、ある閾値を超えるまで大量のものを踏査することによって初めて駆動するものなんです。

    ・「型」の奥にひそむ日本のスコアをもう一度、取り戻す必要があるんではないですか。そのためには、議論をもう少し深いところへ進めていく必要があります。というのも、「型」にもいろいろあるからです。パターン、フォーム、スタイル、モールド、モデル、テンプレート…。こういったものがみんな「型」だと思われている。逆にいうと、日本髪のときもパーマのときも、われわれはやっぱり「型」が欠かせないんですね。

    ・櫛はたんなる装置ではなくて、日本のいろんな文様のすべてを取り込んでいました。櫛というあの形のものが、日本の文様のアーカイブにまでなっていたんです。
    つまり櫛がデザインアーカイブのキャリアやヴィークルになっていたんですね。そこがすごいんですね。花鳥風月はもちろんのこと、文字を散らしたものから、扇面や調度をあしらったもの、さらには帆掛け舟や五重塔や住吉の風景など、およそ日本にあるもので櫛にならないものはなかったというほどに多様なデザインです。これは、日本の歴史の中のプロフィールが、櫛という端末を得たことで多様化して、新たなプロフィールを獲得していったからです。
    …じつはいまお見せしているものは、すべて北斎が描いた櫛の図案です。北斎の自由な造形意思が、日本のすべてを櫛にできるという自信に満ちたものであったために、櫛が端末になったのだということがわかります。
    なかには、「こんな櫛が実際につくれるのかなあ」と思うようなデザインもいっぱいあります(笑)。波のかたちが櫛の輪郭をはみでて描かれてたり、山が連綿と続いて櫛のかたちを破っていたりしていますからね。しかしここまでくると、北斎のやっていることはたんなる櫛の図案化ではないことがわかります。櫛はかくありたいという、北斎の強靭なモーラの意思と「しきたり」の意思がここには出ています。しかしいったいいま、こういう北斎の櫛に匹敵するようなものはあるんでしょうか。

    ・このオフサイド・ルールがあるおかげでサッカーやラグビーの戦術がうんと高度になり、世界中を熱狂させるようなスポーツになりましたよね。これは「しきたり」をつくったということなんです。それによって、オフサイド・トラップといった高度な戦術も生まれますし、それに応じた陣営の動的な組み方もさまざまに発展してきた。スコアというのはこのように、やたらと点が入ればいいというものではないんです。むしろスコアをめぐる鎬の削りあいが出てくるようなスコアリング・システムをつくらなければならない。

    ・茶の湯では草庵の茶を通して、茶室をさまざまに分界してきたのです。四畳半、三畳台目や二畳台目にまで絞っていった。そうすると、見えるところはうんと限られてくるのですが、そのぶん心というか「胸中の山水」というか、そういうものは広がっていく。

    ・ヨーロッパの中世の図書館に行きますと、閲覧室が立って読むようになっていることに、まずびっくりします。次に当時の書物はだいたい大きいものなんですが、一冊ずつに鍵がかかるようになっている。書庫から読みたい書物をもってきて、立ったまま閲覧台に置き、そこで鍵をかけて読む。
    しかし、もっと驚くのは、その閲覧台に一人づつを仕切る板がついていたことです。これは、みんなが声を出して読むんで、隣の読む声がうるさいわけですね。

    ・では、これらの言語は消滅するのもやむをえないほど特徴の薄い言語なのかといえば、そうではない。むしろ逆なのである。たとえば81個の子音とたった3個の母音でできているウビフ語、5個の母音と6個の子音しかもたないパプアニューギニアのロトカス語など、多くの言語が言語学上でもいちじるしく興味深い特徴をもっている。イヌイットの言葉はたいていは犬の重さやカヤックの大きさと対応できるようになっているし、北米インディアンのミクマック語は樹木の種類をそこを風が通る方向や音によって呼称できるように、その言葉を発音するようになっている。その言葉を言うと、「おまえはあそこを通ってきたんだね」ということがわかるわけですね。

    ・ブラッドベリは、世の中で書物が与える影響が過小評価されているのがガマンならない。本を読んだらみんな同じ気持ちや思想になっていくと思われすぎている。そんなことはないわけですね。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」や漱石の「こころ」を読んだ者は、その読んだ数ぶんのプロフィールになる。そんなことは当たり前なのに、しかし、思想の浸透というものを極度に惧れると、禁書や発禁や制裁が加わることがあるのです。

    ・「好み」であれ「数寄」であれ、われわれが何かをするときには、そこには必ず「次第」や「段取り」というものがありますね。準備があり、お知らせがあり、スタートがあり、いろいろ序破急があって、中締めがあって、エンディングになっていく。いろいろ趣向を凝らしますが、だいたいそういうふうになっている。それって、そもそもどのようにできているんだろうかと思ったんです。そこで、古今東西のさまざまなイベントやワークスのプログラム次第を調べてみました。
    たとえば、古代ギリシアのディオニソス祭、アレクサンドリアの儀式の次第、王義之の蘭亭の会盟、東大寺の開眼会、十世紀のサン=ドニ修道院のミサ、ダンテの「神曲」の組み立て、シャンパーニュの大市のオークション、花下連歌のやりかた、後醍醐天皇の無礼講、十二段浄瑠璃の構成、利休の茶会、シェイクスピア時代の世界劇場のプロローグからエピローグまで、モンテヴェルディの作曲構造、ジェファーソンらの議事堂開設までのフロー、ルドルフ二世の宴会、近松門左衛門の初期人形浄瑠璃の構成案、ポンパドゥール夫人たちのロココなサロンがやったこと、ディドロの百科全書の目次、平賀源内の物産会、フーリエのファランジェのカリキュラム、それからラインシアム劇場に初めて照明用ガスが導入されたときの舞台演出、ロンドン博覧会の開会式と閉会式…というふうに、どんどこどんどこ、まずは東西の歴史的なイベントや書物や劇場での序破急を調べていったんですね。
    こういう作業は、私がしょっちゅうやっているものです。エディターというのは、まず調査と収集ですから。

    「故実十七段」
    ①染め、②透き待ち、③風来、④並び、⑤継ぎ目、⑥よそおい、⑦際立ち、⑧いよいよ、⑨乱れ、⑩身代わり、⑪嫋々、⑫後ろ戸、⑬おこない、⑭一寸、⑮悉皆、⑯まにまに、⑰行方
    「次第段取一切」
    ①染め、②並び、③うたた、④見渡し、⑤寄せ

    ・「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は二つの偉大な文明、孔子のコミュニズムをもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ際立たせるためのみ分かっている。しかし、雪をいただくこの障壁でさえも、究極と普遍を求めるあの愛の広がりを一瞬といえども遮ることはできない」。
    この本を有名にした冒頭の言葉、「アジアは一つである」は天心の思想の核心をさしている。

    ・ですから、大和絵や和画に対しては、漢画とか唐絵という領域があったわけです。そういう中に洋画というのが入ってきたわけですね。高橋由一や黒田清輝や藤島武二は洋画のほうに挑んだ。これに対抗して天心は日本画という概念をつくりあげたんです。
    この「日本画」という概念と、正岡子規や与謝野鉄幹がつくった「短歌」という概念。この二つは近代の方法日本を見るときにすこぶる重要です。短歌の前は「和歌」でした。

    ・たとえば、お茶って遅そうに見えますけども、あれはとても速いんです。速いことを相手におこさせるために、お茶は練りに練られたプランを実行しているんです。

    ・侘茶や草庵の茶というふうにしていくには、かなり鮮明な方法意識が必要です。村田珠光このかた、利休まで、いろんなことを試みないかぎり、あんなものにならない。喫茶の習慣を茶の湯にまで仕立て、さらには二畳台目でやるというふうになるには、ものすごい歴史と実験が必要だったわけです。

    ・たとえばみなさんは、どう思われますか。商店街に桜と紅葉のプラスチックの花を飾る、これはマルですか、バツですか。木の切株に似たコンクリートの擬木を公園に置く、これはマルですか、バツですか。お刺身の中に大葉というのが腐らないように入るんですけれども、あれのグリーンだけを生かしたプラスチックな葉っぱは、どうですか(笑)。
    こういうことって、いったん点検すべきなんじゃないでしょうか。じつは商店街の桜や紅葉は、日本舞踊や歌舞伎では紙細工になっているわけですね。では紙がよくて、プラスチックにしたのがダメなのか、それとも商店街にもってきたのがダメなのか。いや、桜と紅葉にシンボライズすることがヘンなのでしょうか。
    …機能をいかして、象徴は真似していけばいいのか。素材が変化しても象徴性を維持すればいいのか。それとも、素材とともに象徴をも変化させ、創造していくべきなのか。後者だとしたら、家紋のようなものが江戸時代に充実していったり、欄間のデザインが充実していったりしたこととくらべると、この100年ほどの日本は象徴や表象を生み出す力を失っているということです。

    ・いま、識者たちは何かというと、日本が世界に誇れるのはカラオケとアニメとテレビゲームとウォシュレットだ(笑)、というようなことをしきりに言いますね。あれっ、いつのまにそんなにも誇れるものが少なくなってしまったのだろうかと思いますが、仮にそうだとして、それは方法日本の何によってそうなったものなんですか。そういう分析はできているんでしょうか。
    …これは、たんに国際市場にたくさん出ているものばかりで日本初の“良品”を探しているせいであって、日本の基本に組み込んだハードシステムやソフトウェアや情報文化装置から見ていないということではないでしょうか。そういうことを言うと、いやいや、豆腐もいいんだ、小型車もいいんだ、太陽光発電はもっといいんだ、これはみんなが認めている、というようなことになるんですが、これまた波及偏重主義ですね。市場主義ですね。
    どうも、こういう味方のクセが治らない。私はかつての通産省や農林省もおかしかったのではないかと思います。グッドデザインの選びかたもおかしかったし、無形文化財の選考の仕方もおかしい。とくにハコモノを日本中に似たように設置したやりかたは、かなりおかしいものです。伝統と前衛をとりちがえたままになっているように思います。そういうことだから、地方の商店街と温泉場は桜と紅葉をプラスチックで飾るしかなくなっているのです。

    ・いまも、日本ではさまざまな陰惨な事件や凶悪な犯罪がおこっています。政治スキャンダルもあるし、企業の隠匿もある。けれども、これらは和歌山カレー事件にしても池田小学校襲撃事件にしても、社会構造の問題というより、個人の忌まわしい犯罪として大きく取り上げられているといったほうが多いようです。
    それは裏返せば、日本の伝統芸能や美術を褒めるときに、個人の才能に帰属させたり、流行の一端として捉えているということとウラハラです。かつて中江兆民が、日本人は「恐外病」というのをもっている。でも、それは一転すると「侮外病」になるということを、早くも「一年有半」という随筆に書いていて、私はこれこそ日本人の奇妙なところだなと思ったものですが、まさにそれに似て、いまの日本社会は一定の社会水準を設定して、それをどれくらい上回ったか、どれくらい下回ったかということばかりで、何かの価値を維持しようとしているように見えるんです。

    ・したがって、そうしたなかで黒船が来て開国を迫られると、結局は大政奉還と王政復古を同時にやっていくというような決定をしてしまうわけです。けれども、それは後攻めですから、そこで作る方は、一方では大政奉還のあとの列強とそっくりなものにするしかなく、他方では王政復古を正当化するものにならざるをえなくなるわけです。
    しかし、こういうことをすると、そこにはいろいろ抜け落ちてしまうものが出てきます。…たとえば日本の仏教というのは「国の力」だったわけですね。しかし、明治維新がやったことは神仏分離であって廃仏毀釈だったわけです。そこでは仏教の力はまったく使ってない。忘れてしまっているんです。これでは、日本の本来にあった「おもかげ」をどのように感じていけるんでしょうか。かつて日本の歴史のなかで「王法と仏法」と並び称されていたものは、どうなっていくんでしょうか。

    ・もし「わび」が日本の伝統美術だというのなら、現代にも必ずあるはずだ。でないと、これは伝統にはならないんじゃないか。

    ・徒然草は「花を盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」と言ってますね。137段です。花は盛りだけで見るんですか。月は隈なく煌々と照ってるのだけを見るんですか。そうでもないでしょう。月が見えないとき、花が散ったときに、あるいは花がまだ蕾で雪の中にいるときに、花や月を感じるのが花月を友とするというものではないか。そういう意味ですね。「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春のゆくへしらぬも、なほあはれに情け深し」。
    白磁や青磁の磁器技法が隠されていたほうがいいときがあるんですね。手持ちの道具や器物や食材が少ないほうがいいときがあるんです。そのほうが新たな取り合わせができる。でも、きっと十分なものができるとはかぎらないから、そこが「わびる」というところです。
    ですから、これはたんなるマスキングではありません。見方におけるマスキング、編集的マスキングです。月はいい。でも月に雲がかかっているのはもっといい。白磁はいい。だけどそれをいったん忘れて、ありあわせの土で工夫する。そういう方法です。そういう見方です。このいったん伏せるというところに、私には日本のメソッドを感じるんですね。

    ・九鬼周造が『「いき」の構造』のなかでそれはもう言ってしまいましたけれども、「いき」には「艶」という気持ちがあるわけですね。気持ちというか人間の状態といったほうがいいかもしれませんが、そこには当然「心魅かれる」とか、「つながりたい」という思いとか、「恋しい」とか、そういうふうなものがある。ところがそれだけじゃだめなわけですね。九鬼もそこを言うわけですが、一方では艶があるけれど、他方では「あきらめ」があるんですね。これは同時なんですよね。で、私は「わび」はそこにあると思うんです。

    ・ひとつ気になっているのは、私が大好きな能登のアエノコトという行事が、かつては4000世帯でおこなわれていたのに、70年代で400世帯に減り、この20年でなんと6世帯に激減してしまっていることです。やはり何かがおこっているのです。いや、何もおこらないことが進んでいるのですね。これには「待った」をかけましょうね。

  •  方法というのは「関係の発見」であるということ、相補関係をおこしていくことこそが方法であるという考えかたに、しだいに向かっていったわけです。インターテクスト、インタースコアですね。そしてそのうち、これこそが「日本という方法」なのではないかと気がついたんですね。(p.18)

     一神教というのは砂漠で育った宗教です。砂漠では、自分の行き先や方向を的確に判断する必要があります。もし判断をまちがえれば、オアシスにたどりつけなくて死ぬ。右なら生、左なら死、そういう二者択一的なところです。(p.19)

     マーシャル・マクルーハンが何を言ったかというと、これはミルマン・パリーの仮説に乗っかったものなのですが、活版印刷の普及が黙読を流行させたのだろうというものです。活版印刷というのは写本ではありません。原稿を活字で組んで、それを版面にしてインクを塗って紙に印刷してしまう。そうすると、ここには声の介在がないんですね。しかも一冊ずつ写本されるんではなくて大量に同じ書物が印刷されるわけですから、写本の時の写字生たちのカリグラフィの個性もない。活版印刷がつくりだす書物は「声を出す書物」ではなくて、「文字を刻印する書物」になっていったわけです。ここに黙読が広がっていったんですね。(p.91)

    「日本人の公は私の中にある」。これが私にはショックだったんですよ。私たちはいつもアメリカ的な民主主義を教わっているので、プライベートを両方持てと言われますね。「あなたはパブリックばっかりで働きすぎよ。ワーカホリックよ」と言われたり、「もっとプライベートな時間ももちなさい」というふうに。たいてい文句をつけられます。けれどもオギュスタン・ベルクさん(『風土の日本』)は日本を見ていて、日本人はそうじゃないかと見抜いたんです。「公」というのはすでに「私」の中にあって、むしろ「私」を見ていけばその人の「公」は見えるというのが、彼の日本に対する見方なんですね。(pp.167-168)

     岡倉天心が見た中国の印象は強烈だったんですね。その歴史、その大きさ広さ、その時間の歩み、尨大な東洋人の巣窟としての力。いずれをとってもそこは欧米の尺度をまったく無効にするような世界でした。見るもの聞くものに衝撃をうけた。(中略)ひるがえって、現実の明治日本はたんに西洋に追いつけ、追い越せだけになっている。国家やイデオロギーといった父性原理のようなものを成り立たせようとしていることによって、かえって大切なものが失われつつある。どうも、そこには母なる大地というものが生きていない。のちに『東洋の原理』や『日本の覚醒』で、天心はそういうことを書いています。(p.236)

     安易にニーチェに近づくと、かえってニーチェの永劫回帰の罠にはまるだけだと言うんですね。そうではなくてニーチェを見えるようになりなさい、そうでないならニーチェにこだわるなと言うんです。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』より。)(p.292)

     藤原定家に「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ」という歌があります。浜辺でまわりを見渡しても、何もない。浦の苫屋があるだけです。小さな網を干してあるような小屋でしょう。あとはもう何もない、そういう秋の夕暮れだという情景なのに、定家はここには「花も紅葉もない」と言ったわけですね。これはたいへん不思議な表現です。何もないのに、わざわざ「花も紅葉もない」と言った。(中略)武野紹鴎や千利休は、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり」のこの歌こそが茶の心をあらわしている、と言ったわけですね。
     それはなぜかというと、茶の湯というのは四畳半、三畳台目、二畳という風にどんどん何もなくしてるんですね。何もなくしているところへ何かを感じてもらうために、あの藤原定家の、あの心こそが茶の心だというようなことを言ったわけです。(pp.337-338)

     全盲の叔父は一度も世の中を見たことがないわけですね。で、叔父が来ると私が手を引いて、大丸に連れていったり寺町に連れていったり、お風呂に連れていったりするわけです。そうすると、耳で聞いた感想をいろいろ言ってくれます。そのたびに、私は自分で目で見ているものよりも、ずっと詳しいことを何度も知らされました。その叔父が私に与えた影響は計り知れないものがありました。(pp.339-340)

     見方におけるマスキング、編集的マスキングです。月はいい。でも月に雲がかかっているのはもっといい。白磁はいい。だけどそれをいったん忘れて、あり合わせの土で工夫する。そういう方法です。そういう見方です。このいったん伏せるというところに、私には日本のメソッドを感じるんですね。(p.382)

     九鬼周造の言葉でいえば、「そこに欠けているものがあるからこそ卒然と成立する日本というものがある」ということです。(中略)そもそも日本列島というのはたいへんフラジャイルです。なんといっても地震列島であり、災害列島です。きっと東海地震も関東地震もやってくるんでしょう。壊そうと思えば、すぐに壊れる国だったのです。けれども、日本はそれをかなり大切に扱ってきた。ていねいに扱ってきた。屋根を葺き替え、布団を打ち直し、着物に裏地をつけて補強してきました。こういうことは忘れないほうがいいと思います。(p.438)

  • [ 内容 ]
    <1>
    衝撃の日本論!!
    つまらないニッポンに喝を入れる一途でパンクなセイゴオ流・高速シリーズ、第1弾。

    <2>
    山水ラディカル、侘び寂びアバンギャルド。
    「見えないもの」を「魅せる」、方法日本、究極の「負の想像力」。
    日本美術の見方が一変する。衝撃の日本論第2弾。

    <3>
    日本は何を失い、何を得たのか。
    「これまで」の祖国、「これからの」母国。
    津波と原発の波涛を越えていますべての人に伝えたい、渾身のメッセージ。
    3・11を予見させる「負の想像力―地震と枯山水」収録。

    [ 目次 ]
    <1>
    第1講 日本という方法 笑ってもっとベイビー無邪気にオン・マイ・マインド―外来文化はどのようにフィルタリングされてきたか(比良八荒を「次第」にこめて;正負を合わせるてりむくり;絶対矛盾の自己同一 ほか)
    第2講 神話の結び目 住吉四所の御前には顔よき女體ぞおはします―日本にひそむ物語OSと東アジア世界との関係(グローバル・スタンダードをめざさない;物語には「型」がある;モノに赴く物語 ほか)
    第3講 仏教にひそむ謎 重々帝網・融通無礙・山川草木・悉皆成仏―仏教的世界観がもたらした「迅速な無常」(東洋をコンピュータ化する;宮沢賢治と法華経;近代史のなかの法華経 ほか)

    <2>
    第4講 「文」は記憶する 目の言葉・耳の文字・舞の時空・音の記譜―インタースコアとインタラクティブシステムの歴史(並列する文化;インタースコアとしての日本;森林文化のメソッド ほか)
    第5講 日本美術の秘密 白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし―枕草子・枯山水・宣長・幕末三舟・イサムノグチ・三宅一生(梅窓院から日本を考える;「連塾」とは編集の場である;「好み」とは何か―椅子は奏でる ほか)
    第6講 「負」をめぐる文化 正号負号は極と極。いづれ劣らぬ肯定だ―引き算と寂びと侘び(夢窓・心敬から天心・九鬼へ)(「場」と「関係の発見」人は自然か、人工か;日本の健康状態;日本になったもの ほか)

    <3>
    第7講 面影と喪失 誰そ我にピストルにても撃てよかし伊藤のごとく死にて見せなむ―なぜ日本人は喪失をもって面影としてきたか(日本は何を失ったか―喪失の昭和史;思い出のなかのリアル;日本の「分母」はどこにある;ナショナリティとジャパン・マザー;グローバルvsローカルの境い目で ほか)
    第8講 編集的日本像 雪が舞う鳥が舞うひとつはぐれて夢が舞う(または一宿一飯の義理)―メディアステートとしての去来日本(“北の螢”はどこにいる―明滅する日本;「テ・ニ・ヲ・ハ」の方法論;“ぼくら”はコメの民族だ;エディティング・ジャパン―外来コードと内生モード;「型」のゼネレーション―方法日本「五つの窓」 ほか)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 負の美学かー堪能しました。

  • おもろい。日本画の展覧会に行きたくなった。ちょっと見方のヒントがあると、俄然興味がわくものだ。等伯の松図は本物見たんだ、よかった。若い頃はきんきらきんの絵なんだけど。猿はほんとにかわいいです。

    天心の頃の日本画って、今よりもっと、
    政治的なものと深く結び付いていたのかな、と最近思う。

  • 日本というものより、西洋的「知」に憧憬を抱いていた自分に、まさに灯台下暗し、日本の文化というものが、こんなにも意匠を凝らしていたと感じることはなかったのだが、松岡氏の編集力の甲斐もあってか、「素晴らし」のひとこと。表紙に「侘び」、「数寄」、「余白」と書いてあるが、日本的「方法」でもってそれらがいかに成り立ったか、またそれをどのように我々「現代人」にも通用する概念なのか?すべてが網羅されているという素晴らしき本。最近、松岡氏関連の本を読みあさっているのだが、「編集工学」というものに突き当たった氏の洞察力には感動すらする。

    我々、日本人は「主語」をつくるのではない、「述語」で表現するのだ。

  • やばい。
    面白すぎ。
    「詫び・数寄・余白」につられてⅡから借りちゃったけど、
    Ⅰも読まないと。
    読みたい本が一気に増えた。

  • 第二巻。引き続き素晴らしい内容です。

  • 松岡正剛さんが気になる。

  •  ぼくなどがレビューを書くなどおこがましい。ただただ、一文一文から連想が広がり、豊かで興味深い読書体験を味わえました。含蓄に富んだ話から頭の中の連想があまりにも広がるので、読むスピードは他の本に比べて軍を抜いて遅かった。その遅い時間こそが生きられた読書の時間だったような気がします。いろんな見方が変わりましょう。

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プロフィール

編集工学者、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。80年代に情報文化と情報技術をつなぐ方法論を体系化し「編集工学」を確立し様々なプロジェクトに応用。2000年「千夜千冊」の連載を開始。同年、eラーニングの先駆けともなる「イシス編集学校」を創立。近年はBOOKWAREという考えのもと膨大な知識情報を相互編集する知の実験的空間を手掛ける。また日本文化研究の第一人者として「日本という方法」を提唱し独自の日本論を展開。著書に『知の編集工学』『擬』『世界と日本の見方』『国家と「私」の行方』ほか。

「2018年 『千夜千冊エディション 情報生命』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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