擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性

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著者 : 松岡正剛
  • 春秋社 (2017年9月30日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393333549

作品紹介

現代思想の雄、松岡正剛が超ジャンル的思索をベースに、現代の捉えがたい「世界」と「世間」をめぐって、縦横無尽に論を展開、来たるべき「世」を見据え、展望する。蕪村からミトコンドリア、アーリア主義からヒッグス粒子まで! 松岡正剛の乾坤一擲!

擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性の感想・レビュー・書評

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  • 真似は悪いことなのか。オリジナルとは。

  •  芸術や芸能にとっては予想ほど不必要なものはない。芸術や芸能は「予想を裏切ってナンボ」なのである。世阿弥は「舞に目前心後といふこと」がある、目は前を見ても心は後ろに置いておきなさいと言い、「離見の見」に徹することを奨めた。すぐ前にあることばかりを見るのではなく、離れてみなさいと説いた。能仕舞があんなに省略が効いた所作と象徴の美に徹することができるのは、離見の見のせいだ。(p.51)

     そもそも「歴史はこういうものだ」と言い出したのは、キケロからランケに及ぶヨーロッパの歴史家だ。かれらはヨーロッパの記述というより世界の記述をしているいう自負をもっていた。そのぶんお膝下をどう俯瞰しているかというと、イデオロギッシュになりすぎてきた。それでも、われわれはそのような歴史観を「世界史」として教えられてきたわけだ。(p.100)

     ナチスのユダヤ人ホロコーストは、ゴルドンの優生学がアーリア主義にもとづく断種になだれこんだものである。この悪夢、誰ひとりとして止められなかった。ボリアコフは、次のように書いている。「ヒトラーやムッソリーニが神話を捏造したのではない。1500年にわたるアーリア・ゲルマン神話の過剰を、人文主義者や啓蒙思想家が食い止めなかったことが問題である」と。(p.121)

     本を書くという行為には、古来のオーサリング・ステージから貰ってきたスタイルやコンテクストがいろいろ混じっている。その「混じり」を排除することは不可能である。なにより言葉や概念を使うということ自体がオリジナルな行為ではありえない。本というもの、「借りもの」でいっぱいなのである。(p.168)

     面影が見えるとは、たんに記憶が再生されるのではない。たんなる思い出がよみがえっているものでもない。思い浮かべられた景色にこそ面影が見える。(p.219)

     世界にも世間にも確定不能や予想不能なことがあるのは当たり前で、ちぐはぐになったりあべこべになったりするからといって鬼の首を取った気になるなと言いたかったのだ。世の中はカント的にはできてはいない。サンデル的にも片付かない。世界と世間を「かわる」と「がわる」のあいだに見ることで、そこに面影が出入りすることを景色にするほうが、ずっと大事ではないかと綴ってきたわけだ。(p.220)

     発見や創発は偶発なのではない。偶発的に見えたとしても、そこには「隠れたもの」が内在していたわけだから、創発には偶発性ではなくて「偶有性」というべきものがひそんでいたことになる。この情報的偶有性のことを、この用語がとても重要なのだが、ぼくはある時期からもっぱら「コンティンジェンシー」として理解してきた。(p.257)

  • 「千夜千冊」の人の著作。
    読売朝刊2017.11.28特集記事。模倣を大事にしないと、創造は生まれないが主旨。やや詩的すぎる副題がネックかも。

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