- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784393363607
作品紹介・あらすじ
『夜と霧』の著者として、また実存分析を創始した精神医学者として知られるフランクル。第二次大戦中、ナチス強制収容所の地獄に等しい体験をした彼は、その後、人間の実存を見つめ、精神の尊厳を重視した独自の思想を展開した。本講演集は、平易な言葉でその体験と思索を語った万人向けの書であり、苦悩を抱えている人のみならず、ニヒリズムに陥っている現代人すべてにとっての救いの書である。
感想・レビュー・書評
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「『私は人生にまだ何を期待できるか』と問うことはありません。いまではもう、『人生に何を期待しているか』と問うだけです。」
●感想
社会人になってから「人生って何だ。何で生きてるんだ。俺はどこへ行くんだ」と考えてしまう。大学生までは、次のステップへの道筋が示されていた。しかし、就職してからは、そのステップは無くなった。社会人とはその名の通り、「学生でもない子どもでもない何らかの形で社会とかかわりを保っている人」のことである。この身分において、どのように人生を面白くしていくのかは、全て自分の仕事である。
本書では、「人生に期待する」のは誤ちであり、「自分で人生に答えを出していくべき」という。社会のレールに沿っていれば、生活が変わっていった大学生までとは打ってかわり、今後は自分で人生に意味を創っていく。困難や苦難が人生には必ず伴うが、その中で、どのように意味を付与するのか。それこそが、このたった一回の人生で、我々に課せられた仕事なのである。
●本書を読みながら気になった記述・コト
■いつか死ぬからこそ、目の前のことに真剣になれる。
たとえば、自分の命が永遠だとして、明日行う仕事や、一か月後の友人の予定との間に、意味を見いだせるだろうか。否だ。いつかは終わってしまうからこそ、できなくなるからこそ、私たちは予定を組み、人に会いにいくのだ。帰省という行為もそうだ。もし、自分も家族も永遠の命があれば、正月に毎度、顔を見せに行くことに意味なんてなくなるだろう。いつか死ぬからこそ、1年1年の区切りが意味を持つし、家族に会いに行くことが特別な時間となる。もし、お互いが一生の命を持つならば、100年後に会うことも、1000年後に会うことにも、何の違いも無くなるんだろう。だって、永遠を生きるものにとっては、一年とか、一週間とかの時間区切りに、何の意味もないからだ。
私たちが何かに一生懸命になり、がっかりしたり、喜んだりできるのは、生き物は必ず死ぬからだ。永遠なものはないからだ。
>>苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです。人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為も、すべてやりなおしがきかにということにほかならないのです
■「いつか死ぬ」から、人生に意味が無いのではない。「いつか死ぬ」から、人生に意味が溢れてくる
■生きることはいつでも課せられた仕事なのです
■逃れない事実であっても、その事実にどんな態度をとるかに、生きる意味を見いだすことができるのです
■人生が出す問いに答える
>>人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に応えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。
■自殺の無意味さ
人生とはいつも仕事であり、人生に、どのような意味を見いだすかを常に課せられているといっていい。自殺というのは、その答えを出さずに終えてしまうことになる。 -
フロイト、アドラーに影響をうけて、精神科医となったヴィクトール・フランクル。「生きる意味と価値」について語る。他の書籍で影響を受けて、フランクルの本を読んでみたが、ちょっと難解。素晴らしい本なのでしょうが、私の中で相いれない意見が出てきたので、またの機会に読むことにしよう。【印象的な言葉】それでも人生にイエスと言う
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いいね、ありがとうございます。同意見です。「夜と霧」に感銘を受けて読んだのですが、難解でしたね。「それでも人生にイエスと言う」タイトルが収穫...いいね、ありがとうございます。同意見です。「夜と霧」に感銘を受けて読んだのですが、難解でしたね。「それでも人生にイエスと言う」タイトルが収穫です。2021/06/30
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コメントありがとうございます。やはり難解でしたか。私としては『生きる意味を求めて』の方が読みやすかったです。コメントありがとうございます。やはり難解でしたか。私としては『生きる意味を求めて』の方が読みやすかったです。2021/06/30
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2021/06/30
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V・E・フランクルは、1905年ウィーン生まれのユダヤ人の精神科医。1942年9月に家族と共にテレージエンシュタット強制収容所に収容され(父は同収容所で死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡した)、1944年10月にアウシュビッツ収容所に送られたが、3日後にテュルクハイム収容所に移送され、1945年4月に米国軍により解放された。
ナチスの強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』(1946年)は、17ヶ国語に翻訳され、70余年に亘って読み継がれているロングセラーで、様々な「人生に影響を与えた本」、「最も読まれた本」の類のランキングでベスト10に入る作品である。
本書は、1946年にウィーンの市民大学で行った3つの講演、「生きる意味と価値」、「病を超えて」、「人生にイエスと言う」の翻訳である。
題名は、ブーヘンヴァルト収容所の囚人たちが、収容中に自ら作り、歌った歌の一節である「それでも人生にイエスと言おう」から取ったものと思われる。
本書は一般市民に向けた講演であるため、わかりやすくかつ心に残る記述が随所に見られる。
◆「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。・・・最後の最後まで問題でありつづけたのは、人間でした。「裸の」人間でした。」
◆「生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。・・・しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。」
◆「私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答をださなければならない存在なのです。・・・そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。・・・現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。・・・どんな未来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。」
◆「各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。・・・各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているのです。」
◆「それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです。」
◆「運命はまさに、私たちの生の全体にそっくり属しています。そして、運命によって定められたことはどんな小さなことでも、この全体から抜きとられてしまうと、私たちの生の全部、私たちの生の形がこわれてしまうでしょう。」
◆「苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです。人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。・・・一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生にはおそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです。」
◆「人生それ自体がなにかであるのではなく、人生はなにかをする機会である!」(ヘッベルの言葉)
◆「人間の責任とは、おそろしいものであり、同時にまた、すばらしいものでもあります。おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。・・・それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。」
◆「結局、この三つの講演の意味はいまいったことに尽きます。・・・人間はあらゆることにもかかわらず-困窮と死にもかかわらず(第一講演)、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず(第二講演)、また強制収容所の運命の下にあったとしても(第三講演)-人生にイエスと言うことができるのです。」
『夜と霧』の体験を踏まえた著者が語る、「生きること」についてのメッセージは重く、心に響く。
(2020年11月了) -
自分が「人生の意味、生きる意味とはなんだろうか?」と考えていたのは、ちょうど「一般的に将棋において一番良い手はなんだろうか」と考えることがトンチンカンであるのと同じように、初めから的外れな疑問だったようだ。
自分が人生に対してその意味を問うのではなく、人生が私に対して「今•ここ」に関する一回きりの具体的な問いを発しており、私はそれに応答(response)する義務を負った、責任存在(responsibility)であるのだと知った。
人生における様々な出来事や状況、例えば親しい人との離別であったり、病気であったりが、その都度、私に対する私の人生からの問いかけである。結局、それに対してどう答えるのみが重要だった。
将棋の一局面に真剣に向き合って一つの手を指すように。
小説「個人的な体験」で、鳥が障害を持つ息子から逃げ回りはしたものの、最終的にはその運命を自らの責任として引き受けたように。
古本市でたまたま出会えてよかったー。
1章がとても良い。 -
フランクルが強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で行った講演集。
人間と人生の価値について、がメインテーマ。個人的には「価値」というものは、それぞれの人がそれぞれに決めるものだと思っている。だから、「私は自分の人生にこうありたいと思う」とは言えても、人生の普遍的な価値は語れないと思うのだ。
永遠に関して、今この一瞬で価値がないものを永遠に引き延ばしたところで価値がないと確かに僕もそう思う。儚く消えてしまうものに価値があるのだろうか、ということについて昔友達と議論したことがあった。
その友達は、「溺れる子供を助けに川に飛び込んだとする。子供を助ける事はできず、助けに飛び込んだ人も死んでしまった。死体は上がらず、飛び込んだ瞬間を誰も見ていなかったため、残された人で飛び込んだ人の行為を知っている人はいない。飛び込んだ行動は無価値なのではないか。」と言うのだ。
僕は例え死んでも、本人が満足していればいいのではないかと思う。
何もない真空に少しの揺らぎから偶然宇宙が開闢する。そこから果てしない時間と空間が広がり、そこに生命が誕生し得る。この宇宙で、(または別の宇宙で)自分と同じような経験をしたり、同じように考える存在が起こり得る。それは僕じゃないけれど、まあ全く僕が消えてしまう訳でもないような気がして少し慰められる。宇宙観の話しになって随分脱線してしまったけれど、そういうことを考えさせられる根幹のテーマに真っ直ぐ向かっている本でした。
・また、強制収容所では、私たちは、「スープをやる値打もない」といって非難されることさえしばしばでした。そのスープはといえば、一日に一度きりの食事として与えられたものでした。しかも私たちは土木工事を果たして、その経費を埋め合わせなければならなかったのです。価値のない私たちは、この身にあまる施しものを受けとるときも、それにふさわしい仕方で受け取らなければなりませんでした。囚人はスープを受けとるとき、帽子を脱がなければならなかったのです。
さて、私たちの生命がスープの値打ちもなかったように、私たちの死もまた、たいした値打ちはありませんでした。つまり、私たちの死は、一発の銃弾を費やす値打もなく、ただシクロンBを使えばよいものだったのです。
おしまいには、精神病院での集団殺害が起きました。ここではっきりしたのは、もはやどんなみじめなあり方でも「生産的」ではなくなった生命はすべて、文字どおり「生きる価値がない」とみなされたということです。
・「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められないような事態はない」―ゲーテ
・私たちが不死の存在だったら、私たちはなんでもできただろう、しかしまたきっとなにもかもあとまわしにすることもできただろう。 -
自分が今何ができるか、そして行動する
当たり前と言えば当たり前
それを誠実に日々過ごす、それこそが人生からの問いかけに答えること -
人生とは何であるかについて、筆者の体験や例を交えながらわかりやすく説いている。生きる意味や自殺願望への反対に対して、説得力のある考察がある。「人生は私に何を期待しているか」究極の問いであり、これを探す旅こそ、人生である。
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時代の違いもあり、なかなか素直に理解できなかった。
カント
あらゆる事物は価値を持っているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。