- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784393363607
感想・レビュー・書評
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数年ぶりに読み返した。「意味への意志」「コペルニクス的転換」「3つの価値」などについての基礎知識はあっても、フランクルがこれらについて力強く語る本書には改めて勇気づけられる。翻訳のためか、言葉の言い回しに分かりにくさを感じることもあるが、一方で今回は、このような言い回しがフランクルがすぐ近くで力説しているようにも感じさせる所以でもあるように思った。どこまでもポジティブなフランクルの言葉に、少々の事ではへこたれてはいられないとの思いを新たにする。
山田邦男氏による「解説」が分かりやすい。フランクル自身の言葉も解説も、これからも折に触れて読み返していきたい。
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ヴィクトール・フランクル、夜と霧でナチスの収容所のその凄惨な体験から生き延びた精神科医であることやロゴセラピーの創始者であることは知っていたが「生きる意味を問う必要はない。人生がすでにあなたに問いを投げかけているから」という氏の有名な言葉にひかれて、改めて他の書も読みたいと思い手に取った。その言葉の深淵に触れることのできる一冊であった。かの言葉にはもう一つ有名なフレーズがあって「その(人生が投げかける)問いに、あなたはできるだけ<具体的に>応えなければならない」とある。この「具体的」とはなんぞやと思っていたところに、その答えは本書の中にあった。とても明快で、「頓珍漢な記者の取材」のメタファーである。チェスの名人に聞く「チェスに勝つための打ち手を教えてください」、それがいかに的外れなものであるか考えて見よ、というのである。チェスはその場面その場面であらゆる手があって、奇策もあれば王道もある。無数にある。その答えは「今、ここ」にしかないのである。この具体性、これを実存と呼ぶのである。さらに「人生が出す問いは常に新しい」というフレーズが続き胸打たれた。実存の上にあるものは丸い天井で、その先に見えるものは「永遠」である。永遠を仰ぎ見るものの得る「今」である。それは常に新しい。フランクルは言うまでもなく聖書を奉じる人である。フランクルのこの言葉に重なるように、詩編の「主に向かい新しい歌を歌え」という御言葉が響いてきた。この永遠があるゆえの人の「実存」はキルケゴールの語るところと全く同じものと思えた。
夜と霧に描かれたように、収容所で丸裸にされまさに「裸の実存」にされた人々には絶望と虚無に陥る人となおも精神の自由を得る人がいた。フランクル曰く収容所は多くの人を成熟させる場であったという。(あの過酷な日々からわずか一年後の言葉であることに驚く)。それは「期待」という言葉で説明された。〇日にこの戦争は終わる(解放される)という噂は収容所の中で常に立つが、(宗教的な)永遠を持たぬ人はそれに「期待」を抱き、ゆえに絶望し、やがて心を病む。そして死んでいく。フランクルはこのエピソードに箴言の「期待が長びくと心は病む」という御言葉を自ら充てた。永遠を持つものは「期待」はしない、永遠への希望との実存があるだけである。いつ解放されるとか、いつ日常を取り戻すとか、そんな「期待」よりも「永遠」に対する実存の中で、人間らしさの中を生き抜く。それを生き延びた人々に、フランクルは「成熟」を見たのであった。(ただし多くは収容所の中で死んでいった)。
フランクルの精神科医らしい示唆ある考察も随所にあって興味深かった。まず収容所の人々の中に起こる「退行」(アンナ・フロイトがまとめた防衛機制の一つ)の描写である。この退行という人に与えられた素晴らしい機能は、一見みじめなものであるけれど、多くの囚われ人の精神を守ったのではないだろうか。
もう一つ、生きる意味と精神障害者の存在について本書では長く述べられている。精神障害者に生きる意味はあるのか、という世俗の問いに、フランクルは一つ一つ、驚くほど丁寧に反証していく。これは、生産性のないもの、精神を病むものを無用な人間として無残にも葬り続けたナチスへの思いから熱く述べられたものであろう。(繰り返すが本書の演説はナチスから解放されてわずか1年後のものである)。
そして我々は気づく、「やまゆり園」のような事件が現代に起こるなら、ナチスの時代と我々はほとんど変わらない社会に生きているのではないかと。狂気の時代が生み出した異次元とも思える異常な収容所の世界は、現代社会の縮図とも言えるのではないかと。今この時代に生きる私も、それでも人生にイエスと言いたい。 -
「人生から何を期待できるか」ではなく、「人生は何を我々に期待しているか」という問われている者の立場であり続けること。
「生きること自体、問われていること」苦境に立ったとき、しっかりと握り締めておきたい言葉だ。 -
ナチスドイツ下で、強制収容所に送られ、戦後解放された精神科医、フランクルの講演録。
名著『夜と霧』を読み、彼の言う「生きる意味」についてより知りたいと思い読んでみた。
驚くべき点は、この講演が彼が解放されてわずか1年後に行われているということ。世界中が戦後の混乱ののさなかであり、自身もあれだけ過酷な経験していたにも関わらず、精神科医として、強制収容所での体験もふまえつつ「人間の生きる意味」について、徹底的に言語化して語っている。
後年、『夜と霧』で書かれたことと重複する部分はかなりあるが、この時点ですでに彼の思想、理念と結び付けられて語られている点にも驚かされる。
「私は人生にまだ何を期待できるか」と問うことはなく、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけである。
この言葉は「人生のコペルニクス的転換」として紹介されているが、たしかに、私たちは人生というものがそこに用意されていて、そこに期待したり、何かを求めて得られずに落胆したり苛立ったりする。しかし、人生が自分に生きる意味を問いかけているのであり、苦難や死ですら生きることに意味を与えているのだ、という考え方には素直に同意できる。その論理から自殺がなぜいけないのか、あるいは、病や老いなどによって活動が妨げられている人が「非生産的」だからといって、存在意義がないとはいえない、という結論は揺るがしがたいものに感じられる。
また、収容所であらゆるものが剥奪された中で、「人間そのもの」が溶け出した、その生々しい経験から「人間の内面」について語る部分は真に迫るものがある。
これだけ抽象的かつ哲学的な内容であるにも関わらず、平易な言葉で分かりやすく、自身の体験をふんだんに盛り込んで書かれており、時代を経てもなお読み継がれるべき名著だと感じる。 -
まず、タイトルだが一見そこらへんにある自己啓発本に見えてしまう。
でも、著者と引用元がわかれば生命の根幹に関わるテーマを扱った上での
言葉であるとわかるだろう。
引用元はユダヤ強制収容所のひとつブーヘンヴァルトで囚人たちに歌われていた
ブーヘンヴァルトの歌から。
本書の内容は強制収容所から生き延びた著者がその翌年に著したものであり、
その時の回想を交えて書かれている。
すぐ目の前に死があり、自分の生が常に薄氷を歩くような危うさの中にある
状態を年単位で過ごした精神科医の言葉は重たい。
章立ては
1.生きる意味と価値
2.病を超えて
3.それでも人生にイエスという
で構成されている、
心に残った言葉
・自殺の中で最も注目するべきものが、決算自殺ともいうべきもので
自分が人生で今後得られる+と-を決算して、-が多ければ死んでしまおうと思う。
・幸せは目標でなく、結果にすぎない
生きるという事は、たったひとつの重大な責務である。
幸せというものは思いがけず手に入るものにすぎない。
・人生は私に何を期待しているか。
・なんの道徳もなく食べることがどれほど無意味か、その無意味さが食べる事しか考えていない人にどれほど破滅的なものに感じられるか。
・人生を意味あるものにするには活動、愛があるが、苦悩によってもすることができる。
・それが可能なら運命を変える、それが不可能なら運命を引き受ける。そのどちらかだ。
・人生は究極、その瞬間の積み重ねであり、その瞬間を意味あるものにするしかない。
・人生それ自体が何かであるのでなくて、人生は何かをする機会である!
・外面的な成功はある意味で不成功で終わるが、内面的な成功は確実に到達できる
。心の支えが将来にあるのか、それとも永遠にあるのか
・死を自分のものにする
・罪を問うのはその人に責任がある場合だけだ。
その人に選択の自由がないとすれば、出身地など自分で選びとる事が出来ない
事柄については、罪を問題にすることをやめるべきだ。
収容所生還者として、医師として、そして人として紡がれた言葉たちでした。
一言フレーズとして言い表せない、けれども記憶に留めておきたいような
話もありました。
この本のたった1行でも琴線に触れるものがあれば、読むべきだと思います。
そんな本です。 -
●私たちが「生きる意味があるのか」と問うのは、はじめから間違っている。私たちは生きるを問うてはならない。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している。私たちは問われているのであり、答なければならならない存在なのだ。それは生きていることに責任を担うこと。
こう考えると、未来がないように思えても怖くない。現在がすべてであり、都度私たちにどんなことが期待されているかにかかっている。未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしがなく知る必要もない。
●ヴィクトール・フランク氏によると、自殺には四つの理由があるという。
①身体起因
② 復讐
③疲労
④生きる意味の喪失
●愛は功績ではなく恵みなのです。愛することによって、自分が愛する人がまさに唯一であり世界でただひとりだということが気づかれるということが、愛の本質なのです。
●帰還者は解放された後も抑圧された状態にあり、自分の倫理的権利を主張するのとは滅多にない。帰還者は次の二通りだった。収容所にいた時に彼らを支えた希望(会いたいと焦がれた人)が、解放後に彼らの目の前にいた人は、幸福に感謝したまま、収容所にいた時にいつも考えていたこと以外何もできなくなる。つまり引きこもって外界のことは何も知ろうとしない。あまりに幸せで復讐を考えることができない。
反対に、かの希望が失望に変わった人は、あまりに不幸で復讐を考えられない。そうした人々はもう一度収容所に戻ることさえ憧れる。希望があり、幸せになれるという可能性は幸せでない現在以上なのだ。
これほど失望した人の悲哀は二つのことによって克服される。謙虚さと勇気だ。囚人たちはこの二つを携えて新しい生活に入ることになる。絶望的な運命に対して謙虚になることを学んだ。そして、彼らの勇気とは、神以外はもう何も畏れなくていい、神以外は何もこわいと思えない感情である。
運命に揺るがず耐える勇気は、運命より強力である。
●苦痛に焼き尽くされ、本質的でないものはすべて溶け去った。しかし最後の最後まで問題であり続けたのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。強制収容所の体験の中でも、その人がどんな人間であるかがやはり問題あり続けたのです。
●無気力、無感動、無目的…
神の死は、我々の人生を意味づける超越的根拠が無化し、その結果、いっさいの価値が相対化し、根底に置いて無化すること。自らを支える絶対的根拠を欠いたまま、無の深淵の上にさしかけられている。
これは一方で我々が絶対的自由を獲得したことを意味するが、その自由は全てが空いとらいう条件つき。自由と不安、あるいは絶望は相互に切り離し難く結びついている。現代人の心は、無のゆえに、無の中で、無に向かって散乱するかのごとく。
●神はすべてにしてかつ無である。無は正しくは理解すれば、結局それは捉えられないもの、言葉で言い表せないもの。
しかしながら、我々はこのようなニヒリズムを通り抜け、悲観主義と懐疑を通り抜け
、新しい人間性に、今こそ到達しなければなりません。
●人生は我々に毎日毎時間問いを提出し、我々はその問いに、詮索や口先ではなく、正しい行為によって応答しなければならない。人生というのは結局、人生こ意味に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を負うことに他ならない。
●我々は人生から何を期待できるかという観点から問う。この観点は自己を世界の中心にすえて、自己から世界を見る見方、つまり自己の利益という視点から世界を見る見方である。このような見方はしかし、強制収容所におけるような絶望的な状況では耐えることができない。なぜなら、そこではもはや何ものも世界から期待できないからである。「私はもはや人生から期待すべき何ものもない」と語らざるを得なかった人々は、やがて次々と仆れていった。
こうした自己中心的な人生観ではこの限界状況に耐えることはできない。それは自己の快楽と力を追求するが、その自己は結局何のためか、という問いに対する答えはそこからは出てこないのである。我々は人生から何を期待できるかという自己中心的な人生観は、自己存在そのもこの意味にとって原理的な限界をもっているのである。
それゆえ、この人生観は、人生は何を我々から期待しているかという観点に転換されねばならない。それは自己から人生を問うのではなく、人生から自己を問うものである。収容所で生き延びた二人の男は、それを行なっていた。一人は待っている子供、もう一人は待っている仕事から、問われている者として、自己を体験したのである。
●我々が生きること自体、問われていることであり、我々が生きていくことは答えることにほかならない。人生「というもの」の意味を問題にすることは、チェスの個々の具体的な局面を離れて、一番いい手は何かを問うようなもの。
人生が出す問いは瞬間瞬間、その人その人によってちがい、その都度、一回性と唯一性があり、自己の責任性と絶対性を形成する。
つまり、生きるとは問われていること、答えること、自分自身に責任を持つことである。
●創造価値:何かを行うことに、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現すること。自己を捨てて事に仕えることができるほど、事それ自体が実現される。事の自己実現が創造であり、同時にその人の本当の自己が実現されているのである。
●体験価値:何かを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによって実現される価値である。
●愛の体験:愛の本質は、他者をそのすべての独自性と一回性において体験して、他者をそのあるがままの姿で据えることにある。
物たちは花嫁のように胸をときめかせて精神的存在を待ち受けている。
自然や芸術という物たちは人間を待ち受け、人間はそれに惹きつけられ、魅せられら魂が動かされる。
●態度価値:自分の可能性が制約された運命だとしても、その事実にどんな態度をとるかによつまて実現される価値。
人は運命を嘆いてはならない。運命は私たちの生の全体にそっくり属していて、どんな小さなことでも、この全体から抜き取られてしまうと、私たちの生活の全部が、その形がこわれてしまう。人間は苦悩の中に成熟し、苦悩において成長するのである。
それらの事実をどのように受け止め、どのように解釈し、そこから自己の人生をどのように形づくっていくかは、現在の自己の態度にかかっている。
苦悩に耐える(引き受ける)ことによって、人は運命を事実の次元から実存的なものの次元へ移すことができる。
●目は目自身を見られ得ず、鼻は鼻自身を、嗅がず…自己が我を忘れて何かに夢中になっている時、そのに真の自己が働き、実現されている=無意識への信頼。
行おうとする意思がその自然な創造活動を妨げている。過度の自己観察や反省過剰を捨てる=脱反省をし、無意識への信頼を回復するには、自己がこのあるものを打ち捨てて何かに行動すること、何か別のものに向かって実存する事によってのみ。
自己充足や自己実現は結果として達せられるのであり、意図してではない。我々が自分をゆだね、専心し、任務や要請に献身する程度に応じてのみ、我々が自分自身の要求だけでなく、外の世界にかかわるその程度に応じてのみ、我々は自身も充足し、実現するのです。 -
読書が人生を豊かにするとか、成長に繋がると言われるが、この本はまさにそのような本。
このような価値のある本に、星など上から目線で付けて評価してよいのかと、憚られるほど。
どう生きれば価値があるのか、とても良くわかる。間違いなく、自分の座右の本になる一冊。 -
宮本輝の小説で、この本の一節が引用されていた。それは著者フランクルが引用したある母親の言葉だったが、心に深く刻まれた。公演の全体が知りたくて読書。
ナチスの政策で強制収容所に連行され、人として扱われずいつ死んでもおかしくないところから帰ってきた著者の言葉は重い。
自殺しても問題解決にならないので、自殺は無意味。生きる意味があるかないかはその人次第。生きることが困難になればなるほど、生きることが意味あるものになる。病気になっても、死が迫っても、生きるのは無意味ではない…と極限でも生き抜いた人が紡ぐ言葉は勇気を与えてくれるし、強いなと感じた。
一人一人の人間が唯一で、その人生が一回きりなのがその人の価値だ、生きる価値がない生命などない!と力強く言い切る著者に感銘を受けた。
生きるのがやっとの娘を抱きかかえて、その娘が母親の首に手を回しにっこりと微笑むのを見つめながら、「そんな時、わたしはしあわせでした。どんなにつらいことがあっても、かぎりなくしあわせだったのです。」
障害がある娘を政策により安楽死させねばならなかった母親の言葉。わたしには子どもがいないけれど、この母親の気持ちを想像することは出来ると思った。「知恵遅れの子供達ほど両親の愛情が深い」という本文にはない副題をつけた翻訳者にも感じ入った。 -
フランクルは、ナチスの強制収容所を体験し九死に一生を得たウィーン大学教授で精神医学者・心理学者。生きる意味を問い続けた人です。彼は、収容所生活を生き抜けた人は決して身体が壮健な人ではなかった、精神が強い人だったと言います。それは例えば、収容所の水溜りに映った空の雲を見て、ああ春だと実感できる人、泥道の傍らに咲く小さな花に歓びが見出せる人、そのような心のあり方であると。もっと言えば、人生の意味がわかっている人、未来を信じることができる人、であるといえるかもしれません(同『夜と霧』、1947年、池田香代子新訳、p.58,66,125,128)。
東日本大震災にあっても、私たちはその運命と向き合って生きていかなければならないのです。フランクルは、「私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。」(p.27-28)と言っています。平穏な毎日においてこそ深く受け止めるべきことと思います。そして解答はそれぞれですから、正解は自分の<外>にはありません。生きる意味は与えられるものではない、自分でつくらなければならないということです。
[塩見図書館長]