更新期の文学

著者 : 大塚英志
  • 春秋社 (2005年12月発売)
3.30
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  • 本棚登録 :22
  • レビュー :4
  • Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393444139

作品紹介・あらすじ

「文学」をいかに立て直すか。「近代」を何故、擁護すべきか。「更新期の文学」という現状認識に対して示しうる処方箋は「新しいことば」の所在を示したり、ポストモダン的身ぶりの手本を見せたり、二次創作を手軽に行なえるコモンズ作りをすることでは全くない。あくまでもこのような「近代的言説」の暫定的、かつ批判的な再構築の提言である。

更新期の文学の感想・レビュー・書評

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  • 自分は見事なまでに「ファウスト系」から読書に入ったクチなので(そして未だにその作家の作品を読んでいるので)偉そうなことは言えないけれど、それでもちくちく感じている(いた?)あのへんの作品の、というかその周辺の「うさんくささ」みたいなものが良く言語化されていると思った。

    現在は言葉の「更新期」にあって、ネットの発達によって著しいほどの「私」の発露が行われている。それはかつて明治期に行われたのと同じ新しい「言文一致体=ことば」を作り直すことを要請している。著者はここからかつて明治期に失敗した新しい「公共性」を持ったことばを作り出すことが必要だと主張する。
    それは「不良債権としての文学」にも要請されて、8000部程度しか売れない文芸誌は今までのように出版社の黒字に支えられる「既得権」から脱して、収支の維持された形態に移行するか、そうでなければ自分たち文学の存在意義、「公共性」の主張が求められる、と。

    まあ、主張自体はまともだと思う(確か「不良債権としての文学」は高校生のときに読んで、「文芸誌って8000部しか売れてないんだww」と思った記憶)。

    出版は2005年で、もうそこから8年も経っているけど、状況は全く変わってない…どころか悪化してるのか。
    twitterの普及でますます個人のことばは氾濫するようになっているけれど、「公共性」を獲得するどころか著者の予想した通りファシズム的な方向に進んでいるからなあ。

    そしてこの本自体が20人にしか登録されていないという事実…。
    『キャラクター小説の作り方』も積んでるから読もう。

  • <オビ表>
    「文学」をいかに立て直すか。
    「近代」を何故、擁護すべきか。

    <オビ裏>
    従ってぼくが第一章の冒頭で掲げた「更新期の文学」という現状認識に対して示しうる処方箋は「新しいことば」の所在を示したり、ポストモダン的身振りの手本を見せたり、二次創作を手軽に行えるコモンズ作りをすることでは全くない。
    あくまでもこのような「近代的言説」の暫定的、かつ批判的な再構築の提言であり、その意味でぼくは「近代」を擁護する立場をとる。(本文より)


    とまぁ、本書は帯においてこのように紹介されている。しかし実際に読むとまぁ話は拡散しまくっていて、上のような統一テーマがすべてを貫いていると言えば言えなくもないけれど、あらかじめ言われなければ文学を専門的に研究もしてなければアマチュアとして偏愛もしていない、大塚英志の近代への「保守」「反動」という思想の核のみを知りたい僕のような人間にとっては少し、読みにくい代物ではあった。サブカルチャー、ファウスト系文学、メフィスト系文学等々、大塚にとってどの形容詞がこれらの現代文学ジャンル(と言っていいモノかは知らない)の名詞に当てはめられるのかわからない、そういう文芸批評一般に対する読みにくさをこの本もたしかに持っている。だから、文芸愛好家でなければ全部読む必要はないだろう。大塚の思考を建築に当てはめたい僕のような人間は第一章、第七章、それにあとがきを読めばよろしい。そんな私は無理やり要約してみる。

    大塚にとって現代(日本)は文学の更新期である。何ゆえそうなのか、というのはひとまず置いておくとして、このような更新期は近代(大塚に言わせれば明治40年前後)にもあったという。

    近代における文学の更新は、「ことば」の更新であったと言い換えたほうが理解やすい。つまり「共通語」の発生である。発生の理由はふたつ考えられる。

    ひとつは言文一致体であり、ひとつは工業化の進展による都市化である。

    大雑把に言って、大塚は前者を私小説および自然主義文学へ、後者を民俗学へと結ぶ。大塚が近代における文学ないし「ことば」の更新を明治40年の時点に絞るのは、それぞれの先陣を切り代表となった田山花袋の『蒲団』と柳田國男の『遠野物語』のどちらもがその年に書かれたことによる。

    大塚は言文一致からはじまる私小説、つまりいわゆる文学として現在まで呼ばれているものは、作者の「私」の水準における存在証明と「公」の水準における自己実現のためのツールでしかないと言い切る。その最前線としてファウスト系文学やネットブログが挙げられるが、それらは外部に対して閉鎖的であり、かつ内部においても極度に細分化し、仲間内で分かる「ことば」で乳繰り合うちっさい島宇宙の乱立という状況にあり、近代において為すべき目的としてあった「共通語」とはかけ離れている。その一方で純文学と呼ばれる文芸誌に支えられる狭義の意味での文学はと言えば、赤字を計上し続ける不良債権としてあり、『絶対安全文芸批評』などにおける佐々木敦の指摘を持ち出すまでもなく購読者はひどく限られ、公共性を欠いている。

    ネット上のブログであれ出版される文学であれ「動物化」や「コンテンツの消費ではなくコミュニケーションの消費」と呼ばれるこのような状況は、不毛である。それは倫理的に、だ。なぜなら、結局気持ちよさだけを求めている振りをしていても、みんな他者からの承認欲求で一杯じゃないか、他者および他者からの承認を必要なのに認めようとしないのは、ただ恐れているだけだ。さぁみんな勇気を持って他者とコミュニケートしよう、と言う。これは論理性云々ではなく「人にとって何が大切か」といった類の、陳腐だが強度のある、大塚個人の倫理の問題だ。それゆえ東浩紀とは真っ向から対立するスタンスとなるわけだが。

    そこで、他者とのコミュニケーションを成り立たせる「ことば」=「共通語」を創らねばならぬ、となる。現状に即したまったく新しい「ことば」を作り出す方法もあるにはあるが、「もう一回、近代やり直そう」というのが大塚の提言である。そもそも近代において一度「共通語」を作ろうとして失敗したのが現状であって、ネットでは言文一致で私小説と見紛わんばかりの「自分語り」がゴミ山のように現れているではないか、つまりネットではもうすでに近代は高速でシミュレーションとして反復されているのではないか、だったらこれはやり直す千載一遇のチャンスじゃないか、どうやって?民俗学!柳田國男!私小説という「自分語り」のツールに辟易しパブリックな「ことば」を模索した柳田民俗学をいまこそ捉えなおすべきだ!

    となるわけです。


    *   *   *

    最後はフザケになってしまいましたが、これは本当にすげぇ本、すげぇ大塚英志だと思います。「近代、やり直し」ってそうそう言えることじゃない。これ以後次々と発表された柳田國男関連の著書を当たるべきだ。

  • 近代のやり直しだそうです。

  •  笙野頼子と文学論争をした「文壇のほら吹き」大塚英志の文学論である。 なんだかんだ言って、僕は大塚英志の文学論が好きなのである。 小森陽一がこの本を研究室に置いているのも注目すべきだろう。 現代において文学をどのように再建すべきか。 作中の「私」がべったりと主人公に結びつき、作家の自我形成に役立っている、または作家が役立てようと自覚的にしているという近代文学の現状をどうするのか。 それが今後模索されるべきだろう。

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