トンデモ本とは言わぬが、トンデモ的ではある。(特に向こうの教科書)
まあそもそも歴史という単語の意味が、過去の事実と見るか、現代の政治ツールと見るかの大きな差があるので、そこで認識の違いを非難してもしょうがない気がする。また
植民地にした時にいいこともしたというロジックは別に植民地のためにやったわけではなく、自分たちにとって必要だからやっただけの話なのであまり説得力を持たない気がする。
P.18
まず一つは、歴史教育において「中国は常に絶対的な善」だということです。(中略)中国側が主張する歴史というのは、神聖不可侵だということがあります。これは何かというと、歴史観の違いもあるのですが、明らかに言えるのは歴史という概念そのものが日本と中国では違うということです。
日本では歴史は教養の一つと考えますから、ありのままに伝えることを一つの基本的な姿勢としています。しかし中国にとって歴史とは、主に中国共産党の教育のプログラムの中の一つ、洗脳の一環として利用しているのです。
P.32
儒教は、宗教と意識しないほど生活様式に溶け込み、言うなれば中国人の体質のようなものになってしまっている宗教と言えるでしょう。
そのため、実は中国人だけの習慣なのに、世界的な習慣だと思い込んでいるようなケースが多々あります。そして、日本もその習慣にしたがうべきだと思い込んでいる。
P.47
清の乾隆帝が周辺諸国を侵略しまくっていりうのですが、そのことも書いてません。でも、領土はふくらんでいるわけです。ではそういうときに彼らは何というかというと「解放」、少数民族に対する文明解放というです。あくまでも侵略ではないというスタンスを取るのです。
P.55
要するに、中国の歴史教育は、国民が「中国共産党に従って社会主義の輝ける道を歩む」ためにやっていることがわかります。(中略)
戦前の日本の皇国史観というのは、天皇家がこの国を支配することの正当性を説くものでした。そのため、天皇家にとって忠実であった不忠であったかということが、人間の価値判断、あるいは歴史的事象の価値判断の基準となっていました。しかし、そういう教育は真実を歪めます。要するに「真実はこうであった」ということよりも、「こうあるべきだ」と考えてしまうため、あるべきじゃないところについては事実を曲げたり、あるいは隠して伝えなかったりしてしまうからです。
P.60
中国というのは、この後もそうですが、自国の侵略行為を、統一とか解放といった言葉に上手く言い直して隠しているんです。
しかし中国で、こうした偽りの記述がなされるのは、ある意味「伝統」であるのです。そのため、16-17世紀の中国では、歴史や経書の真偽を交渉する学問、「弁偽学」というものが発達しました。つまり中国の歴史書に偽物がたくさんあるという大前提からスタートしているわけです。