ユダヤ人 なぜ、摩擦が生まれるのか

  • 祥伝社
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感想 : 6
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784396615734

感想・レビュー・書評

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  • 学んできた西洋史と比べると、逆立ちをしているぐらいの差がある。特に、ロシアの歴史については、今、目の前で起こっていることは、この本に書かれていることを土台にしたほうが、矛盾なく説明できる。もちろん、たくさんの人が殺されていることが容認できるわけではない。それに、失われたロシアのツアーの血統の代わりになるものなのか、にも違和感がある。王の血というのは、その国の歴史を刻みこんできているので、その国の国民が決めて代わりにわれわれの選良を国の代表者にするのだと、定めたというような、いきさつが認められない代えは難しく、かえって隣国の住民をむやみに殺した事実と自国の国民でも国家が等級分けして戦地に追いやって人柱のような犠牲をしいることばかりが際立つ。フランスのような、共和制をめざすなら孤立せずにすむだろうが、そのような方向に動いているようにはみえない。
     イスラエルとパレスチナの戦争についても、イスラエルという、国の出自が相当に特殊なために、問題を大きくしているようにみえる。しかし、そうではあっても、人が殺されていることは、容認できるものではない。
     詰まるところ、抱え込んでいる歴史的な問題点は相当に根深いものだが地域的に近いところで歴史を共有しているような関係にあるような事情があると、いま起こっていることは予測がついたものなのだろう。 書かれた当時は、ホロコーストを予見したといわれたようだ。
     この本はイギリス人の視点から描かれたものだが、イギリス人の中にもさまざまな考え方があって、かならずしも定見があるわけでない。しかし、問題解決についてもこの本には示唆があって、それは、要するに現状で何が感情的でなく理性的であって、互いに尊重しあうことができるか、その一線を見極める必要があるということなのだろう。

  • 『#ユダヤ人』

    ほぼ日書評 Day569

    難解な本である。

    ひとつは「ユダヤ」という我々の日常との接点が少ない "何か" を扱っているから。

    もうひとつは、時代ゆえ。初版が1922年(ちょうど100年前だ)、本文中に「イスラエル」という表記が多数出てくるが、もちろん国家としてのイスラエル建国は1948年であり、その四半世紀前の「イスラエル」とは何だったのかをイメージすることの困難さゆえである。

    比較的馴染みのある論点としては、ロシア革命が、実は「ユダヤ革命」であったことについて。
    ユダヤ人は、多国間を絶え間なく移動し、階級感情に逆らう勢力。結果、主要な唱導者や有能な指導者となり、まだ一理論に過ぎなかった『資本論』に示された方針から、明快な解決案を主張し、世界中でその運動を結びつける役割を果たした。そうした過程を経て、力を手に入れたユダヤ人による評議会は必ずや同胞への利益供与を目論見ることとなり、結果、資本主義を牛耳るユダヤ人金融家と、ユダヤ人による革命統制の間に「中途半端な類似性」が見られることとなる。
    当時としては、ここまでしか書けなかったのか、はたまた純粋に類似性としてしか現出しなかったのか、現代の我々には判断のしようがないが、ロシア革命から(ソビエト政権設立をもたらす10月革命は1917年)数年しか経たぬうちに、現代では様々な憶測や噂話も含めて語られるユダヤ資本ないしディープステートの礎が築かれていたというのは驚きである。

    ユダヤ人は出自を隠し、偽名を使う。似たような話を身近でも耳にするが、ユダヤ人に限っては戻る国が無いのだから、積極的に同化しようという動きならば勿論歓迎だろうが、なにかと「秘密結社」や「陰謀」の存在が囁かれるのも、その同胞意識と影響力の大きさゆえなのか。

    最後にやや長くなるが、本書で「ヨーロッパ人の愛国的本能の表現」とされる一節を引いておこう。あるいは、現代日本人がこの「本能」から大きく逸脱していることこそが「ユダヤ問題」を難解に感じさせる究極の理由なのかもしれない。
    「私は、祖国の市民としてでなければ、役目を果たすことができない。さらに国家があるからこそ今の自分があるのだ。国家はある意味で私の創造主であり、私に対して権力を持つ。必要とあらば、国家の防衛のために私の命さえ諦めなければならない。なぜなら、国家の存在がなければ、私も、私と同じような人々も存在し得ないからだ。私の幸福、私の個人的行動の自由、私の自己表現は、私がその一部である市民の一団が存在することと、ことごとく密接に結びついている。私に抽象的に善と思えるものでも、あるいは、私のために物質的な善を調達してくれるものでも、市民の一団にとって危険が潜んでいれば、私たちの国民の存続と資力の方を、より大きな善だとみなし、より大きな善のためには、より小さな善は犠牲にされるべきである」

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  • 100ページぐらい読んでもいっこうに面白味がなかったので、挫折しました。国際金融資本から派生してこの本にたどり着いたんですが、ちょっと違ったかと。最後まで読んでないから分からんけど。

  • 参考文献・山崎正和氏著「柔らかな個人主義」なんか
    色々と時代的にすごいらしいで。

  • ユダヤ人と受け入れ側の摩擦感を増長し、持続させている原因として、ユダヤ人側であげられる大きな2つの要因は第一に秘密主義、第二に優越感の誇示である。ユダヤ人は秘密という武器に頼ることが、何世代にもわたって慣習化されてきた。そのため、どのユダヤ人集団でも、それがほとんど習い性のようになっている。秘密結社、秘密にされる言語、偽名の使用、ユダヤ人集団の中の分派間での秘密の関係などである。これら全ての慣習がユダヤ民族の常套手段となっているわけである。このようなやり方が嘆かわしく思われるのは、その侮辱的な言動や欺瞞によって、ユダヤ人の品位が下がるからではなく、むしろこの手段を取ることによって、私たちとユダヤ人との相互関係に弊害が生じるあkらである。そのため、人種的な違いによって既に引き起こされている敵意に油が注がれ、より一層激しく燃え上がらせているのだ。しかし、その前に公正であることが重要である。ユダヤ人の秘密の慣習は、多分ユダヤ民族の経験から生まれたものだろう。ユダヤ人は離散の憂き目にあい、迫害され、しばしば軽蔑され、いつも白い眼で見られ、移り住む土地の人々からはたいてい憎まれる民族は、物理的な圧力のようなものに晒され、いやが追うでも秘密というやり方に頼らざるを得ないのだ。「本名で仕事をすると、あなたたちからユダヤ人だと口汚くののしられます。そこであなたたちの名前で仕事をすると、今度はペテン師だといって罵られてしまうのです」とのこと。ユダヤ人は自分が誰かを名乗り出れば、自ら大きんあハンディキャップを背負わされてしまう、そう思うことがしばしばあった。

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著者プロフィール

1870年-1953年。父親はフランス人、母親がイギリス人。歴史や思想、詩や小説など多岐にわたって文筆活動を行った。本書は1907年に発表された。

「2010年 『悪いことをして罰があたった子どもたちの話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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