神学の起源: 社会における機能 (神学への船出 (03)) (シリーズ神学への船出 3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (226ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784400300038

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  • ・多くの人は、キリスト教と一言で言っても、自分の信じているあるいは所属している宗派や教会しか知らないので、それがキリスト教だと思い込むのである。それが一般的な宗教との接し方であり、間違いとは言えない。ところが信じるという行為は自らの人生をそれに重ね合わせ、全てを委ねることであるから、他にもキリスト教があるという事実を受け入れることがなかなかできなくなる。

  • 「ああ、神学も、また」―「神学とは何か」という問い:
    伝統的な「神学諸科解題」という答え
    神学「入門」
    私たちの時代の「神学」観
    「神学」という学問の社会史

    「イエスが宣教したのは神の国の到来だったのに、やってきたのは教会だった」のか?:
    神学がなぜ必要になったのか
    終末の遅延
    神の国思想の大改造
    神学の誕生
    二つの神学観

    キリスト教的ヨーロッパの成立と神学:
    中世という舞台設定
    ヨーロッパのキリスト教化
    中世の神学の誕生と、「となりの哲学」
    神学論争としての普遍論争
    科学としての神学
    神学と政治
    中世的神学の終わり

    宗教改革と中世の終わり方:
    中世の終わりと近代の始まり
    宗教改革と呼ばれる出来事
    宗教改革の終わり方
    神学とナショナリズム

    一七世紀イングランドの改革と神学の市場化:
    革命の理論になる神学
    アングリカンとピューリタン
    ピューリタンの登場と神学の性格の変化

    レ・ミゼラブル―フランス革命と神学:
    教会的ではないが、宗教的なキリスト教の登場
    キリスト教を教会から切り離す
    宗教の私事化としての世俗化と神学の新しい姿
    大革命からライシテまでの道のり
    教会の神学と「教会嫌いのキリスト教」の神学

    プラグマティズムとしての神学:
    自発的結社の国アメリカ
    ブロードウェーでの神学?
    プラグマティズムと神学
    第8講 神学のアクチュアリティー
    教会での神学
    神学は必要なのか
    過激な相対化

  • 神学自体を対象にしていて分かりやすい。

  • (太陽信仰)自然に豊かな実りを約束する太陽を神とする信仰である。それは、ヨーロッパの深い森林を支配する神々や精霊への信仰と畏れである。キリスト教はこの自然と人間の関係にメスを入れる。そして人間に時間と共に生きることを教える。人間は時を刻むこと、時を計ることに努力するようになる。教会や修道院が時間や曜日、そして暦を管理する。時間も暦も聖なるものとなった。自然の克服。(p.75)

    なぜ中世のような時代に、とても世の中の役には立ちそうもないと思われるような思弁的で超越的な神学が生まれたのか、という問いには、ヤン・ロールスが言うように、そこには哲学があったから、と答えることができるであろうし、またそのような思弁が社会においてはどんな意味を持っていたのか、と問われるならば、社会を平和に保つために、また世界の仕組みを「神」を含めて説明するために大変役に立つ具体的な回答としての意味があったからと言わざるを得ないのである。(p.85)

    宗教は教会という場所から、人間の心へと場所を移すことになった。これは近代の典型的な宗教の場所である。それまで宗教が担っていた責任が、西ヨーロッパ全体とか、キリスト教世界、あるいは国家や社会の道徳性などという全体性や公共性ではなく、個人の心の中へと移動してゆくのである。(p.164)

    つまり世俗化とは、現代社会のように「聖なるもの」を失い、脱宗教化して、社会システムのあらゆる場所から神を追い出すことだと説明されるが、逆に、その社会にはたとえ人々が宗教を忘れ、聖なるものを失っても、なお「世俗化した」形で元来のシステムが残っているという、過去と現在の連続性を説明することにもなるのである。そうすると神学は、西ヨーロッパに起源をもつあらゆる文化や学問、制度やシステムを考える時に、常に対話の相手として呼び出される、非常に重要な学問ということにならないだろうか。(p.216)

    絶対的なものを知っているが故に自らを相対化すること。この態度は人間を自由にし、謙虚にし、本当の意味で対話を可能にするし、自らの学説や仮説が乗り越えられていくことを受け入れ、そのことを喜び、真理が明らかになることを喜ぶのである。もう既に全てが明らかになっているとか、自分は全てを知っているなどとは言わないで、対象と謙虚に向き合うことを教えてくれるのである。現代社会の中で、現代人に対して、神学はこのような意味での真の相対化を教えるのだと思うのである。(p.220)

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著者プロフィール

1964年生まれ。アウクスブルク大学哲学・社会学部博士課程修了。Dr. Phil.(アウクスブルク大学)、博士(文学)(京都大学)。現在、金城学院大学人間科学部教授。著書『超越と認識』(創文社)、『十九世紀のドイツ・プロテスタンティズム』(教文館)、『ヴァイマールの聖なる政治的精神』(岩波書店)、『思想としての編集者』『神学の起源──社会における機能』(新教出版社)、Paul Tillich: Journey to Japan in 1960(Tillich Research 4、 de Gruyter: Berlin 2013)ほか、訳書にシュライアマハー『宗教について』(春秋社)、『アーレントとティリッヒ』(法政大学出版局)ほか多数。

「2014年 『ティリッヒとフランクフルト学派』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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