キリスト教綱要 改訳版 第4篇

  • 日本キリスト教書販売 (2009年1月26日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (592ページ) / ISBN・EAN: 9784400301103

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  • ジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』
    を読もう、と思い立ち

    オレが図書館で借りてきたのは、この本じゃなくて
    1962年初版
    河出書房新社
    のもの

    ブクログで記録しとこーと思ったのだが
    そんな古い本、無かった・・・・・・

    2009年初版の、こちらの本も、次に借りてみようと思う


    いや~
    字がちっちゃくて、分量が多くて、ビビった

    読み始めても、内容がゼンゼン入ってこない・・・・・・

    ---------------------------------------------

    第18章 祈祷
    第1項

    3.20.1

    人間がすべての善に欠け・・・・・・

    ゆえに
    自分自身から外に出て、助けを求めにゆかなければなりません

    第19条
    第1項

    3.21.2

    ある人には、救いが、求めずにも与えられ
    ある人には・・・・・・

    神の承認によってなされるとしたら

    ある人が、救いに予定され

    神は
    すべての人に救いの望みを継がせず
    ある人に与えるものを
    他の人に拒否します

    3.21.5

    敬虔であると思われたい人は、予定を拒否するようなことは決してしません


    ---------------------------------------------
    wikipediaより

    予定説
    「カルヴァン神学の中心教義は予定説(二重予定説)である」
    というアレクサンダー・シュヴァイツァー(ドイツ語版)の学説は、
    マックス・ヴェーバーらに影響を及ぼした見方

    「予定」の項目が現われるのは
    『キリスト教綱要』第3版から。

    カルヴァンの中心思想を特定することは困難であるが
    「神中心主義」などと表現されることが多くなった。

    ---------------------------------------------

    あまりにも、ワケが分からないので

    「イノヴェイティブ・ミッショナル・コラボレーション・ジャパン(IMCJ)ホームページ」
    を参照して

    ここの、牧師さんの説明を

    『キリスト教綱要』を読みながら
    同時に読んだんだけど

    この説明もまた難しくて、歯が立たない

    一部伐採してみる

    ----------------------------------------------

    1992・09・17
    第12講 カルヴァンのキリスト教綱要

    * ニーゼル「カルヴァンの神学」

    * F.L.Battles ed.: An Analysis The Institutes of the Christian Religion of

       John Calvin.

     * Paul C. Boettger : Calvins Institutio als Erbauungsbuch.Versuch einer lit-

      erarischen Analyse. 1990.

    (1)キリスト教綱要の性格

     1.教理の大要

    「綱要」と訳される「 institutio 」は「教育」の意味。
    ドイツ語では Unterricht

    そこで言う「教育」とは、「信仰の教育」のこと
    殆どカテキスムスの同義語。

    当時「カテキスムス、あるいはインスティトゥーティオ」という名の教理教程の書物が幾つも書かれていた。

    同じものを「スンマ」(summa)あるいは「スンマ・ドクトリナエ」(summa doctrinae) と呼ぶ言い方もあった。

    スンマは中世においても、例えば
    トマス・アクィナスのスンマ・テオロギカ(あるいはスンマ・テオロギアェ)に見られるように、
    壮大な学問体系の総纏めを指す名称として用いられた。

    同じスンマであるが
    カルヴァンはそれとは違った使い方をしている。

    但し、スンマの語の意味が変わったとは言えない。
    宗教改革以後のプロテスタント正統主義の中で、トマスに似たスンマが書かれることもあるからである。

    スンマは「全要」「纏め」。

    神からの教えとしては、聖書が完全なものを包含している。
    しかし、聖書の教えは厖大であって、初心者にこのまま与えると却って混乱する。
    それゆえ、纏めをつけて教える。


    すなわち、スンマは特に初心者のために
    聖書の内容に筋道をつけて教えるもの。
    (綱要フランス語版の梗概参照)

    スンマは全体の統一を志す方法。


    (3)創造主なる神

    1.創造主なる神の認識と贖い主なる神の認識の順序

    神認識は二重構造をなす。

    創造主の認識も聖書によらなければ確立しないが、
    聖書に固有な神認識は贖い主としての神の認識。

    そして、ここでも教える順序が大切。

    創造主の認識が先に教えられなければならない。
    順序を逆にすると、
    教理を正しく教えることが出来ない。

    2.被造物なる人間

    被造物なる人間についても上記と対応した認識構造がある。
    神から創造された人間についての認識と、創造の状態から落ちた、したがって神によって贖われるべき人間についての認識である。

    無からの創造であるが、被造物としての人間が良きものであったことは人間論の出発点である。
    キリスト教的実存主義が虚無、腐敗、不安、死、罪を出発点にするのと違った行き方をする。

    創造論の主要部分は人間の創造についての教え。

    人間以外の被造物については天使論があるだけ。

    それも人間のための神の使いという意味で取り上げられる。人間の創造は神の形に中心を置く。そしてそれは甚だしく損なわれてしまっている。この形の回復はまことの神の形であるキリストによる。それが創造論の眼目である。

    3.神存在

    カルヴァンの神は
    スコラ神学が形而上学的に捉えたような単なる存在としての神ではなく、
    圧倒的な意志を持つ人格であり、
    人間と関わりを持ってくる神である。

    しかし、神秘主義者が考えるようのな、とらえようのない存在でなく、

    「言葉をもって自己伝達を行なう神」である。
    基本的にルターと一致。

    4.自然的神認識は成立するか

     パウロがローマ書で言うように、
    神について知るべきことは被造物において明らかに啓示され、それを知らないことについて言い逃れは出来ない。

    神認識は自然的に成立するか。
    カルヴァンはすると言っている。

    しかし、その逆のカルヴァン解釈が成り立つ。
    逆の解釈のほうが正しいように思われる。
    すなわち、
    神について知るべきであるにもかかわらず知らないことは、言い逃れられないと言うために自然的神認識を肯定するのではないか。

    神認識は直観的に把握されるのか。
    不可能である。
    言葉によって導かれなければならない。
    創造主についての神認識にしてもそうである。まして、贖い主なる神の認識は御言葉なしでは成立しない。そこで、創造主なる神に至るためには導き手としての聖書が必要になる(1,6)。こうして聖書論がいわば挿入のような形で入って来る(1,6-9)。すなわち、聖書論を神学体系の出発点としては扱わない。しかし不可欠の確認事項。

    5.聖書についての教理

    宗教改革における聖書論は教会的伝統の主張に対して提示されたものである。「伝承されている」と言うのに対し、「書かれた」、書く行為は完了した、というところに重点が置かれた。従って確定された基準となる。それは明確に対象化される。

    聖書の権威が確信されなければならない。

    聖書の権威と信憑性を証しするのは聖霊と聖書自身。

    (4)三位一体論

    1.古典的三一論の継承

    セルベトが三位一体を否定した時
    カルヴァンはこれを徹底的に攻撃。

    セルベトは「キリスト教の回復」を志し、そのためには三位一体論を否定しなければならないと考えた。
    彼なりにキリスト教の回生を目指した。
    それは宗教改革が目指したのと全く別のものである。

    セルベトは人文主義的思考から合理化を目指した。
    そう受け取られることが多いようであるが、事実はそれと違い、
    彼は人文主義者の中で最も進んだユダヤ教研究者であって、キリスト教をユダヤ教的に再解釈しようとしたのである。

    カルヴァン自身もユダヤ教やラビの聖書解釈は学んでいるが、キリスト教神学として守るべき一線があることを知っていた。

    カルヴァンが古代教会の教理を教会にとって基本的なものとして重んじていることは明白であるから、
    三位一体論が重視されたのは当然。

    古代教会の信仰の継承という観点からカルヴァンの三一論を理解する必要がある。

    2.啓示に基く三位一体論

    キリスト教綱要における三位一体論は大きい場所を取らない。

    三位一体論の独立した著作をすることをカルヴァンは考えなかった。
    詳しく論じて自己充足的な理論になることを差し控えたのである。

    4.律法とその用益

     律法は契約の大枠の中で先ず把握される。
    神はイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放して、御自身の民とし、契約を結び律法を与えたもうた。

     5.キリストの御業

     これは服従という一言で纏めることも出来る。
    人なるキリストが人のために代わって服従を全うされた。それは完全に果たされた。一回的ということが強調される(ヘブル書の主張)。
    その頂点として十字架の死がある。

    十字架の死が
    苦難のみでなくむしろ勝利である
    という点がカルヴァンの主張の特色になっている。

    苦難を強調して、これを罪ある人間のカタルシスとして見る見方はカルヴァンにはない。

    同時にキリストの復活と昇天が強調される。
    人性における復活・昇天である。


    (7)義認と再生

    1.義認

     義認についてはルターの線を踏襲し、徹底させている。

    信仰が義とするのではなく、
    信仰が功績となるのでもない。

    3.行ないによって義とされるのではないが、
    行ないも義と認められる

    義認は行ないによるのではないが
    行ないを欠くのでもない。
    これがカルヴァンの義認論の特色の第一点である。

    (8)信仰と悔い改め

    1.悔い改めとは再生である

    ルターの宗教改革は真の悔い改めを求める熱意から始まった。
    だが、九十五か条提題ではその悔い改めの主張は真実な痛悔の要求に終わる。
    悔い改めをそのように消極的に、罪を悔いる行為として理解することが一般に多い。
    カルヴァンは悔い改めを再生として捉える。
    したがって、悔い改めを論じる論は積極的に展開される。

    (9)永遠の選び、二重予定

    1.カルヴァンにおいて予定論は出発点ではない

    後世のカルヴィニストは
    予定論あるいは聖定論を
    神学体系の公理のように、これを先ず確定して、
    そこから他の教理条項を導き出そうとした。

    カルヴァンはそうではない。

    予定論の位置も最初ではなく、
    救いについて論じた後である。

    これだけの豊かな救いが差し出されているのに、
    なお滅びのうちに留まる人があるのは何故か。
    それは、予定があるからである、と考えるほかない。

    予定論は
    経験的事実から割り出した理論であるか。

    カルヴァンはそのような推論による教理の定立はしない。
    これは神の言葉からの帰結である。
    したがって、積極的に説かれなければならない。

    2.予定は神の秘義に属する

     論理上の問題として、ましてや好奇心の対象として予定を扱ってはならない。この取り扱いは慎重を要する。しかし、秘めて置くべきものではない。学ぶことによって大きい益がある。救いの確信は予定の確認があってこそ成り立つ。また、ここにおいてこそ神の前での徹底的なへりくだりがある。カルヴァンの教理の特色である確信と謙遜の基礎。

    他者の選びについては詮索してはならない。それは神の大権に属する。知るべきでなく、知ることも出来ないから、他者については御言葉を信じるように働きかけるほかない。
    予定論の誤用は殆どこの点から起きている。

    3.救いの計画と実施の全関連の中での予定

    選ばれた者が召しを受け、召された者が御言葉を聞き、信じ、義とせられ、ついに栄光に入らせられる、
    この一貫性が重要である(ローマ8:30)。
    人は、今御言葉を聞かせられ、救いの保証としての御霊を与えられているという事実に立って、選びと召し、そして救いの完成を信ずべきである

    カトリックでも、ルター派の和協信条でも、
    予定は予知に基くと説くことによって、
    予定を秘義でなくしている。

    カルヴァンは予定は予知に基かないと主張する。

    4.予定論がカルヴァンの教理の特色であると見ることは出来ない

    宗教改革当時の神学者は殆どみな予定を強調しているから、
    カルヴァンだけが説いたのではない。

    むしろルターの「奴隷意志論」の方が予定を強調している。


    4.教会において首位に立つ人はない

     職能において全体を指導する人はいるが、それは教会のかしらではなく、教会に仕える人である。

    人を上に立てないために
    カルヴァンの重視したのは職務の客観的把握と会議を通じての権能の行使である。

    5.教会の秩序

     カルヴァンは教会の秩序を強調した。



     カルヴァンは16世紀的観念に基いて教会と国家を理解するから、その理解を今日そのまま適用するには無理がある。けれども、基本的な考えは今も妥当する。

     2.二つの秩序の相違

    ルターが
    神の右手の支配と左手の支配として捉えた考え
    をカルヴァンは基本的に継承する。

    けれども、
    ルターのように余りにも対照的に、
    すなわち、
    福音による神の赦しと
    律法による裁き
    の対照に基いて説明することはしない。

    政府も神の慈しみとして与えられているのであって、時には神の怒りの器となるだけである。


    3.地上的支配に対する服従とその限界

    公権力の支配には満足出来ない場合が多いから、
    不満を忍ばなければならない。
    しかし、神の意志に背く命令には従う事は出来ない。
    その際は不服従が許され、否義務付けられる。
    それは殉教でなければ、亡命か、反抗かであるが、
    剣をもってする反抗は剣を委託された人でなければ出来ない。
    一般民衆には抵抗する権利は認められない。
    人民主権の思想はまだない。
    それゆえ、上級権威の過ちに対しては下級権威の反抗が認められ、さらに義務付けられる。
    これがカルヴィニズムの特色といわれる抵抗権思想であるが、必ずしも新しい考えではない。


    牧師:広瀬 薫
    「インターネット・ミッション・クラブ(IMC)」のホームページへ


    ---------------------------------------------

    wikipediaから

    第一篇

    創造主なる神に関する認識について

    第1章 神に関する知識と我々人間に関する知識とは相結合している、而して如何ように相互に関連しているか
    第2章 神を認識するとは如何なることか、また神に就いての認識は如何なる目的を目指すか
    第3章 人間の精神に賦与せられているところの、神に就いての知識
    第4章 一部分は無知の為に、一部分は邪悪の為に、あるいは窒息せしめられ、あるいは壊敗せしめられたる、神に就いての知識
    第5章 世界の構造とその不断の統治とのうちに明白であるところの、神に就いての知識
    第6章 創造主なる神に到達するために、導者(導き手)および師伝(聖伝)として聖書が必要である
    第7章 聖書の権威を確立するため、聖書の神性視に、すなわち聖霊の証しが必要である。而して聖書の信憑が教会の判定によるとは、不虔なる虚構であること
    第8章 聖書に対する信仰を、理性の堪える限りに於いて、充分堅固に証明すること
    第9章 敬虔の一切の原理は、聖書を貶価して啓示へと馳せ行く狂信者達によって、覆される
    第10章 聖書は、一切の迷信を矯正していることによって、真の神をば、異邦人らの神々に全然対置せしめている
    第11章 神に可視的形体を帰することは冒涜である、且つ如何なる偶像でもを樹(た)てることは、凡て、まことの神からの背叛である
    第12章 ただ神のみが徹底的に礼拝され給わんがために、神が偶像より区別せらるべきこと
    第13章 三位を自身のうちに包容せる神の本質の一体、此の事は創造の時よりして聖書のうちに述べられている
    第14章 実に世界及び万物の創造そのものに於いて、聖書は、或る標識によって真の神を虚構的神々から区別する
    第15章 如何にして人間は創造されたか。茲に霊魂の機能に就いて、神の像、自由意志、人間性の原初的純潔に就いて、論ぜられる
    第16章 神によって造られた世界を神は己が能力によって撫育し且つ加護し給う、また其の各部分を己が摂理にて治め給う
    第17章 此の教理は、我々に対して其の効用を確立するが為に、如何ように且つ如何なる目的に関係づけらるべきか
    第18章 主は不虔なる者らの業を利用し、而して彼らの心をして彼の審判を遂行するように傾けしめ給う、而も彼の純潔は一切の汚濁なきものとして残る

    第二篇

    最初律法の下に父祖たちに、次いでまた福音に於いて我々に明らかにせられたる、キリストに於ける贖い主としての神に関する認識に就いて

    第1章 アダムの堕落と背叛とによって全人類は呪詛を被らされ、而して最初の原位から堕するに至った。原罪に就いて
    第2章 人間は、現在、自由意志を剥奪されており、かつ悲惨なる隷属に帰せしめられている
    第3章 人間の腐敗せる性質より生ずるものにして罪すべからざるものとては一も無きこと
    第4章 如何ように神は人間の心情のうちに働き給うか
    第5章 自由意志の弁護として齎されるのを常とする諸抗論の反駁
    第6章 亡滅の人間に対する贖いはキリストのうちに探求せらるべきである
    第7章 律法が与えられたのは、古の人民を彼ら自身に於いて止め置くが為に非ずして、キリストに於ける救いの希望を涵養して、キリストの来臨の時までに及ぶ為であった
    第8章 道徳的律法の解明
    第9章 キリストは、律法の下にユダヤ人に知られ給うたが、然し福音に於いてのみ顕示され給うたのである
    第10章 旧新約書の類似について
    第11章 両約書の相違について
    第12章 キリストは仲保者の任務を果たす為に、人と成ることを要し給うた
    第13章 キリストは人間の肉の真の本体を纏い給うた
    第14章 如何に二つの性質が中保者の人格を構成するか
    第15章 キリストが如何なる使命を父より受け給うたか、また何を我々に附与し給うとかを我々は知る為に、キリストのうちに主要なる三つの職務、即ち、預言者、王及び祭司としての職務を、見るべきである
    第16章 我々の救いを獲得する為に如何ように贖主の職分をキリストは果たし給うたか、其の為に彼の死と復活と昇天とが行われたのである
    第17章 キリストは我々の為に神の恩寵と救いとを齎す功績を有し給うたと正当に、また当然に、云い得られる

    第三篇

    キリストの恩寵を受くる様式、及び其の恩寵より我々の為に生ずる結果、並びに其に随伴する効果に就いて

    第1章 御霊の隠れたる働きによってキリストが我々の益と成り給うことに就いての所言
    第2章 信仰に就いて。その定義を立て、且つ如何なる特質を有するかを説明する
    第3章 信仰によって我々が更生せしめられること。また改悔に就いて
    第4章 詭弁者たちが彼らの学堂に於いて凡そ改悔に就いて饒舌していることは福音の純真より如何に遥かに遠ざかっているか。茲に告白と贖罪とに就いて論ぜらる
    第5章 償罪に彼らが附加する補足、即ち赦罪券と煉獄に就いて
    第6章 キリスト教徒の生活に就いて、且つ第一に、此に関する聖書の論述と奨励
    第7章 キリスト教的生活の活用。自己拒否について
    第8章 克己の一部分であるところの、十字架を負うことに就いて
    第9章 来世に就いての冥想
    第10章 現世と其の効用とを如何に用ゆべきか
    第11章 信仰の義認に就いて、而して第一に、其の名と事実との定義に就いて
    第12章 恩恵的義認を真面目に我々が確信する為に、神の法廷に留意すべきである
    第13章 恩恵的義認に於いて注意せらるべき二つの点
    第14章 義認の始原と其の継続的進行
    第15章 行為の功績を揚言することは、義の賦与に対しての神への讃美、並びに救いの確かさを覆すものである
    第16章 此の教理に対して教皇派の者らが憎悪を負わせようとする誹謗に対する反駁
    第17章 律法の約束と福音の約束との一致
    第18章 行為の義を報酬に基づいて断定するは不当である
    第19章 キリスト教的自由に就いて
    第20章 信者の主要な修練であり、また神の慈恵を日々我々が受ける道であるところの祈祷に就いて
    第21章 神が或る者らを救いに、或る者らを亡滅に、予定し給うた永遠の選びに就いて
    第22章 予定説の確証としての聖書の諸証言
    第23章 此の教理に常に不当に加えられる誹謗に対する反駁
    第24章 選びは神の召命によって准允される。然るに擯斥(ひんせき)された者らは、其の定められたる正当な亡滅を、彼ら自身に招致する
    第25章 最後の復活に就いて

    第四篇

    神が我々をキリストとの交わりに招き、其うちに留めおき給う外部的手段或は援助に就いて

    第1章 真の教会は、凡ての敬虔者たちの母であるが故に、我々は此との一致を涵養すべきであると云うことに就いて
    第2章 偽りの教会と真の教会との比較
    第3章 教会の教師達と教職者達、其の選定と任務とに就いて
    第4章 古代教会の状態に就いて、及び教皇制以前に行われし統治の方式に就いて
    第5章 統治の古代的形式は、教皇制の専制政治によって全然覆された
    第6章 ロマ的座所の首位性に就いて
    第7章 ロマ教皇制の起源と成長、及び遂に教会の自由を抑圧し、一切の制度を覆すまでの高度に登昂したことに就いて
    第8章 信仰の教義に関しての教会の権能に就いて。また教皇制に於いて無拘束的放縦の為に如何に教理の一切の純粋性が潰敗にまで導かれたか
    第9章 会議、及び其の権能に就いて
    第10章 教皇が其の一味の者らと共に、人間の霊魂に極めて残忍なる専制を揮いし法律制定権に就いて
    第11章 教会的司法権、並びに教皇制に於いて見らるる其の乱用に就いて
    第12章 教会の規律に就いて。譴責と破門とに於ける其の主要効用
    第13章 誓約に就いて。凡そ軽率なる宣誓の齎す悲惨に就いて
    第14章 聖礼典に就いて
    第15章 バプテスマに就いて
    第16章 幼児バプテスマがキリストの制定及び記号の性質と極めて善く一致すること
    第17章 キリストの聖晩餐、及び其が我々に賦与するものに就いて
    第18章 教皇的弥撒(ミサ)に就いて。此の瀆神によってキリストの晩餐はただに汚されたのみでなく、無に帰せしめられた
    第19章 偽称の五つの聖礼典に就いて。即ち今日まで一般的に聖礼典と為された自餘の五つの聖礼典が聖礼典に非ざることを宣明し、其らの聖礼典の如何なるものであるかを証示する
    第20章 政治的統治に就いて

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