双数について

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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784403120183

感想・レビュー・書評

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  • 2007年に『地理学評論』に掲載した文章を転載。

    ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは地理学者によく知られた人物である.そう,それはもちろん,アレクサンダー・フォン・フンボルトの兄としてであるが,意外にわたしたちはヴィルヘルムについては言語学者という肩書きしか知らない.
    評者も当然のように同じ認識だったし,それ以上を必要としなかった.しかし,新刊書として本書を書店で見かけ,「双数」という馴染みのない言葉に興味本位で本書を手に取り開いてみたのだが,目次をみて驚愕とした.私の目を捉えたのは本書に収められた第2論文のタイトルであり,それは「いくつかの言語における場所の副詞と人称代名詞の類縁性について」というものである.評者はかつてから場所の言語的構築という問題について考えてきたこともあり,本書は単に地理学者フンボルトの実兄への好奇心だけに留まらず,「言語論的転回」がにわかに論じられるようになってきた今日の地理学が直接的に参照すべき文献ではないかとの期待を込めて読み始めた.
    私のその予想は,読後,予想以上のものであることが判明する.本書は大きく分けて二つの側面から,少し細かく分けると三つの側面から紹介する価値があると思う.一つには,著者の言語観についてであり,これは本書を翻訳・紹介しようという訳者の意図を通じて理解することができる.本書はフンボルトの生前にその形を成していたものではなく,本書に収められたのはいずれも1827年から1829年という晩年に発展された議論である.
    「双数について」と「いくつかの言語における場所の副詞と人称代名詞の類縁性について」はそれぞれベルリン王立科学アカデミーで行われた講演であり,「人間の言語構造の相違について」は全3章の草稿のうち1,2章の訳出である.ここで訳者は,これらの文章が「フンボルトのもっとも独創的な言語観」(p.180)を示しているものとして,そしてそれはこれまでのフンボルト研究では決して重視されず,これらで展開されるフンボルトの議論は近年バフチンの再読を通して注目されている対話的言語論の先駆的存在だという.
    このように,まず本書を通じて訳者が伝えようとする,フンボルトによる言語についての本質論は,言語的転回を目指す地理学者にとって,バフチンとともに言語の根源的特徴を理解する上で有用だといえる.その対話的言語観がよく分かる文章を多少長いが引用してみたい.「すべての言語活動は対話にもとづいており,対話においては,語るひとは,たとえ語りかけられるひとが何人いようと,つねに彼らを単一なものとみなして,彼らと向かいあう.人間は,たとえ心のなかで語るときにも,ある他者とのみ語りあう」(p.30).
    次に,これら三つの論文はきわめて言語地理学研究に類似しているということ.さらに,それは今日の文化地理学が二つの側面を持っているということと一致するような二つの側面を持っている.すなわち,一つの側面は言語の地理的分布,および各言語間の差異についてである.そして,もう一つは言語における地理的なものを表現するそのあり方であり,本書では特に「場所の副詞」である.
    第1論文「双数について」の冒頭では,双数という文法形式が選択された理由が示されているが,その一つは言語地理学的に興味深い.それは,「この注目すべき言語形式の存在が未開の人間の自然な感情からも,高度に洗練された人間の繊細な言語感覚からも説明できるからである」(p.14)というものである.前半では双数の地理的分布が示され,各言語における双数が三つに分類される.双数は日本語や英語にはない文法形式で,単数と複数の間,2という数にあてられるものだが,単なる複数形の限定されたものだと考えるのは誤りだという.「双数はいわば〈二〉という数の集合的単数形」(p.25)である.
    18世紀のヨーロッパといえば,まだダーウィンは出現していないが,文化や文明という概念によって,未開に対する人間知性の発展段階を強調し,特にヨーロッパの文明・文化の優位性を示す時代でもあった(西川 1992).言語はそうした文化の発展段階を代表するものだと見做されたことは想像に難くないが,著者はそうした発展史観に反対するために,この双数というものを検討しているように思われる.
    この双数という文法形式は,「人間の二つの性別」や「二つ一組で存在する手足や感覚器官」,および「時間を規定する二つの重要な天体〔太陽と月〕や,昼と夜」,「陸地と水域」(p.29)といった二元性の認識と深く関係がある.上で引用した対話的言語観もこの双数の考察から引き出されたものである.
    この議論の延長線上で第2論文を理解することができる.二元性の議論は人称代名詞へと移行し,「三人称においてはじめてさまざまな逸脱が見られるようになる」(p.47)という.「〈私〉は自己感情というかたちで,〈君〉はみずから選択するものというかたちで意識される.それにたいして,三人称に組み入れられるすべてのものは知覚されるにすぎない.つまり,見られ,聞かれ,外的に感じとられるにすぎない」(p.52).こうした人称代名詞における三つ組み1)を,場所の概念と関連させて論じようとするのが第2論文である.そして,それに適した事例が「南洋諸島の一言語であり,中国語であり,日本語とアルメニア語である」(p.54).
    以下では個々の言語に応じて考察がなされるのだが,さすがにこの辺りは理解が難しい.なぜなら,文法構造の違う世界のいくつかの言語についてドイツ語で考察されたものを日本語として読んでいるわけであるから.それぞれの言語からそれぞれ違った哲学的含意が引き出されているが,ここでは日本語についてのみみることにしよう.「日本語は,語るひとのいる場所と,語りかけられるひとのいる場所と,その両者の位置の外にある場所という三種類の場所を表示するのに,それぞれ三種類の表現を持っている」といい,「〈こなた〉と〈そなた〉は場所の概念から人称代名詞の概念に転用されて,〈私のがわから〉と〈君のがわから〉,あるいは〈私にかんして言えば〉と〈君にかんして言えば〉を意味するようになり,さらに,〈私〉と〈君〉の領域をいわば確定する後者のような配分的な意味では,〈私〉そのものと〈君〉そのものをも意味するようになる」(p.62)と簡潔に説明される.このことはわたしたちには周知のことではあるが,こうして言語学的な解説がなされると,日常的に使用している言葉のなかで,私と他者との関係性と空間を区分して認識する仕方が深く関連していることを思い知らされる.日本語の解説にはほんの2ページしか費やされていないが,一方でアルメニア語は詳細に解説がなされ,人称に応じて使い分けられる接尾語によって,「〈私〉と〈ここ〉と〈いま〉という概念が結合している」(p.72)という.
    第3論文では「一般的言語学」を掲げ,「言語は本来ただひとつであり,地上の無数の言語においてさまざまなかたちであらわれるのはこのただひとつの人間的言語なのだ」(p.82)という言語観を示している.本論文ではサンスクリット研究の重要性を指摘しながら世界各地の言語について述べている.そのなかでも博物学とともにヨーロッパの言語学にとって新しい素材を提供してくれるものとして,著者はアメリカ諸語の重要性を示唆している.「私の弟の旅行は,彼がもちかえった資料や,彼が保ちつづけた〔原住民との〕交流などによって,ありあまる資料を私に提供してくれた」(p.116)と述べ,その研究にアレクサンダーのアメリカ旅行が大いに寄与していることを示している.
    本論文の後半でも,人称代名詞の議論が繰り返され,単なる言語学的考察にとどまらず,カントからヘーゲルにいたるこの時代の主体性の哲学に関する議論としても興味深いのかもしれない.
    ともかく,本書は言語というものがいかに多様で,複雑なものであるかを思い知らせてくれる.そんな一文を引用してこの拙い紹介文を終わりにしよう.「すべての理解はつねに同時に非理解であり,思考と感情におけるあらゆる一致は同時にひとつの乖離でもあって,これは実生活においてもみごとに活用できる真理である」(p.168).

    1)三つ組みに執拗にこだわったエーコ・シービオク(1990)による,ユーモアに富んだ発想は非常に興味深い.
    文  献
    エーコ, U.・シービオク,T. A.編,小池 滋監訳 1990. 『三人の記号――デュパン,ホームズ,パース』東京図書.Eco, U. and Sebeok, T. A. eds. 1983. The sign of three: Dupin, Holms, Peirce. Bloomington: Indiana University Press.
    西川長夫 1992. 『国境の越え方――比較文化論序説』筑摩書房.

  • 「対話」とかについて。あるいは、、、幽霊について?

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