もののたはむれ

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  • Amazon.co.jp ・本 (226ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784403210563

感想・レビュー・書評

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  • 巴のあとに読んだのを忘れていた。巴よりこちらの方が良かった。短編集だからか。

  • 翻訳された小説を比較的好んで読んでいた時期がある。恐らく今でも翻訳されたものを読むことにそれ程抵抗はないし、実際ポール・オースターやドン・デリーロなどを読んだりもする。読むだけでなく、割と楽しんでいる。しかし時々、ああ日本語を母語としていて良かったな、と思わせてくれる日本語の文章に出会うことがある。そして、最近どんどん日本語返りとでもいうような状況に嵌まっている。しかしそれが日本語の言葉持つニュアンスに「裏打ち」されているのかというと、少し違うように思う。例えば、川上弘美。彼女の良さは、意味、ではない。彼女の文章を読んでいると、それこそ、一文字一文字丁寧に読みたくなってしまうし、先を急ぐ気持ちにブレーキを書けることに気を配りながら読んでいる自分が居ることに気づく。その時むしろ字義は分解され、分解されたことにより意味を失っているような状態であることもしばしば起こる。そんな時に思うのだ。意味と言葉というのは、どうも似ていて異なるものだ、と。言葉が字義通りの意味を伝えるためにそこに置いてあるなと感じる文章もあるし、そういう時は斜め読みしていても文章を貶めていないように感じたりもする。横着な読み方をしながら結構その文章を楽しみ、時に書いてあることに触発されて思考トリップのような状態で読んでいることもある。一方、川上弘美の文章を読んでいる時には、思考トリップのようなことが起こることを注意深く裂けながら、ひとつ一つの言葉を咀嚼して読んでいる。まるで短い詩を何度も繰り返して口にしてみるように。そして、文章の中に置かれたその言葉の意味ではなく、その言葉一つに拘泥して、ああなんていいタイミングでこの言葉を選んでここに置いているのだろう、などという感心の仕方をしてしまうことがあるのだ。そして、久し振りに、その言葉使いにぐうとなりながら、この「もののたはむれ」を」読んだ。

    短篇集である。ひとつ一つの短篇の雰囲気は、川上弘美の「いとしい」あるいは「溺レる」のような雰囲気を思い起こさせる。あるいは、梨木香歩の「家守綺譚」のそれでもある。そのことは最初の短篇の最初の一頁を読んだ瞬間に解る。しかし、川上弘美がどんなに懸命に男女の情愛を描いても、梨木香歩が異物を包括する世界を描いても、この松浦寿輝の「もののたはむれ」に描かれる質感には迫れない気がする。それは男女の差、というものかも知れないし、人の生活の暗い部分をどれだけ体感して来たかということの差かも知れない。自分としてはどちらの在り様も好きだが、結果として感じるものが決定的に違うのに、そこに到るまで流れ、そして雰囲気の驚くほどの類似に気づいて驚いてもしまう。

    その決定的な違いとも関係するのだが、松浦寿輝の文章はとても不思議な感覚を呼び覚ます。それは、正体が確かではないのだが、思春期の頃に詩を毎日書いていた時の感覚のようでもある。言葉に自分は魅入られていた。意味を持つ言葉や、言葉群の総体としての意味よりも、記号としての言葉に。言葉に意味はもちろん付随しているのだが、そんなことは何の意味も自分にはなかった。ただただ気に入った言葉が存在していた。突き詰めて考えれば、自分が魅入られていたのは、音、なのかも知れない。その可能性は大いにあり得る。音は自分の記憶の中には残り易いものの一つであることだし。しかし、自分には、音、というような身体が直接知覚をコントロールしているようなものに対する恐ろしいまでの愚鈍さもあるように思うのだ。自分には何かが感覚として、決定的に、いい、とか、わるい、というように感じることが希薄であるように思う。例えば何かにこだわっている時、往々にしてそのこだわりは論理的な思考の結果である。少なくとも本人にとっては、そのこだわりは身体が求めているような類いの欲求ではなく、頭が求めているものであるという認識がある。だから、言葉に対して時折感じる引き込まれるような感覚も、実は頭の中で起こっていることと密接に関係しているのだろうというのが自分の推測だ。では、何に惹きつけられているというのか。それは逆説的だが、やはり、意味、なのだ。しかしそれは、理解の範疇にある言葉としての意味では、ない。逆に理解の、あるいは、自分の言葉として血の通っているような言語パーツの一つとして、意味、が明確でない、という意味においての無意味さという意味なのだ。自分の言葉として語彙にない、というのでもなく、何となく理解不能な言葉、という曖昧な状態の言葉。それに時折躓くように引っ掛ってしまうのだ。

    しかし実はそれだけではない。例えば自分は俵万智の短歌が好きだが、それはその言葉の意味の響きと意味の融合を感じてのことなのだ。そのことを「黄のはなの」と題された短篇で強烈に思い起こされた。「黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりし夕闇」という短歌が紹介される。まずその短歌にぐうとなる。意味ではない。文字にぐうとなる。音にぐうとなるのだ。そして松浦寿輝が語らせる主人公がぶつ解説を読んでさらにぐうとなる。頭で考えたのではない天才性がここにある、という解説に。そうだ。その天才性だ。それは自分には決定的に欠けているものなのだ。それを補うものを、あるいは天賦の才がなくても辿りつける高みを自分は常々追いかけながら、その横にはるかに高く聳えたつ天才のみが辿り着ける頂を見上げて、砂を噛むような気分になるのだ。

    ああ、敵わないな、という思い。それは珍しい感情ではないし、やり過ごすことも可能であることも多い。しかしやり過ごすのではなく、その気持ちを昇華させられるような文章というものに出会うこともある。それは僥倖である。そしてここからが本題なのだが、松浦寿輝の文章では、敵わないな、から、昇華、へ到り、更にそこから突き落とされるような感じが残るのだ。これは痛い。しかし痛いのに読む。痛いから読むのかも知れない。そこには、音として惹きつける言葉があり、無意味として躓く言葉があり、そして総体としての雰囲気を持った言葉たちがある。全てが、そこにあるのだ。

    ああ、敵わない。全く敵わない。

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著者プロフィール

一九五四年、東京都生まれ。詩人、小説家、批評家。八八年に詩集『冬の本』で高見順賞、九五年評論『エッフェル塔試論』で吉田秀和賞、二〇〇〇年小説『花腐し』で芥川賞、〇五年『半島』で読売文学賞、一五年『明治の表象空間』で毎日芸術賞、一七年『名誉と恍惚』で谷崎潤一郎賞を受賞するなど、縦横の活躍を続けている。

「2018年 『タミーを救え!(下) 川の光2』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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