- 本 ・本 (252ページ)
- / ISBN・EAN: 9784403210792
感想・レビュー・書評
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「ものぐさ精神分析」が面白かったことを思い出し著者の本を検索。タイトルだけで借りてきました。(ジャケ買いならぬタイ借り)
人間って本能の壊れた生物じゃん?幻想とか物語とかに依って生きてるだけじゃん?壊れた本能の代替として作られた自我なんて生物学的生命から浮いたツクリモだしろくでもないけどないとそれはそれで困るから必要悪じゃん?自我って宗教をつっかい棒にしてるじゃん?多神教と一神教はそりゃ病の深い一神教が勝つに決まってるけど一神教は被差別民の宗教だから恨みがましいし不寛容で残酷すぎんじゃん?
みたいな感じですかね
対談の文字起こしなのでさらさら読める。ちゃんとした知能と教養をお持ちの方々にとってはくだけた語り口調と根拠を示さない持論展開に「は?お前のお気持ちだけかよ、エビデンスは?」とイライラするかも知れませんが私には当たり前に斜め上の講義であり最後のページまで楽しく読み進めました。
以下私の好きなトピックとフレーズを。
「白人は人類最初の被差別民」
最近頻繁に耳にする欧米各地での略奪行為は「白人への仕返し」であるとするのを何度か目にしたことがありましたが、その白人がそもそも特別変異(アルピノ)として差別されアフリカから追い出された、その後アメリカ、アフリカ、ラテンアメリカ、オーストラリアに侵略して仕返したとするならば、ずっとお互いにやり合ってるってことですかね。さもありなん。
根拠にもならないけれど「白い肌って劣性遺伝(今は潜性遺伝ですか)って言われてます」と一文入れてるのもいい。
「一神教の多神教への攻撃は嫉妬、逆襲、報復」
自分達が多神教の神を捨てさせられ遥か遠くの抽象的唯一神にしがみつかざるを得ないのに比べて、血縁関係のある独自の神を信仰している人達に嫉妬して神々を奪おうとするとな。まともな大人達からはとんでもない妄想だと非難されるかもだけど僕は合点がいくなぁ。人間って他人の幸運を許せないですよね。皆んな。自分自身を犠牲にしてまでも他人の幸運を壊そうと躍起になるし。
「一神教の無条件帰依絶対服従は支配者と奴隷の関係そのまま」
これもめっちゃしっくりくるー。奴隷根性丸出しだからあんなろくでもないんだ。(多神教でも無神論者でもろくでもないんだけど)
「強い自我に見えるのは強い神を背負ってるから」
不安が強い→強い自我必要→強い神必要
「血縁幻想の薄い父親から具体性を奪うと抽象神に。一神教は中東の風土病。」
ほんそれ。でも父に依らないと具体性(誰が産んだか)に縛られたままで数が増えないですよね。最後信念だけで団結する(うまくいけば世界征服)ためには一神教に行き着くか。てか別に誰が一神教を信仰してても別に気にしないって言いたいんですけど、一神教の人達は自分達こそが正解で正義、他は間違いで邪教だから良くて改宗強要の上奴隷として末代まで家畜以下の扱い、普通で皆殺しなんですよね。やっぱ迷惑だよなぁ。
「(一神教自体は問題ではないが)悪いのは自分とは異なる信仰、考え、見方を全て認めないところ」
本文はさらに「でも他の神を認めるくらいなら一神教じゃない(形容矛盾)し、一神教は絶対ダメってのもまた別の一神教を立てることに」
んで「民主主義下でのナチズムを説く自由議論に似ている」となり法律の話に。法律は絶対的な正義や悪や罰を規定したものではなく相対的なものであるはず。そういう感じのことが宗教にも必要じゃない?としている。
ふむ。
境界知能って17パーとかでしたっけ?
マーチで上位20パーとか?
この80億のコマでは無理ですね。
詰んでる。
「人間関係は自我と自我との経済取引」
好き。このフレーズ。
「迫害差別は正義が失われている状態で自我はそれに耐えられない。求めるのは補償ではなく回復であるために被害者は正義感が強く正義感には憎しみが籠っていて正義感に基づく行動は暴力的破壊的。穏やかな正義感などなく正義は鉄槌。」
何かをこうあるべきだ!と訴えてる人に共通して見受けられますね。
「ローマ(アメリカ)、ユダヤ支配層(自民党政府)、イエス(過激派)、イスラエル(日本)、神の国(革命)。イエスは成功し過激派は失敗した。」
マジでこの人命狙われたりしないのかな。心配。
(田川建三著からの引用)
「右の頬〜は愛や寛容ではなく殴られても殴り返せない被差別賎民の悔し紛れに吐いた棘の皮肉、屈辱の嘆き」
これもどっちか分からないし世界中の信徒が愛と寛容と言ってるなら仕方ないけど意外とこっちかもね。あの麻原でさえ(大◯や池◯も)従う人間が沢山いるくらいだから何を言っても仕方ないけど。
「無関係なものを悪魔とは言わない。同じ穴の狢。」
自身の正当性のために必要な悪魔。近親憎悪。
アメリカはイスラムを悪の枢軸といい、共産主義を悪の枢軸という。共産主義は一種の一神教。
そうね。そうすると世界はキリスト、イスラム、ユダヤ、共産の4大一神教で支配されてんのな。
「近代の歴史はのんびり暮らしていた金持ちがセコくて狡い貧乏人に負かされたもの」
そうだよなー。
トランプ大統領になったからまた遠のいたけど、やはり名称変更をやって欲しい。
58億歩譲って「白人」を許容するとしても(アイボリーとかピンクが相応しいとは思いますが)「有色人種」ってのは不正確すぎるでしょ。
120億歩譲って「有色人種」という言葉を残すとしても、これは黒人がそれ以外の肌に使うべき言葉だと思うけどね。
色も光も何もないのは漆黒でしょ。
それでも白人が「ユーガイズ、カラードピーポーアー」とか言うなら「お前色ねぇのかよ!臓器丸見えだな!」と心の中でツッコミましょう。(カミナリ)
「キリスト教は憎しみの宗教だからこそ反動的に愛を強調。聖俗分離が出来ている。本音と建前。」
2024年現在を私個人の世界(ミクロの中のミクロ)で見ますと、必要なのはコレなのよね。
社会的地位を得て大金稼いで人柄も評判がいい奴ってのはコレ。正しいとかどうとかどうでもいいからこのことを18-22歳で納得しておきたかった。(もっと嘘笑顔に磨きがかけられたのに)
んで最後(長いわ
イクナートンのアテン神(本文中ではアトン神)がユダヤ教の始まりでしょ?ってのは私を含めて考える人は少なくないとは思いますが、著者も「アテン神信仰から一神教を生み出したエジプトの奴隷被差別民達が徒党を組んで逃げ出したのがユダヤ人(なので人種バラバラ)。モーセも多分エジプト人。」としている。真実は分からずじまいではあるけどまぁそんな感じだよねぇ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2023年に読んだ本の中で最も面白かった。
聞き手の三浦雅士氏のおかげもあってとても分かり易い説明になっており、どんどん読み進めることができる。
読後はイスラエルとパレスチナ、アメリカとイランがギクシャクした関係になった背景か何となく理解できたような気がした。特に唯一絶対神に支えられた正義に宿っている憎しみとか、戦争、攻撃に対する拠り所にしているところなど、とても上手く説明できている。
著者は確かに学者っぽくない。こう考えると上手く説明できる、という域を超えて証明したりしていないので仕方ないが、この人はそれでいいと思うし、それだからこそ魅力的な作品が生まれたのだと思う。もしそれをして一神教の信者を打ち負かしたりしたら、それは正義を振りかざす絶対性論者と同じになってしまう。 -
すごくよく分かる!と同調する個所と首を傾げてしまう箇所があり、論理を信じたいと思う部分への箇所がぐらつくものだから踏み止まってしまう、とそんな印象。歴史的にそれは、と思っても、その歴史自体否定されたら、では著者様の根拠となるものって?となってしまうのだけど、そこを乱暴にこう!と出されているようで、一層離れてしまうような。でも現在の米とかイスラムテロとか欧米とかの状況はひどくはまる。そして、一神教の国々の争いに、果たして多神教の日本が首突っ込んでいいのかという、一抹の恐ろしさが。
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いろんな点で興味深い本ではあるが、理論の飛躍、裏付けの頼りなさが気になる。対話本だから仕方ないのか。
個人的にはトンデモ理論的に楽しませて貰いました。
語られていることが正しいか正しくないかは別として、絶対的な正義には必ず悪や悪に対する憎しみがセットになっていることには納得。
自我のあり方を宗教の話に広げ、また最後に自我や個人的な問題に戻っているのは面白い。
そして最後の締めが、一神教でも多神教でもどちらでも良いと(笑)
岸田先生、自由だなぁ。 -
絶対的なるものに依っていると、
相反する意見を服従させようとしてしまうから、
相対的に考えたほうが折り合いをつけやすい、
ということを岸田秀さんは一貫して主張している。
その目線から一神教と多神教を語る本。
一神教の起源はユダヤ教であり、ユダヤ人というのは、
エジプトから脱してカナンの地へ行った人たちのことである。
ユダヤ人という人たちがいて、
エジプトで奴隷として働かされ差別されていたわけではなく、
差別されていた人たちがモーセによって引き連れられ、
パレスチナへやってきて、ユダヤ人となった。
ユダヤ人は神と契約してその信者になる。
赤の他人同士である。自然発生的な、血の繋がった民族神とは異なり、
養子縁組をした神である。
また、キリスト教は、ローマ帝国によって押し付けられた宗教である。
押し付けられた宗教に改宗した人々は、また別の人々へ改宗を要求する。
また、唯一絶対の正しさを主張し他の主張を容認しない。
家庭内暴力を受けた人がまた自分の子どもへ家庭内暴力を
振るってしまうという連鎖を連想した。
P162-163
「個人によって程度は違いますが、われわれは多かれ少なかれ民族や国家に自我を仮託していますからね。というより、民族や国家も自我のひとつの表現形態じゃないですか。民族でも国家でも仲間が傷つけられると、自我も傷つくのです。」
これは民族や国家というレベルではなくてももっと身近で、
自分の趣味や熱を入れているものへ自我を仮託しているケースも
考えられる。 -
この本の主張は、すこぶる面白く、二重の意味で刺激的だった。 ひとつは、一神教は、差別され迫害されて恨みを持つ人々宗教であり、その被害者意識が外に向かう攻撃性になるという、この本のテーマそのものによる。これをユダヤ教、キリスト教の成立過程などから興味深く論じている。
もう一つは、自我は幻想だが、必要悪であり、人間は自我という病から抜け出すことはできないという岸田の基本となる説による。この、自我=幻想論が随所にでてくる。かつて、この説に反論を加える小論を書いたが、この本でもやはり彼の限界になっており、もう一度批判を加えたいと感じた。(かつての小論は、以下を参照のこと→<a href="http://www.geocities.jp/noboish/ronbun/kisida.html">真の「自己」の幸福論</a>)
しかし、この本のテーマそのものについては、ユダヤ教、キリスト教と西洋文明の関係を鋭い洞察力で論じた本だと思った。対話だから、肉付けや裏付けは不十分だが、骨子は一貫性があって、説得力をもっている。これが学問的な肉付けをともなうなら、かなり衝撃的な理論ということになるのだろうが。
一神教は、迫害され恨みを抱いた人々の宗教である。一神教の元祖であるユダヤ教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教だったために恨みがこもっている。ユダヤ民族は、出身がばらばらの奴隷たちがモーゼに率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」で、同じくユダヤ教自体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、純粋な一神教へと形成されていった。
一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補 償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。
ずいぶん乱暴な議論と感じられるかも知れないが、実際は聖書や他の様々な文献への言及も含めて語られ、かなり説得力があると感じた。
岸田は、一神教を人類の癌だとまでいうが、それは一神教の唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしたからだ。さらに一神教は、世界を一元的に見る世界観であり、その世界観がヨーロッパの世界制覇を可能にした。まずは、キリスト教化されたローマ帝国が、キリスト教を不可欠の道具としてヨーロッパを植民地化した。そのキリスト教によって征服されたヨーロッパが、それを足場にして世界制覇に乗り出したのだという。
岸田は、自我というのは本能が崩れた人類にとっての必要悪であり、病気であるという。強い自我というのは、その病気の進行が進んでいるということである。だとす れば、必要悪である自我を、あまり強くせず、いい加減な自我を持ったほうがいい、つねに自我を相対化し、ゆとりのある多面的な(多神教的な)自我のほうがいいという。
私が批判したいのは、ゆとりのある柔軟な自我の行き着く先に自我を超えたあり方(たとえばクルシュナムルティのような)があることを岸田が認めないことだ。 このあたりの批判は、先にあげた拙論のほうでじっくりやっている。 -
多分、こんな内容の本は日本くらいでしか出版できないのでしょうね。
間違った国で出版されると、暗殺されかねないくらいの内容です。
かといって、過激な内容では決してないと感じます。現在の混沌とした世界情勢について語っているだけなのです。
著者プロフィール
岸田秀の作品





