一神教vs多神教

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  • 新書館
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  • Amazon.co.jp ・本 (249ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784403210792

感想・レビュー・書評

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  • 2023年に読んだ本の中で最も面白かった。
    聞き手の三浦雅士氏のおかげもあってとても分かり易い説明になっており、どんどん読み進めることができる。
    読後はイスラエルとパレスチナ、アメリカとイランがギクシャクした関係になった背景か何となく理解できたような気がした。特に唯一絶対神に支えられた正義に宿っている憎しみとか、戦争、攻撃に対する拠り所にしているところなど、とても上手く説明できている。
    著者は確かに学者っぽくない。こう考えると上手く説明できる、という域を超えて証明したりしていないので仕方ないが、この人はそれでいいと思うし、それだからこそ魅力的な作品が生まれたのだと思う。もしそれをして一神教の信者を打ち負かしたりしたら、それは正義を振りかざす絶対性論者と同じになってしまう。

  • すごくよく分かる!と同調する個所と首を傾げてしまう箇所があり、論理を信じたいと思う部分への箇所がぐらつくものだから踏み止まってしまう、とそんな印象。歴史的にそれは、と思っても、その歴史自体否定されたら、では著者様の根拠となるものって?となってしまうのだけど、そこを乱暴にこう!と出されているようで、一層離れてしまうような。でも現在の米とかイスラムテロとか欧米とかの状況はひどくはまる。そして、一神教の国々の争いに、果たして多神教の日本が首突っ込んでいいのかという、一抹の恐ろしさが。

  • いろんな点で興味深い本ではあるが、理論の飛躍、裏付けの頼りなさが気になる。対話本だから仕方ないのか。
    個人的にはトンデモ理論的に楽しませて貰いました。
    語られていることが正しいか正しくないかは別として、絶対的な正義には必ず悪や悪に対する憎しみがセットになっていることには納得。
    自我のあり方を宗教の話に広げ、また最後に自我や個人的な問題に戻っているのは面白い。
    そして最後の締めが、一神教でも多神教でもどちらでも良いと(笑)
    岸田先生、自由だなぁ。

  • 絶対的なるものに依っていると、
    相反する意見を服従させようとしてしまうから、
    相対的に考えたほうが折り合いをつけやすい、
    ということを岸田秀さんは一貫して主張している。
    その目線から一神教と多神教を語る本。

    一神教の起源はユダヤ教であり、ユダヤ人というのは、
    エジプトから脱してカナンの地へ行った人たちのことである。
    ユダヤ人という人たちがいて、
    エジプトで奴隷として働かされ差別されていたわけではなく、
    差別されていた人たちがモーセによって引き連れられ、
    パレスチナへやってきて、ユダヤ人となった。
    ユダヤ人は神と契約してその信者になる。
    赤の他人同士である。自然発生的な、血の繋がった民族神とは異なり、
    養子縁組をした神である。

    また、キリスト教は、ローマ帝国によって押し付けられた宗教である。
    押し付けられた宗教に改宗した人々は、また別の人々へ改宗を要求する。
    また、唯一絶対の正しさを主張し他の主張を容認しない。

    家庭内暴力を受けた人がまた自分の子どもへ家庭内暴力を
    振るってしまうという連鎖を連想した。

    P162-163
    「個人によって程度は違いますが、われわれは多かれ少なかれ民族や国家に自我を仮託していますからね。というより、民族や国家も自我のひとつの表現形態じゃないですか。民族でも国家でも仲間が傷つけられると、自我も傷つくのです。」

    これは民族や国家というレベルではなくてももっと身近で、
    自分の趣味や熱を入れているものへ自我を仮託しているケースも
    考えられる。

  • この本の主張は、すこぶる面白く、二重の意味で刺激的だった。 ひとつは、一神教は、差別され迫害されて恨みを持つ人々宗教であり、その被害者意識が外に向かう攻撃性になるという、この本のテーマそのものによる。これをユダヤ教、キリスト教の成立過程などから興味深く論じている。

    もう一つは、自我は幻想だが、必要悪であり、人間は自我という病から抜け出すことはできないという岸田の基本となる説による。この、自我=幻想論が随所にでてくる。かつて、この説に反論を加える小論を書いたが、この本でもやはり彼の限界になっており、もう一度批判を加えたいと感じた。(かつての小論は、以下を参照のこと→<a href="http://www.geocities.jp/noboish/ronbun/kisida.html">真の「自己」の幸福論</a>)

    しかし、この本のテーマそのものについては、ユダヤ教、キリスト教と西洋文明の関係を鋭い洞察力で論じた本だと思った。対話だから、肉付けや裏付けは不十分だが、骨子は一貫性があって、説得力をもっている。これが学問的な肉付けをともなうなら、かなり衝撃的な理論ということになるのだろうが。  

    一神教は、迫害され恨みを抱いた人々の宗教である。一神教の元祖であるユダヤ教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教だったために恨みがこもっている。ユダヤ民族は、出身がばらばらの奴隷たちがモーゼに率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」で、同じくユダヤ教自体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、純粋な一神教へと形成されていった。

    一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補 償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。

    ずいぶん乱暴な議論と感じられるかも知れないが、実際は聖書や他の様々な文献への言及も含めて語られ、かなり説得力があると感じた。

    岸田は、一神教を人類の癌だとまでいうが、それは一神教の唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしたからだ。さらに一神教は、世界を一元的に見る世界観であり、その世界観がヨーロッパの世界制覇を可能にした。まずは、キリスト教化されたローマ帝国が、キリスト教を不可欠の道具としてヨーロッパを植民地化した。そのキリスト教によって征服されたヨーロッパが、それを足場にして世界制覇に乗り出したのだという。

    岸田は、自我というのは本能が崩れた人類にとっての必要悪であり、病気であるという。強い自我というのは、その病気の進行が進んでいるということである。だとす れば、必要悪である自我を、あまり強くせず、いい加減な自我を持ったほうがいい、つねに自我を相対化し、ゆとりのある多面的な(多神教的な)自我のほうがいいという。

    私が批判したいのは、ゆとりのある柔軟な自我の行き着く先に自我を超えたあり方(たとえばクルシュナムルティのような)があることを岸田が認めないことだ。 このあたりの批判は、先にあげた拙論のほうでじっくりやっている。

  • 多分、こんな内容の本は日本くらいでしか出版できないのでしょうね。
    間違った国で出版されると、暗殺されかねないくらいの内容です。
    かといって、過激な内容では決してないと感じます。現在の混沌とした世界情勢について語っているだけなのです。

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著者プロフィール

精神分析者、エッセイスト。1933年生まれ。早稲田大学文学部心理学専修卒。和光大学名誉教授。『ものぐさ精神分析 正・続』のなかで、人間は本能の壊れた動物であり、「幻想」や「物語」に従って行動しているにすぎない、とする唯幻論を展開、注目を浴びる。著書に、『ものぐさ精神分析』(青土社)、「岸田秀コレクション」で全19冊(青土社)、『幻想の未来』(講談社学術文庫)、『二十世紀を精神分析する』(文藝春秋)など多数。

「2016年 『日本史を精神分析する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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