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Amazon.co.jp ・本 (368ページ) / ISBN・EAN: 9784403231162
感想・レビュー・書評
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年を取ると体をよく意識するようになる。事務所で働いていると、同僚との話題はいつも、肩がこるとか、腰が冷えるとか、風邪気味だとか、健康の話ばかりになる。そして、健康食品やら、風邪薬やら、スポーツクラブやらに入会して、身体を維持・管理するわけである。
が、この本に出てくる人物は、そんなことはまったく考えない。
取り上げられている舞踏家・役者・彫刻家は皆、精神を病み、悲惨な晩年を過ごしている。
かくも過酷なものをなぜ彼・彼女らは、己に課すのだろうか。それは「特権」を得るためという。
【ニジンスキー、アルトー、カミーユ・クローデルも人間の身体による「表出」を賭けた。作り手であったことはおそらく表裏一体をなす。やはりフーコーが監獄の誕生から性の歴史にかけて分析したように、西洋近代型社会において、「身体」に与えられている政治的、経済的な意味とは、単なる処罰の対象ではなく、規律と矯正によって、それを社会的な仕組み、あるいは「装置」の本質が、「標準化=正常化」にあるとしたのはジル=ドゥルーズだが、いま問題にしているような芸術家たちはいずれもそのような「標準化装置」に違反し、それを拒否あるいは侵犯することで、おのれの特権的身体性を主張していたのだ。】
と、著者は言う。で、西洋がこうなのだから、では日本ではどうなのか。
著者は忠臣蔵を取り上げて、日本の、記号のゲームと化す身体を述べている。
【「忠臣蔵」=「判官切腹」を見て感動したのは判官自身も、由良之助も、彼らはどうしようもなかった「不運」「不条理」を、何とか「人間の責任」の問題に変換することにすべてがかかっている、その決断が痛い程わかる。偶発事故の無意味を運命に変えるのである。そこから後は、すべて符牒をあわせ、記号のゲームである。】
不条理と不運が重なり、どうしようもないこと。そこを「これも運命」というものに変えて、次々となりゆくままの勢いにゲームが自動的に展開されていく。何かそこには、西洋が戦っている身体の問題というものが見えてこないのではないか。記号のゲームでいいのかどうか。どうするか。著者はそこで、京劇のことを取り上げる。
【中国にて、「京劇の舞台で作り上げられた身体のコードが見る側の身体にて共有されている」。しかし、放送大学で講義するとき、ゴドーを待ちながらやオイディプスまでもそういった演劇の映像がなかなか入手困難である。シェイクスピア等が近年ともに上演されておらず、授業に使えるような舞台の録画がない。共有身体が不足している。】
京劇では、観客も役者の動きの細やかな所とかをよく共有していて、本人らもある程度踊れたりする。役者とシンクロしながら、手足を動かして、観ることができる。京劇の観客は、舞台にあがって何かやれといわれたら、ある程度振る舞えるレベルなのだ。日本でも、劇をするときに、そんな風な共有があるかと思えばなかなかない。映像のアーカイブというか、そういった利用できるものがそもそも整備されてないので、まずは演劇映像データベースを作って整備するところからはじめるしかないと著者は言う。
ニコニコ動画やユーチューブでは、たまに消えたり、ある程度検索慣れしていないと見つからなかったりする。本著での提言にたどり着くまでの道のりはまだまだ遠い感じなのだろうか。それともどこかにデジタルアーカイブがあるのだろうか。日本中でいろんな演劇があるし、結構録画しているのは見かけるのだが、録画しっぱなしで死蔵しているものが多いのではないか。詳細をみるコメント0件をすべて表示
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