台湾で暮らしてわかった律儀で勤勉な「本当の日本」 (じっぴコンパクト新書 260)

  • 実業之日本社 (2015年6月30日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784408008745

感想・レビュー・書評

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  • やや軽そうなタイトルで著者の他の本を読んでいなかったら手に取らなかった気がする。中身は、日本語世代から80年以降生まれまで、漢人から原住民まで様々な市井の人々の「日本感」について聞いた話をまとめたもの。その中でもやはり、「台湾人生」に出てきたような日本語世代の言葉は色々と胸を打つ。特に日本統治時代の話が染み入るが、いいことだけではなかったことが伺える。歴史は非常に複雑で短期間に何度も統治者が代わり、価値観がひっくり返されてきたにもかかわらず、台湾人からその悲壮を感じることはあまりなく、どこかあっけらかんとしている強さがある。中国から国民党と一緒に台湾に移住してきて、いつか大陸に戻ることを夢見ていた人の話や、国民党の統治時代にゼロから教育を受けた者の話などが他の書物で触れられていたように、掘ると色々と出てくるんだろうな・・・。台湾に対する興味は尽きない。

    P.47
    台湾にはこんなジョークがある。
    第二次世界大戦が終わり、玉音放送が流れたとき、幼い子供が泣きながら父親にいった。
    「父ちゃん僕たち戦争に負けちゃったよ」
    すると、隣にいた父親は息子の頭をポンと叩いてこういった。
    「バカタレ、私たちは戦争に勝ったんだ」
    この息子というのは、いうまでもなく日本統治下の台湾で生まれ、日本教育を受けた子どもである。
    しかし、父親というのは、台湾が日本に割譲される前から台湾に暮らしていた中国人だ。父にとって日本統治は負けを意味し、終戦(解放)と日本の撤退こそが勝利なのだ。

    P.55
    時代とともに外省人と本省人の差は顕著ではなくなってきているのだが、私は台湾に7年くらすうち、なんとなく両者の「匂い」のようなものを嗅ぎ分けられるようになった。

    P.123
    日本語を自在に操る台湾の高齢者に尋ねると、彼らの記憶に残っている日本はいつだって「学校の先生」である。

    P.124
    日本政府は、台湾で何度か台湾教育令というものを発布してきている。最初は1898年。これは台湾公学校令と呼ばれるもので、8歳かrあ14歳までの子供を公学校(後の国民学校であり、現代の小学校に当たる)に就学を許可した。それまでの台湾では「書房」と呼ばれる教育施設が一般的だった。寺廟で行われる漢文の読み書きや習字である。ただ、就学年齢などは決められておらず、経済的に余裕のある家庭に限られていたし、管制の学校もあるにはあったが、就学率は1パーセントにも満たなかったという。
    さらに1919年の台湾教育令では就学を6歳からと早め、徐々に増えていった公学校の数は台湾全土に500を超えるまでになった。1922年には台湾人と日本人に平等な教育機会を与える日台共学制度を実施した。1941年、太平洋戦争が始まる直前に改正された第三次教育令では公学校を国民学校と改め、さらに多くの子供たちの就学を支援した。1899年にはわずか2パーセントだった子供たちの就学率は、終戦直後には90パーセント以上にも達していたという。

    P.156
    大学助教授の汪明輝さんによると、日本人の政策は実に巧みだったという。(中略)台湾先住民はどの支配権力にも屈しなかった民族である。当然、日本人に対しても簡単に屈するわけはない。
    一方、日本人は先住民のくらす阿里山一帯が檜の宝庫だということに気付く。そこで、林業を開拓すべく阿里山に鉄道を敷くわけだが、阿里山に散らばって暮らす鄒族がその妨げとなった。彼らはそれぞれ縄張りを持っており、それあを侵すことは最大のタブーだ。先住民たちをうまく1ヵ所に集め、教育を行い、仕事を与えることが最善策に思われた。
    そこで日本政府は、鄒族の人々を1ヵ所に集め、教育所を作り、稲作や野菜の栽培などを熱心に指導した。稲作や野菜の栽培に忙しければ、彼らは部族を分散させることなく、従わせることができると考えたのだと汪明輝さんは力説する。
    だが、先住民族を1ヵ所に集め、集団生活をさせるのは容易なことではなかったようだ。(中略)そこで、日本人は武力に頼った。食事を作るために火をおこし、山から細い煙が立ち上がったところで、その場所めがけて何発か発砲し、山中に散らばった鄒族をじわじわと1ヵ所に集めていったのだ。
    いわゆる、先住民の強制移動という政策である。大砲を使った強制移動もあれば、灌漑と稲作で誘導した強制移動もあったということなのかもしれない。

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