ルーダンの悪魔

  • 人文書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (348ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784409130155

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  • 以前『尼僧ヨアンナ』(https://booklog.jp/users/yamaitsu/archives/1/4003277716)を読んだときに、同じ1630年代フランスで起こった「ルーダンの悪魔憑き事件」を扱った作品がハクスリーにもあることを知って読みたいと思ってたのをようやく今さら。~ヨアンナは舞台をポーランドに移してあり、あくまで事件をモチーフにした創作の印象だったが、こちらはノンフィクション風というかドキュメンタリー風というか、歴史小説の趣き。

    まずハクスリーは、この事件で悪魔と契約したとされた司祭ウルバン・グランディエの人となりについて事件以前のエピソードをふんだんに描いていく。このグランディエ、男前で才気煥発、弁舌爽やかで若くして出世、しかし聖職者にしてはいささか野心家すぎるというか、聖職者のくせに女好きで素行はめちゃくちゃ。なまじ自分に自信があるものだから周囲を見下し攻撃的で、どんどん敵を作っていってしまう。

    最悪なことその1.親友だった検事トランカンの娘に手を出し妊娠させたあげく捨てる。おかげでトランカンはこの後グランディエの宿敵となり執拗に彼を陥れようとする。最悪なことその2.当時失脚していた後の枢機卿リシュリューにマウント取って侮辱する。この時点でグランディエは自分のしてしまったことの重大さに無論気づかない。のちのち彼が悪魔よばわりされ裁判沙汰になったときに、リシュリューはすでに枢機卿、むろんグランディエを憎んでおり彼の不利になるように動く。

    こういう慢心からくる小さな悪行がすべて伏線となり、悪魔憑き事件が起こったときにグランディエの敵たちはグランディエを陥れるために最大限これを利用する。グランディエも善人というわけではないので自業自得感はあるけれど、それにしても事件はあまりにも陰謀がすぎる。ハクスリーはこれらの策謀を、当時の宗教の派閥や歴史背景とともに丹念に分析している。

    そしてもうひとり、事件の当事者であるウルスラ修道会の修道院長ジャンヌ・デ・ザンジュについても、分析は詳細(訳者解説によると彼女は自伝を残しており、ハクスリーが偶然それを手に入れたことが本作執筆のきっかけとなった)。ジャンヌは裕福な貴族の出身だが、顔は天使のように美しいのに体は侏儒で不具だったため修道院に入れられる。生来利発ではあったため、上役に媚びを売り取り入り、20代半ばの若さでウルスラ修道院の院長となる。

    このジャンヌが、あるときイケメン司祭のグランディエの噂を聞く。会いたくてたまらず、修道院の顧問になってくれるよう依頼、しかしグランディエはこれを断ったのが運の尽き。ここからジャンヌの歪んだ一方的な愛情が暴走。悪魔に憑かれたような言動をするようになり、彼女はグランディエが悪魔を送り込んできた、彼こそが悪魔だと告発する。修道院長みずからこんな感じなので、他の尼僧たちにもこのヒステリーはあっという間に伝染、全員が面識のないグランディエが悪魔だと言い張り、狂乱の悪魔憑き言動が繰り広げられる。

    グランディエのほうでは寝耳に水。いくら自分が女たらしでも会ったこともない尼僧たちに手出しした覚えはない。しかし自体はどんどん悪化。修道院に悪魔祓いの祓魔師たちが送り込まれてきたことで取り返しがつかなくなる。この祓魔師というのも全員頭おかしくて曲者。彼らはどうしても悪魔がいることにしたい。自分たちはそれを祓う英雄でいたい。

    悪魔祓いの方法というのも、鞭打ちだの浣腸だの、なんじゃそりゃ?現代人からみたらもはやなんのプレイ?という突拍子もないものも含み、まあ一種のショック療法として精神病患者に一定の効果はあったそうですが、これが悪魔を祓うどころか余計に尼僧たちの病状を悪化させていく。

    修道院には、悪魔祓いを見学したい民衆がつめかけ、もはや見世物状態。民衆にとっては一種の娯楽。『魔女をまもる』のヨーハン・ヴァイヤー(1515-1588)が、魔女はいない、あれは心の病だと主張してから50年以上が経っており、実際当時宗教関係者といえども悪魔憑きを信じている者は半々くらいだったらしい。しかし祓魔師にとっては悪魔は実在し、憑いたものは祓わねばならない。尼僧の何人かは、次第に良心が咎め全部嘘でした、悪魔は憑いてませんと告白したが、祓魔師はこれを黙殺、むしろその言動こそが悪魔の仕業と言い張る始末。

    尼僧たちもここまできたらもう引き返せない。悪魔のせいと称して卑猥な言葉を叫び淫らな仕草をしてきた(転げまわって民衆の前で丸見え状態で自慰をしたりもしたらしい)けれど、これが悪魔のせいでなければ、彼女たちはただ取返しのつかない恥をかき罪を犯しただけとなる。なにがなんでも悪魔のせい、自分たちはその被害者であるという立場を貫くしかない。こうして祓魔師と尼僧たちの暗黙の了解として「悪魔憑き」と「悪魔祓い」プレイが繰り返される。ハクスリーはこれを「茶番劇」と呼んだ。

    最初のうちは楽観していたグランディエはこうしてどんどん追い詰められていく。擁護してくれる少数の者もいたけれど、前述したようにグランディエには敵が多すぎた。ジャンヌは嫉妬心からグランディエの妻のことも魔女として告発。これはのちのセーラム魔女裁判でも似たようなことがありましたね。欲求不満の女性とはかくも恐ろしいものなのかと、同じ女性でも身震いします。

    結局、グランディエは裁判に勝てず、1634年、拷問の末、生きたまま火あぶりの刑に処される。グランディエは確かにいけ好かない人物だったが、だからといってありもしない罪でこんな殺され方をしたのはさすがに気の毒すぎる。処刑が決まってからの彼の態度はとても立派だった。セーラム魔女裁判を描いたアーサー・ミラーの戯曲『るつぼ』でも同じように自分に恋した少女に陥れられた主人公があくまで罪を認めず処刑されたことを思い出した。

    グランディエが処刑されたあとも、まだまだ悪魔祓いは続く。そう、グランディエが死んでも、尼僧たちにとり憑いた悪魔はいなくなっていない。虚栄心の強いジャンヌは(それがたとえどんなジャンルでも1番になりたいタイプ)、悪魔憑きの女王となるべく熱演を繰り広げていたが、そこへ新たな祓魔師ジャン・ジョセフ・スランが送り込まれてきたことで様相が変わってくる。このスラン、これまでの尼僧たちとプレイを楽しんでるとしか思えなかった祓魔師と違い、大真面目に彼女らを助けようとしている逆にヤバい人。

    ジャンヌはこのスランの真面目なゆえに地味な悪魔祓いに辟易、方向性を転換、悪魔祓われました!わたし、聖女です!!とアピールを始める。なんと強かな(笑)要するに目立ちたがりなんですね、常に周りの注目を集め、チヤホヤされていたい。そして彼女はさまざまな伝説を自らでっちあげ、王侯貴族や偉い宗教関係者にありがたがられてご満悦となる。

    一方スランのほうは、真面目すぎたせいで自ら悪魔に憑かれたみたいになってしまう。『尼僧ヨアンナ』では、このジャンヌ=ヨアンナとスラン=スーリン神父の関係に焦点を当てていましたね。終盤はこのスランの苦悩が延々描かれ、神や宗教についての哲学的な話となる。スランは現代で言うならノイローゼというか完全にこれ鬱ですよねという症状。ジャンヌのほうはちょっと多重人格の気もあった印象。

    エピローグでハクスリーは集団陶酔の心理について分析。本書は単に悪魔憑き事件のルポタージュにとどまらず、心理学や宗教・社会の問題にまで切り込んでおり、大変読み応えがあった。さすがディストピア小説の古典『すばらしい新世界』を書いたハクスリー。ケン・ラッセルが本作を原作にした映画『肉体の悪魔』もずっと観たいと思っているのだけれど、さすがにサブスクにはない…。

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著者プロフィール

1894年−1963年。イギリスの著作家。1937年、眼の治療のためアメリカ合衆国に移住。ベイツメソッドとアレクサンダー・テクニークが視力回復に効を成した。小説・エッセイ・詩・旅行記など多数発表したが、小説『すばらしい新世界』『島』によってその名を広く知られている。また、神秘主義の研究も深め『知覚の扉』は高評価を得た。

「2023年 『ものの見方 リラックスからはじめる視力改善』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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