嘔吐 : 新訳

  • 人文書院 (2010年7月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (338ページ) / ISBN・EAN: 9784409130315

作品紹介・あらすじ

港町ブーヴィル。ロカンタンを突然襲う吐き気の意味とは…。一冊の日記に綴られた孤独な男のモノローグ。60年ぶり待望の新訳。存在の真実を探る冒険譚。

みんなの感想まとめ

存在の意味や孤独を深く掘り下げたこの作品は、主人公ロカンタンの手記を通じて、実存主義の核心に迫る冒険譚です。裕福で孤独な生活を送る彼は、周囲の物や人に対して突然の「吐き気」を感じ始め、存在そのものの偶...

感想・レビュー・書評

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  • プルースト作品を読んで興奮冷めやらぬ私は、気づけばまたプルースト作品を再読しはじめている。シシュポス状態に我ながら唖然とし――要するにキリがなく、それこそプルーストの輪から抜け出せない(汗)――フランス脳内旅行の目先を思いきって変えよう! と、ジャンポール・サルトル(1905~1980年)を訪ねてみました。やれやれ、この人も一筋縄ではいかないものの、哲学と文学が混然一体となっていて結構おもしろい♪ しかも若さが溢れていますね(^o^)

    ロカンタンは歴史の本を書こうとしている30歳の高等遊民。6年前に妻と別れ、図書館で知り合った<独学者>とときどき声をかわし、ビストロのマダムと性愛に耽る以外、人づきあいはない。そんな孤独な彼が回想する、なんとも風変わりな物語。

    「物、それが人に、さわる、ということはないはずだろう。なぜなら物は生きていないから。人は物を使用し、それをまたもとに戻す。人は物にかこまれて生きている。物は役に立つ。それ以上ではない。ところが私には、物のほうからさわりにくるのだ。それは耐え難い……」

    決してオカルトものではありません。が、読んでいくと、スリリングな展開に身の毛がよだつ。ロカンタンは果たして壊れているのか? ハラハラさせるちょっと現実感を喪失した男の日常。でもよくよく考えてみると、こういった感覚はそれなりにあるかもしれない。人々がひしめく地下鉄の構内に響く靴音、ふいに自己の存在や現実感を失ってみたりする…。

    「要するに一つの冒険が私の身に起こっているのであり、自分自身に問いかけてみると、起こっているのは、私がまさに私であって、今ここにいる、ということがわかる」

    生の不条理、己の存在の不条理や偶然性といったような、繊細な感覚は、おそらく年月を経るうちに、いい意味でも悪い意味でもすり減ってしまうのかもしれません。今ここに存在する(偶然なのか必然なのかわからない)不思議さや、生きているという驚異自体が、あまりにも馴れ親しんだものになり、何も考えずとも習慣というルーティンや怠惰になっていたりする。ふとこういう作品に触れると、そういうことに面白い気づきを与えてくれてわくわくします。

    たしかに哲学的あるいは心理学的記述もあって、物語としては読みにくいところもあります。ですが私のようなひどいアバウト人間になってくると、もはや哲学と文学を明確に分別する必要がどこにあるのか、そんなことが果たしてできるのか、人間(存在)のおもしろさを内包しているものであれば、根底のところでこれらが混然一体となるのは至極当然のように思えてしまいます。

    ここからは備忘かねて少しマニアックですので、容赦なく読み飛ばしてください。本作を読みはじめてすぐに気づくのは、アンドレ・マルローの怜悧な筆致の影響だったり、ロカンタンの思索(迷走)は、サミュエル・ベケットのグダグダした堂々巡りの独白のようでもあり、さらにプルーストの小道具やエキスがそこここに散らばって、湿度計のお天気人形やら、モーブ色のあれこれ、なんといっても極め付きは、どうにも持て余してしまうロカンタンの「過去の記憶」。ということで、『失われた時を求めて』のパロディにもなってて笑えますので、こういった作品群がお好きな方にも本作はお薦め。

    ところで解説によると、サルトルは当初『アントワーヌ・ロカンタンの脅威の冒険』というタイトルにしていたそうです。でも出版社の提案で『吐き気』(嘔吐感)になったとか、興味深い。小説の表題としては後者のほうが妖しさが漂っていていいですね! でも副題で前者を残しても良かったかも。繊細で孤独で厭世的な若者の、まるで不器用でたどたどしい、ハラハラドキドキの冒険仕立てになっているから♪

  • 嘔気は理解できるけど、結局意識の檻の中で孤独に生きるしかないのでは。
    読むの疲れた、余生を漫然と生きている

    14
    何らかの兆候が気付かぬうちに積み重なって感知の閾値に達したときに変化が起こるのが怖い
    だから自分の内部にじわりと堆積する何かに目を凝らしたい?
    20
    自分の思考や体験が本物らしさを帯びており、きちんと実在しているという前提を疑うことなく生活できるように孤独から逃れたい?
    本当にそのものはそこに存在しているのか?自分の認識しているものは、言葉など何か表出するものに落とし込めるフィルターを取り除いたら何であるのかという不気味さを共有したい?
    49
    人間的なものに囲まれた世界では、何であるかを端的に説明できるということがそのものの存在を表すという前提で生きている
    自分すらも他者や物を見つめるかのように、要素のそれらしい説明で、その存在を把握できているかのように振る舞う生活に違和感を覚える孤独さを主人公は持っているのか
    心から抱いている感情と自身でも思っているが、(リュシーの会話)純粋な現象というより、そういうふうになるべくしてなっている、そういうふうに説明すべき筋書きにのっとっているかのような不自然さがある
    説明がついて共通認識として他者(友人)に共有できるようなものを通して抽出された要素しか存在を認められないような不確かさがあるし、過度にテキストの形にすることで歪められて真実などないようなもどかしさは感じるけど、それが嘔気になっているのか?
    自分という存在の輪郭をなぞることすらしなくていいノワール大通りのような空間は純粋さがあって、孤独から少し解放されるのか?でも普段の生活との違いがわからないな、何も文脈にのせる必要がないから存在を意識しなくてもいいというところが安らぎなのか
    風、とかって感じてる時点で意味付け入ってる気もするけど。リュシーの取り乱し方は、リュシー自身もあ含めて誰に解釈される必要もなく、どのストーリーに還元される必要もないような自然発生的なものに感じられたから、ノワール大通り側の体験として捉えられたのか?
    55-
    過去の記憶は、自分が知覚した物を再現しようとしても、その過程で言語を挟むから、無駄な解釈や切り取りが生じて、言語にちょうどよくハマるような限定的な情報をもとにして現在の自分が生み出した創作物のようなものになる。言語という原材料(これすら言語化に適しているかという点で選択バイアスが入る)を用いて自分好みにアレンジされていくから、もともとあった出来事がどんどん歪曲し摩耗していく。それでもいいから頭の中で再現するのと、もう2度と触れられない物としてそっと忘却していくのとどちらがいいのか。偽りというか虚構を真実と思い込んでどんどん作り物の世界に囲まれていくよりなら何にも手触りがない方がまだマシかなと思ってしまう
    しかも言語以外も私たちが知覚した時点でそれは映像であれ感覚であれ何かしら「知覚」というフィルターを通している気がする
    さらに現在すらも過去と未来との連続であり、どこが今起こったことで、これから起こりそうだと思ったことなのな細かい時系列はごちゃごちゃで、今この瞬間すらも足場が不安定なものだとすると何も信じられない
    63
    誇りに思うほど多くの経験をしたはずなのに今自分が所有しているものは、経験というより、決して触れられない真実に対して真実らしさを帯びるように調整したストーリーでしかなく、経験したという概念の消費でしかないものに対する信頼で熱に浮化されている状態が陰鬱な「観念」として感じられているのか?
    66
    一瞬一瞬の事象を汲み尽くして所有しようとしても、所有の形にしようとした時点で歪んでいる気がする
    70
    時間が経過していく中で全ての事象が無秩序に等価に進行しているはずなのに、何かが起こったという事実を認識する時、今自分が注目していることや現在自分の知覚できる範囲内の物事を遡って、そこに関与しているもの以外は無かったものとして経験される。ピックアップできる要素が秩序だって変化するようには時間は流れていない。幅の持たない全ての何かがぬるっと次もその次の瞬間も存在し続けているはずなのに、私たちのものの語りかたのせいで出来事がどんどんと起こっていくように感じる

    こういうことを言語で考えていることが皮肉でもどかしい

    92
    ストーリーに流されても偽りに形作られていても、これだけ穏やかな日曜の夕を過ごしたという感情で満たされるなら、いっそのこと「彼らの日曜日」に流されてしまえばいいのに。これが本物なのかという疑念や存在に対する不安も、真実に感じられるだけで虚構に過ぎないのかもしれないのなら、違和感のような感情らしいものを捨てて感動を得る日常に身を委ねて仕舞えばいい、けどそれは死んだように生きている演技くささがあるのか?

    98
    出来事が起こる結果、冒険をしたという気持ちが立ち上るのではなくて、何某かの時系列に沿った関連性や連鎖反応を抽出して、その中に出来事をプロットする?ストーリーが先にあってそこに一致する出来事をプロットしていく?

    111
    なにも所有していないというのは自由だけど、自分というものの説明書きが減る。過去を所有した気になるのは、その蓄積によって自分の説明がつく気がするから楽。過ぎ去っていく時間のかけらが蓄積して、自己という、時間軸を通して移動可能な物体が存在しているかのように錯覚する
    実際に経験したものなんて振り返って把握できるような触れられるようなものではないのに、一瞬一瞬崩壊していく全ての事象から抽出した一部の要素を時間を超えて知識として所有しているように勘違いして、その所有した気になっているものの枠内に物事を納めることで、真実らしさも増すが、歪みも増すという便利な気持ち悪さ。
    こうして本読んだ感想とかを書き留めるのも所有によって自分の中身を充填して、その正体を言い得るような心の安寧を得たい欲求の表れ。
    119
    経験や知識という観念的なものに比べて身体の老化は時間の経過に伴って確実に起こるものとして対比的に語られていたけど、ほぼ時間と等価なぐらい確実なものの存在逆に好きだなあと思う
    137
    自分の知覚可能な範囲内に落とし込んだ世界は幻想で、自分の想像力を超えた範囲という言葉でもつくしきれないほど知覚し得ない何かが絶えず一瞬一瞬をみたしている、なんでも起こり得ている感覚が嘔気につながるのか
    144
    ジャンパコームのようにどのように世界を知覚するかマニュアルが決まっている場合、確かさを持って様々なものを手にすることができる
    それは、決まった道筋にいる義務を果たしているからこそ享受できる、世界の知覚に安定感を持てる権利?
    160
    現在以外何もないのは事実だが、時間の存在をどうしようもなく確かだと感じられるのはなぜなのか
    時間軸に沿って物事を平面にプロットできるような感覚というよりかは一瞬一瞬全てが現在として存在し、私の見えない奥行きとしての軸があるけどそれを私の見える次元に落とし込むと軸すらないように感じられるかのような。
    164
    自分の所有しているように思える過去も含めた存在(自分の経験、知識)をもとにロルボンという(一瞬一瞬存在が異なるのではなく)時間を横断的に移動することのできる一個の物体説明することで、時間を超えて存在できる何かがあるということを実感している?マインドフルネス、ボディスキャン的な感じで、原始感覚に五感を研ぎ澄ませれば、存在を捉えられそうだが、原始に思えるだけで、それもまた知覚した時点で解釈が入っていそうなので、思考とある意味等価なものなのでは。
    166
    知覚と思考の結びつきの際限なさ、ただの事象として存在することができず、何かを意識した時点でそれは言語を通した思考をはさみ、そのことを脱却しようとした意識がまた思考の形をしており、無や自然の状態に近づこうとすればするほど、自己という加工者が強く意識される
    171
    ただそこに在り、現在が次々と立ち現れるだけだという真実に近寄りたいだけなのに、それを認識しようとした瞬間に自分の知覚、思考という枠内に嵌め込まれる。「存在している」というストーリーに押し込まれ本物に触れられない
    別に存在を本来性ないものとして捉えて、フィルターを通した抽出物に囲まれてそれを全てとして生きてもいいのでは?と思うが、それはそれでシルバニアファミリー感あって気持ち悪い
    みんな虚構をいきているというか、パラレルワールドを生きていて自分を通して感じたものが全て作り物に感じられるような気味悪さ
    187
    人生を生きるに値するものにするために目標や意味に身を投じるのが大事という考えには嫌気がさす、意識的に意味を見出す前に、私たちはその土台自体が意味に回収され支配されているのに。演技の中で演技をしている
    204
    ヒューマニズム信者とは、もう何を言っても無駄だという諦めの混じった壁打ち論争になりそう
    人間を愛しているというよりも人間に対して自分が貼ることのできるラベルを見て、そのラベルを消費して、その状態を、「愛を感じている」「受容している」と自分の中で定義しているに過ぎない。人間そのものの正体全てをそのまま表現することは不可能だから、まだ話題に上がっていない側面を指摘して、人自体を見ているのではなく人間という概念を消費しているのだということを伝えようとすると、それも含めて愛しているのだと丸め込まれる
    表現をした時点で一要素が抽出されているに過ぎないという事実を、表現することでしか主張できない時点で、全ての側面を受容しているという言葉には最初から敗北が決定している
    206
    そもそも主語が存在するのが嫌だ
    全てはランダムに存在するはずなのに、それを認識しようとした時点で認識主体は自分なので、主語が自分になる。どうせ主語が存在してしまうなら全ての事象、物体を主語にしてしまえば、知覚媒体としての自分への意識が和らぎ少し楽になれそう
    そういう描写がある気がしたが、気休めでしかないし、逆に苦肉の策で自然を再現している人工庭園みたいな不自然さがある
    207
    「彼らは、私も自分たちと同じ人間だと思っていた。そしてまんまと欺かれた。わたしは突然人間の外観を失った。そして彼らは一匹の蟹が、人間味にあふれるこの室内から後退りで逃げていくのを見た」とあるが、これは蟹という、「人間」と等価な観念として認識されてるだけでは
    よくある認識のされ方とは違う側面を表示しても、それは色の塗り方が違うだけで塗り絵をする前のものに触れたわけではない
    210
    何が辛いかというと、完全に観念の枠内で枠に囲まれていることを意識せずに暮らすこともできず、かといって枠の外に出ることもできなくて、その中途半端な状態で足場が浮いているような不確かさが心地悪くて辛いのかと
    つまり帰属を考えて「存在する」としている枠内での生活において、その「考えている」(観念を認識している)という枠を意識し始めて、枠の外に出て、「感じる」ことで(211「そして突然、一挙にしてヴェールは裂かれ、わたしは理解した、わたしは見た」)枠をとっぱらう。けどとっぱらったように感じるだけで(212「物の多様性、物の個別性は、仮象にすぎず、表面を覆うニスにすぎない。そのニスは溶けてしまった。」)だけで、実際、思考と感覚は切り離すことができず、認識という共通のものを土台にして相互に行き来しているものだと思うので、やっぱり枠があるということを強烈に自覚するにとどまる気がする
    214
    存在状態における全てを認識できず抽出作業が入ってしまうのなら全てを拾おうとする(213「この痺れるほどの豊富さ」)のではなくて、全てを認識しないでいたいと思ってしまう、それが1番歪みのない姿に近いのでは
    218
    単純で分解不可能と思えるくらい清潔にされ、観念と一対一対応するほど細分化されたものですら、観念で表現しきれない余剰があり、その余剰全てふくめて存在であり、決して触れられないからこそ、何かであることすらなく何者でもなくなるということか
    250
    憎しみや愛などの情熱的な感情を抱くべき場面、ストーリーに嵌めやすい特権的な状況で、しかるべき振る舞いを心も身体も行うことで完璧な瞬間になる
    半ば強制的に無意識的に演技が行われるから、先に感情が存在するように感じられる
    観念が先にあって、そこに合わせているだけ?
    256
    枠組みの存在、演者としての自分を意識してしまったアニーは何者でもなくなってしまい話すことがなくなってしまったのか
    263
    ただの存在として生きることは観念に収められない余剰として在ることなのに、枠をなくすことが「食べて、眠る。眠って、食べる」というシンプルな活動に収斂するように感じられるのは不思議。これもまた作られた自然のように感じる。演者であることを自覚した後はとにかく全てが退屈で、惰性で習慣でただ生きている状態になるのもわかる
    266
    自分たちが観念によって掌握していると思えているもののみ存在していると普段定義しており、まるで自然かのように違和感なく振る舞っているが、知覚を超えた範囲で蠢いている現実があるはず
    297
    なぜ音楽や本に救いを求められたのかよくわからない、本来性あるものとして勘違いするような解釈にまみれた事象と対比的に、完全な創作物だから本来性なんてものすら意識することすらない純真なものだからなのか?
    存在すら確かめたり認識したりする必要のない完全な創作物だからか?


  •  〝存在〟という言葉について、一度でも考えたり、引っかかったりしたことのある人にとっては、必読の本かもしれません。

     私に関しては、本書『嘔吐』が、サルトルさんとの初めての出会いだったから、余計な先入観、こじつけなく読めたと思うのです。

     内容は、金利生活者(働かなくても生きていける)の主人公ロカンタンが、孤独と退屈と暇を持て余しに持て余した結果、人間世界を覆っていた〝観念〟の存在に気づいてしまい、「生きるか物語るか」という至上命題に行き着くまでを、日記、一人称、独白形態の形を取って描く作品。

     現状の生活で、何も違和感を感じない人は、なかなか理解し難い内容になってます。

     例えば、教師。消防士。警察。自衛官等の公務員。営業。店頭販売。製造。アスリート。などの肩書きのある職業。もしくは、学生、主婦等、社会で一定の効力を持つ(ほとんどの)人には、理解に苦しむ内容です。

     筆者は、これらを〝観念〟と呼びます。つまり、実在していない物です。確かに、資格を持つ、面接を通る、結婚すれば、ある一定の年齢になれば、上記のステータスは、手に入れることができます。

     でも、それらが〝本当にある物ですか?〟と聞かれると、どうでしょうか。教師だって、警察官だって、人間です。それら付属物は記号のような物で、人間という本質を変えてはいない。そう言われると、不思議と首を縦に降らざるをえません。

     しかしこの『嘔吐』は、それだけにとどまりません。〝経験、過去〟これらも、観念に含まれると、言いのけてしまいます。

     さて、内容への考察はこれくらいにしておいて、個人的に引き込まれてしまった場面を解いて行きます。

     ーVS独学者〜厭世主義(ペシミズム)じゃないんだけど、説明が難しいよ…ー編

     ロカンタンが存在について考察を進めていく際に、何人かの、反証者のような役割を与えられた人物達と邂逅します。

     独学者はコテコテのヒューマニスト。ロカンタン曰く、最もタチの悪い論客といったところでしょうか。

     人間というだけで、概念そのものをすっぽりと包み込むように愛するヒューマニストにとって、ロカンタンの展開した〝存在〟は天敵にあたる。人間の行いを全て愛するという態度は、観念へさらに現実味を持たせる。

     対してロカンタンは、観念は存在していないのであって、存在しているのは、今この瞬間を生きている自我なんだよっと説明したい。

     でもそれを言ったら、厭世主義と言われてしまった。ここが面白いです。どう切り返すのかというと、ロカンタンはそこから逃げ出してしまうのですが、、

     その後で、「私のようなカッサンドラはいないのか」と嘆く場面も読書の笑いを誘います。

     存在に対して作り上げる〝物語り〟も、観念の一つでしょう、とツッコミを入れたくもなりますけれど。

     ーVS大失恋アニー編ー

     観念への吐き気から、観念にどっぷり浸かっている人をこれでもかとこき下ろすロカンタンですが、元恋人の前には、たじたじ。

     〝完璧な瞬間〟を演じることを求める、プッツン女優のアニーが彼は好きで好きでたまらない。それこそ、観念にがんじがらめにされることを、自ら望んでいるようなものでは?と意地悪を言いたくなりますが。

    〝私は余生を生きているの〟このアニーのセリフは本編を通して1番衝撃的なパワーワードでした。

     二人が別々の時間軸で得た視点が、物語ることと、ただ単に生きるということだった、という設定は、震えるような感動を覚えます。

     人間は〝観念〟という、社会通念の上にシナリオを書かれた、ある役割に従って、人間を演じているだけ。ということに、二人は気づいてしまったわけです。

     そうなると、もう絶望感でいっぱい。

     そこから、この『嘔吐』を、小説形式で書き上げることで、自分の〝物語り〟を始めると、ラストに繋げ、サーキュレーションさせる手法にも恐れ入ります。

     
     
     ーブルジョワもプロレタリアも大嫌い、トゥールヌブリート街編ー

     観念の舞台として、この上ない役割を果たすプーヴィルのカフェやギャラリー、通り、船、全てを、ロカンタンの目線になって読む。

     これが、『嘔吐』の楽しみ方の一つでしょう。画廊に掛かっている、街の創設者達と睨み合い、ディスり合う場面も白熱します。

     孤独な人間にとって、ロカンタンの見る景色は、実を言うと、日常風景なのかもしれませんね。

     観念にどっぷり浸かって生きる人びと(社会的に恥ずかしくない人々のこと)が、思考停止しながら生きる姿を面白おかしく捉えています。

     今の世をロカンタンはどう見るのでしょうか。

     6G・DXによる。大個人時代。のように見えて、人間のやってることは何にも変わらねーな、と言いそうです。

     また、新しい観念に、追いすがり、引きずられる、エキストラのような人影に縁取られた、ジョーカー。そんな構図を、ロカンタンは一人でコソコソと、「吐き気」がする、と嘯いているのだと思います。


     全体を通して、分かりやすく、丁寧に描写されていました。原語で読みたところですが、フランス語の勉強はまだ、、、

     訳文に頼るしかないのですが、相当に整った、文章でした。読みやすい。。

     また、サルトルさんに関しては、哲学から出会う方も多いようで、私のように、図書館の棚からスッととったら、たまたま、なんてことは稀のようです。。

     でも、主義や、哲学方式など、から入るよりも、よほど入りやすく、分かりやすいのではないでしょうか?

     なんと言っても、哲学こそ、一種の観念なのですから。


    読了日 2021.10.26
    初感想 2021.10.26
    二次感 2021.10.31


     

  • 「実存は本質に先立つ」で有名なサルトルの小説。
    なかなか噛み砕いて理解するのが難解で読むのにかなり時間がかかってしまったけれど、すごく興味深い内容だった。

    主人公のロカンタンは、働かなくても食べていけるくらい裕福で、ホテルに住みついて孤独に歴史研究に勤しむ青年で、本作は彼の手記という形で進む。
    人とほとんど繋がりを持たず、物に囲まれて生きる彼は、あるときから周囲の物に違和感、<吐き気>を感じ始める。
    物だけでなく、人間も「存在」であるという考えにいたる。意味や理由などなく、あらゆるものは偶然に存在しているということ。面白い考えだなあと思った。確かに私たちはあらゆる物や人に意味を付与し、位置づけをすることで何かを理解した気になっているのかもしれない。
    私もそういうことを考えるのが好きなので、大変興味深かった。物事にここまで深く考えられるロカンタンが狂気じみていて、鋭かった。ロカンタンが存在について気づきを得てからの世界観の変貌が印象的だった。
    あと、終わり方がオシャレすぎてめちゃめちゃ好きだった。
    ロカンタンはこの手記の記述を通して存在を越えられたのではないだろうか。

    ただ哲学書として考えを読み取るよりも、小説として文学世界にのめり込むことで、サルトルの考えをよく理解できたように感じた。
    新感覚!楽しかったです。哲学面白いなあ。
    あとがきの解説も非常に理解の助けになりました。良い本でした。

  • まず、鈴木道彦さんの訳がすごく読みやすかった。

    訳はいいが、内容を理解することは難しい。

    著者であるサルトルの実存主義(行動に責任を持つ覚悟があれば、人間は自由である)という考え方について、主人公のロカンタンが、この考え方に至るまでの経緯、“存在”の世界の真実を発見することが著書の内容になる。

    ※(本書では「実存」を発見する過程を描いた作品ではあるが、決して実存主義の思想に基づいて書かれた小説ではないそうだ。)

    実存主義の考え方は「孤独で有ることを認識する、他人からも憎まれているなどの面も認識した上で自由に生きる」というものらしい。

    主人公のロカンタンは、ほんの数人を除いてほとんど人付き合いのない生活を送っている。

    家族に関しても全く触れていないので天涯孤独なのであろう。

    他人との交流は乏しいが、物には絶えず囲まれて生活している。

    彼は、ある時から普段見慣れた物に対して〈吐き気〉を催すようになる。

    今までは気に留めなかった物が“存在”であること、しかもなんの理由もなく偶然“存在”していること、さらには物だけではなく、人間もまた“存在”であると気づく。

    ロカンタンを取り巻く“存在”の世界、嘔吐感を与える“物”の世界。

    その、“存在”と向き合いロカンタンの見出した結論、生き方とは…?

    私たちは「今、この瞬間に存在している不思議さ」なんて意識せず、何気なく毎日を送っている。あまりにも当たり前すぎて意識すらしていない。ロカンタンによってこの当たり前の常識を覆されてしまった。

    またロカンタンの孤独を受け入れていく姿勢からも目が離せない。

    これは実存主義を理解していく上でも重要な部分であるだろう。

    サルトルの著書や考え方に触れていくのは、本書が初めてであるため、今後も実存主義についての考え方を深めて行きたいと思う。

    そして、再読した時には本書をより理解していけたらこの上ない喜びである。

  • 2020/7 読了
    感想書き忘れ。
    自分が存在するとは何かと考えたとき、
    周りの人との会話などを通して存在が確かめられるけど、
    周りの人たちは自分が意識していない時は本当に存在するのか分からないって思っていた時期が昔あったなぁーと思い出した。

  • 1970年代という不安定な時代に、高校生という不安定な世代で読んだ。不安を増長するような気もした。「嘔吐」が現代に受け入れられるかは解らない。自分の子供に勧める自信はない。

    不安な時に、本を読むのでは安定できないかもしれない。運動したり、旅行するとよいかもしれない。

    不安な時に,いろいろな作品を読むとなにか、ひょっとしたらつかめるかもしれない。
    いろいろな本を読むことが大切だという意味で、お勧め1000冊に入れたい。

    歴史に興味をもち、近代を理解しようと思ったときには、近代の代表作の一つにあげてもよい。

    時代を理解するという視点で読んでみて欲しい。
    人はそれを「実存主義」と呼ぶ。

    実存主義という言葉は気にしなくてもいいかもしれない。

  • 文学としての完璧さを漂わす稀有な作品。

  • 嘔吐 新訳
    (和書)2012年05月10日 14:12
    J‐P・サルトル 人文書院 2010年7月20日


    サルトルさんの『嘔吐』を新訳で読んでみました。

    以前、別の訳で読んだことがありましたが、あまり印象に残ることはなかったけれど今回はなかなか素敵に読むことができて、これは翻訳のためか、それとも2回目ということで、やはり読書というものは一回読んだからどうだとかじゃなく、読むことを愉しむことは大事なのだと思いました。

    特に近日思うことは、真理の探求ということを考えていくと読書の面白さは無限大に愉しむことができると思いました。

  • ブクログのモニター当選したやつなんですが、ようやく読み終わりました。大変。

    海外文学や海外小説の大半がそうなんですが、日本人の日本語の言い回しと違うところがかなり多く、頭の中で理解するのに時間がかかります。

    この作品なんですが、哲学系ですので、やっぱり難しい。一応、小説なんですけどね。

    日記形式の小説で、主人公が海辺の街で過ごすうちに、突然「存在」に目覚めるというもの。

    …中二病ですか。

    これ読んでて、哲学と中二病に凄く通じるものがあるんじゃ無いかと思えてきました。

    世界の在り処を疑ってみたり、そこらにあるものを疑ってみたりと、どこの中二病なのかと。

    なお、主な登場人物にろくな人は居ません…。

    結局のところ何を言いたいのかわからない話でした。が、絵が容易に思い浮かべる事が出来る話ではありました。

    わからないけど、ところどころ引き込まれて一気に読みすすめる部分もあったので、具体的に何とは言えないけど、面白かった部分もあったのかなぁとは思います。

  • ついに読み終えた、という読後感。
    「吐き気」という症状を持病という「存在」の一部として抱える身として、この作品においてロカンタンが吐き気に襲われる場面で本当に吐き気を催してしまうことが何度あったことか。
    しかし、僕にとってこの哲学小説は通るべき道のように思い続けていた作品(そう、まるでアニーの「完璧な瞬間」のように!)なので、吐き気を堪えながら読み終えた今、やれやれという心持ちとここ数年来自身が抱えていた内的問題に対する姿勢への得心を得たという感覚に浸ることができた。

    巻末の訳者解説によれば、この「嘔吐」はサルトルがフッサールとハイデッガーを咀嚼して実存主義を展開する前に書かれたために、「実存」という訳語を使わず「存在」に統一したということらしい。つまり、この段階ではまだ実存主義ではなくその萌芽が示されたに過ぎないと。けれど、この「嘔吐」を読むに当たっては「実存は本質に先立つ」という有名なサルトル実存主義の題目を念頭に置いておくと、ロカンタンの思索を読み解く助けになるように思う。

    例のマロニエの根のごとき存在(「自然」或いは「景色」と置き換えてもいい)と自己存在が完全な偶然性の下にリンクするような感覚をここ数年来覚えていたこと、またロカンタンのライフスタイルが僕にとても似ている(僕は高等遊民のような財を持たないが)ことなど、ほとんど身につまされながら、吐き気を堪えながら3ヵ月余りの期間の中で読了できたことを嬉しく思う。

  • プルースト『失われた時を求めて』の訳者による新訳。訳者は、サルトルの中にプルーストの影響を認めている。

    中村文則の小説『何もかも憂鬱な夜に』にサルトルのことが書かれていたので、読むことにした。

    そういえば、大学時代、サルトル好きの友人がいた。当時はフランス現代思想にかぶれていた僕は、現代思想が否定していたサルトルのことをバカにしていた。現代思想は、サルトル的な主体性、自由、行動する知識人の在り方を批判することから始まった。現代思想も廃れた現代において、改めてサルトルを読むと発見が多い。

    サルトルがガリマール社に『嘔吐』の原稿を渡した後、何度も改稿を命じられて、出版まで7年もかかったという。よほど編集者の直しが入ったのだろう、しかし、ガリマールの判断は正しかった。他のサルトルの小説といえば短編か未完作品ばかりだが、『嘔吐』は完結しており、サルトル自身認める傑作となっている。

    小説は主人公ロカンタンの日記の体裁をとっている。ロカンタンは十八世紀ヨーロッパの架空人物であるロルボン公爵の歴史研究をしている。生活のための仕事はしていないが、食べていける金利生活者である。行きつけの居酒屋の女主人、独学者の青年としか接触がなく、ロカンタンは物に囲まれた孤独な生活をしている。ロカンタンはある時、物に対して嫌悪感、吐き気を覚える。探求の結果、ロカンタンは、すべての物が偶然存在していることに気づく。存在に必然はない、世界の本質は偶然性だとロカンタンは喝破する。

    ロカンタンの目には、自分達の存在理由をかたく信じている社会の指導的エリートは俗物だと映る。以下冒頭の文章引用。

    「一番いいのは、その日その日の出来事を書くことだろう。はっきり見極めるために日記をつけること。たとえ何でもないようでも、微妙なニュアンスや小さな事実を落とさないこと、とりわけそれを分類すること。このテーブル、とおり、人びと、刻みタバコ入れが、どんなふうに見えるのかを言わなければならない。なぜなら変化したのはそれだからだ。この変化の範囲と性質を、正確に決定する必要がある」

  •  ニートを経験して、社会人になって、そこそこ生活できるようになって30過ぎて読むと実に面白く懐かしく楽しめる名作。愛すべき青春の一冊であり、サルトル33歳の時の作品。
     昔、好きな子がフランス文学科で、その子の話題に追いつこうと必死にフランス文学の小説や詩を読んでいた(死ぬほどつまらなかったというか理解する頭がなかった)。頑張ってサルトルの嘔吐(白井浩司訳)も読んだ。そうして読了して、さあ話をあわせるぞと「サルトル読んだで!」と笑顔で話しかけると、「あ、嘔吐、面白くて、あまりに感じすぎて読んでない、読み進めることがでけへんねん」と返された。私の頭の中で、必死に覚えた嘔吐のあらすじが、「俺も吐き気感じたりするわ~」みたいなわざとらしい感想が、すーっと消えていった。

     そうして、再読すると、この小説は実にリアルなのだ。アルファベット順に本を読む独学者とか、ビールを見ないとか自分ルールを作り出すとことか、哲学的と思われるかも知れないが、ニート経験者は「あるある!」と唸るポイントばかりなのだ。
     独学者VS主人公の、ニート自慢大会的な会話も楽しい。独学者は6年ぐらい勉強して冒険の旅に出るという。「あらゆる種類の冒険ですよ。汽車を間違えるとか、知らない街で下車するとか、財布をなくす、間違って逮捕される、ひと晩を牢獄で過ごす、といったような」みたいなしょーもない話を延々する。必死扱いて冒険の旅に出ることを述べる独学者の姿と聞いている主人公の心が手に取るようにわかる。また、隣のカップルのしょーもない話を延々盗み聞きするのもわかる。
     そしてしょーもない日々が続くうちに、だんだんと「何かが始まるぞ」と、まるで満月を見上げて「ちっ、早すぎる! やつが目覚めたというのか!?」という感じになってくるのをちゃんと書いているのもいい。ラノベ「中二病でも恋がしたい!」より70年はやく書かれた中二病小説でもある。
     みんな日曜日過ごして月曜日に心がむいているが、主人公は月曜日も日曜日もない生活。主人公は無人の通りにいるが、歴史が、現在が、猛烈な速度で様々な事件を起こして過ぎ去っていく。そのうち、在野の研究者的にマニアックな人物についての抽象的な研究をはじめたりするのだが、これもニートのことをよくわかっている描写で、何か抽象的ですごい論文を書いて哲学の究極大飛翔をするんだというのは「あるあるw」を通り越して、「心が痛い」。そして主人公はあっという間に挫折。「いったい、自分自身の過去を引き留める力もなかったこの俺が、どうして他人の過去を救い出すことなど期待できようか?」そして「何にも邪魔されずに自分の本を仕上げさせてもらいたい」という。
     誰も邪魔してないわ! とみんな突っ込むところだ。
     途中で強姦のことも考えはじめる。「強姦された少女」。これもほんとそうで、ニート時代は結構、世の中の不正義というか、悪に対してすさまじい嫌悪を持っていた。常に、邪魔者に対して敏感で、悪に対して本気で憎悪する。私もニート時代、違法駐車している車をどれほどひっくり返したかったものか。

    終盤、「それにしても、ブーヴィルにいたときは、いったい一日中何をしていたのか」という悔恨に爆笑。存在と自由を巡る話であるのだが、「ほんま何もしてなかったわ~」という結論。
     悲しいのは片っ端から本を読んでいた独学者の終わり方。少年へのセクハラで、ぼこぼこにされて、図書館を追い出される形。彼の学問も終わりである。
     研究対象だったロルボンから名もなきジャズを好きになり、その純粋な即興のようなものに心うたれたりして、ふと思い立ってパリに行こうと決心する。冒険に出るのではない。「何かが始まる」のを期待して、遠い未来で「この時、汽車を待っていた時が始まりだったのだ」と思い返せるために。
     もと愛人のマダムとの会話が良い。パリに立とうとしたら、愛人マダムもパリにいたとわかる。先を越されていたショックと同時に、さよならの時に、人の本当が分かるという、マンガの黄昏流星群のような展開に。

    「夜が落ちてくる。プランタニア・ホテルの二階では、二つの窓に明かりが点されたところだ。新駅の工事現場は、湿った材木の匂いを強烈に放っている。」というラストの段落は感慨深い。この材木の匂いにもう吐き気を主人公は感じないのだ。

     白井訳以来の、2度目の読了だが、はじめて読んだ時よりも数倍たのしく、深く、心に染みいるように読めた。あまりにしょっぱい主人公過ぎて、逆にハードボイルドな、男の切ないドラマに見える。
     哲学小説とか難解とか言われるかも知れないが、これ以上わかりやすく、楽しめるものもない。最初は「なんだこのしょーもない文学!」と20代のころに反抗的に読み、そして10年後、しみじみと再び読むべき書物だと思う。

  • 自分は実存主義が好きっぽいのでサルトルの有名な本を読んでみた。
    小説って体だが主人公の心情を吐露する日記を読んでいくスタイル。大きなストーリー性のようなものがあまり感じられないため物語として読むのは途中まで自分には結構きつかった。最後の方は勢いが出てきてガッツリ読めたが。主人公の人生や世界への気付きは哲学っぽいなーと浅く感じた。

    個人的に一番嬉しかったのはあとがきでフッサールの現象学に触れられていたこと。
    主人公の世界描写が細かくて、たまたま最近読んだフッサールの現象学っぽいなーって思ってたら、サルトルもそれを勉強して書いたっぽくて読書の成果出てるなと感じて嬉しかった。(小並感)

  • "本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。存在者は出現し、出会いに身を委ねるが、人は絶対にこれを演繹できない。"
    意味内容を除いた形式のみの現象学的還元(目的なき合目的性)は、"存在"を感じ取らせ、嘔吐を催させる。30歳で金利収入のみで暮らせているアントワーヌ・ロカンタンは、ブーヴィルという架空の街(ルアーヴルがモデル)の公園で、マロニエの根を見た時、"存在"を感じる。図書館で出会ったヒューマニストである独学者は、ロルボン侯爵の過去に関する本を書くロカンタンの追従者であるが、その自己満足的な他者依存の知性信仰ともいうべき態度をロカンタンは軽蔑する。ロカンタンの冒険の幻想と同じく、元恋人アニーは人生に歴史的情景のような"特権的な状況"の"完璧な瞬間"を求めて過ごしていたが、互いに別の文脈から、その行動主義的な理想の不存在と無意味さ、現在を起点にする"存在"を感じ取る。
    ハイデガーの存在論を、フッサールの現象学的還元の観点から、小説の形で表現しようとした作品と思われるが、小説としては面白みに欠け、論文としては明晰さに欠けるかなり中途半端な作品といえる。書き間違いや記憶違いも多く、それもまた魅力を下げる。全体主義への反発からかそれに利用されたニーチェを彷彿とさせる音楽、悲劇、権力への意志などへの批判が随所にあるが、『嘔吐』は『ツァラトゥストラ』ほど象徴に満ちているとはいえず、哲学的な確信をもったものとは思われない。なぜならそこには偶然的な現在しかなく、それ以上でもそれ以下でもなく、なんらの示唆に富むべきものはないからだ。その意味では、ドゥルーズのリゾーム(根)、レヴィナスの他者の顔などポストモダンに接続するものではある。
    音楽を批判する一方で、ロカンタンは度々音楽に救われ、最終的には、音楽の背後を想定することで作者へ思いを馳せ、小説を書くことを決意する。作品(テクスト)の制作を自我の存在に結びつけるということは、独学者の「他者のために書く」を引き継いでいるし、アニーとの行為や芸術への批判に関する対話にも反しており、全体の物語として矛盾が感じられ、また、矛盾が緊張感を生み出すといった類のものでもない。しかしながら、存在不安、絶望を解消する唯一の方法として、自己実現とは異なる意味での制作を提示している点では、アーレント、そして結局はニーチェに回帰しているようにみえる。
    以下引用。
    "ごく平凡な出来事が冒険になるためには、それを物語り始めることが必要"
    "ひとりの人間は常に話を語る人で、自分の話や他人の話に取りまかれて生きており、自分に起こるすべてのことをそうした話を通して見ている"
    "自分の生を、まるで物語るように生きようとする"
    "ひとつのものを理解しようとするとき、人はたった独りで、何の助けもなく、それと向き合うものだ。世界の過去をすべて集めても、何の役にも立ちはしないだろう。それから向き合っていたものは消える。そして理解したこともそれと一緒に消えるのだ。"
    "世界が毎日似たような姿をしているのは、思うに怠惰さのためだ。ところが今日の世界は変わりたがっているように見えた。とすれば、どんなことでも起こり得るだろう、どんなことでもだ。"
    "私は存在する権利を持っていなかったのだ。私はたまたまこの世界にあらわれて、石のように、植物のように、微生物のように、存在していた。"
    "現在だ、現在以外に何もない。軽い頑丈な家具類も、現在に閉じこめられていた。テーブルも、ベッドも、鏡のついた簞笥も──そして私自身も。現在の真の性質がヴェールを脱いだ。それは存在するものであり、すべて現在でないものは存在していなかった。過去は存在しなかった。まったく存在しなかった。物のなかにも、また私の思考のなかにさえ、存在していなかった。"
    "私の思考、それは私だ。だからこそ私はやめることができないのである。私が存在するのは私が考えるからだ……そして私は考えるのをやめられない。"
    "存在が私の思考を背後から捉え、ゆっくりとそれを背後から花開かせる。私は背後から捉えられ、背後から思考させられ、つまりは何物かであることを強いられ、存在の軽い泡となって息を切らせる私の背後で、彼は欲望の霧の泡となり、鏡のなかで死者のように蒼白だ、ロルボンは死んだ、アントワーヌ・ロカンタンは死んでいない、気を失うこと。"
    "私たちはみんなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです"
    "私を思いとどまらせたのは、誰一人、まったく誰一人として、私の死に心を動かされはしないだろうし、自分が生きているときにもまして、死のなかではいっそう独りきりになるだろう、と考えたからです"
    "私は出て行きたい、どこか本当に自分にふさわしい場所、自分にぴったりした場所に行ってしまいたい……。だが自分にふさわしい場所など、どこにもない。私は余計な存在だ。"
    "つまりそれだったのか、〈吐き気〉は。この明明白白な事実だったのか? 私はさんざん頭を悩ませた! それを書きもした! 今や私は知っている。〈私〉は存在している──世界は存在している──そして私は世界が存在していることを知っている。それだけの話だ。"
    "普段、存在は隠れている。しかし存在はそこ、私たちのまわりに、私たちのうちにある。存在は私たちである。"
    →ハイデガー
    "物の多様性、物の個別性は、仮象にすぎず、表面を覆うニスにすぎない。そのニスは溶けてしまった。あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残った──むき出しの塊、恐るべき、また猥褻な裸形の塊である。"
    "自分が〈存在〉の鍵を発見したこと、〈吐き気〉と私自身の生の鍵を発見したことを理解していた。実際、それに続いて私が捉えることのできたすべてのことは、この根源的な不条理性に帰着する。"
    "機能は、根とは何かということを大まかに理解させるけれども、この根のことはまったく理解させてくれなかった。"
    →ドゥルーズリゾーム
    "人が見たものは抽象的な作り事であり、清潔にされ、単純化された観念、人間の観念である。"
    "本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。存在者は出現し、出会いに身を委ねるが、人は絶対にこれを演繹できない。"★
    "権力への意志と生存闘争のことを語った愚か者たちがいた。つまり彼らはただの一度も、一匹の動物や一本の木を眺めたことがなかったのか?"
    "木々の微笑、月桂樹の茂みの微笑、それは何かを意味していた。存在の真の秘密はそれだった。"
    "無駄に与えられたこの生──を前にして、私は驚いているのだ。"
    "私は〈吐き気〉をもよおすだろうと思うが、書いていればそれを遅らせることができそうな気がする。"
    "自分たちだけで、ただ自分たちだけでいたために、存在に身を委ねきっていた私たちみんなは、だらしない日々の投げやりな状態のなかで、このダイヤモンドのような小さな苦しみに不意を衝かれたのだ。私は恥ずかしい、自分自身のために、またその苦しみの前で存在しているもののために。"
    "私も試みることができないだろうか……もちろんそれは音楽の調べではないだろう……そうではなく、別のジャンルで試みることはできないだろうか?……それは一冊の書物でなければなるまい。私にはほかに何もできないからだ。"
    "存在を越える何かを見抜くようなものであるべきだろう。たとえば、起こり得ないような物語、一つの冒険だ。"
    "一篇の小説だ。"
    ・注釈
    "サルトルが蟹や海老のような甲殻類や、蛸などの水生動物に対して過剰な反応をする"のは、"幻覚体験のためのメスカリン注射を行なって以来、とくに顕著になったらしい。"
    ・あとがき
    サルトルは、『嘔吐』以前は無名だった。ボーヴォワールによれば、サルトルはスタンダールとスピノザを同時に愛しており、哲学と文学を引き離すことを禁じた。また、ボーヴォワールは、サルトルの『偶然性の理論』という抽象的省察を、ロカンタンの推理小説風サスペンスを導入することを促した。
    ロカンタンのように、社会的に負うものがなく、全面的に自由な存在をサルトルは「単独者」と呼んだ。マロニエの木の根っこを見てロカンタンは確信する、本質的なことは偶然性だ、存在は必然ではない。人間もまた存在であり、世界に生きるのも偶然で何の理由もなく、我々は余計な者。『嘔吐』を支えるのはフッサール現象学であり、現象学的小説ともいえる。
    存在の偶然性の対極にあるのは、冒険、アニーの完璧な瞬間。
    "過去の「冒険」を誇りに思うことがあっても、それは過ぎ去った「冒険」を物語る限りにおいてであって、生きるというのは退屈な日々の積み重ねである"。
    "ロカンタンの最後の決意はいくらか唐突だし、彼の書こうとするのは「起こり得ないような物語、一つの冒険」であって、それで彼の存在が変わるわけではない。"
    『嘔吐』は、ロカンタンの書きうる唯一の小説であり、サルトルが愛読したプルースト的性格。
    サルトルは1933-34ベルリン留学時にフッサールを学び、ハイデガーを読もうとしたが難解で歯が立たなかった。★

  • 「完璧な瞬間」を作り上げることに執着し、失敗して亡霊のように余生を送ることになってしまった元恋人のエピソードが印象的だった。不条理な存在(実存)の世界で生きていくには、完璧などあり得ないことを認めながらなんとか日々をやっていって、その過去を眺めるときにだけ嘔吐感を感じないで済む、ということなのかな。偶然にも主人公ロカンタンと同い年の私は、きみのような高等遊民の暮らしをするわけにはいかないですけどもね。

  • あっという間に読み終わった。
    ロカンタンの思想の流れ、キーワードになっている言葉や要素がが手に取る様に分かり易かった。

  • 昔、NHKの番組で紹介されていた時から読もうと思って読めていなかったが、ようやく読了。意外と読みやすく、すらすらと読めた。
    小説ではあるが、何か出来事があるわけでもなく、主人公が書いた日記形式で、孤独な主人公の日々が書かれている。しかし、彼は自分を「孤独のアマチュア」と呼ぶように、まったくの孤独というわけではない。馴染みのカフェがあり、独学者という知り合い?も出てくる。
    実存主義の古典ということだが、実存主義の「実存は本質に立つ」という言葉の「実存」だけが語られており、本質との違いは語られていないように思える。後で調べて分かったが、サルトルが実存主義を提起するのは、この小説のずっと後らしい

  • 実存主義の世界に没入できる内容。
    違和感=嘔吐が生む生の価値を客観視できる。
    もう一回きっちりと内容をまとめて読みたい。

  • この世は二人組ではできあがらないより

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著者プロフィール

1929年生。1953年、東京大学文学部卒業。フランス文学専攻。著書『サルトルの文学』(紀伊國屋書店、1963年、精選復刻版、1994年)、『アンガージュマンの思想』(晶文社、1969年)、『政治暴力と想像力』(現代評論社、1970年)、『プルースト論考』(筑摩書房、1985)、『異郷の季節』(みすず書房、1986年、新装版、2007年)、『越境の時』(集英社、2007年)、『マルセル・プルーストの誕生―新編プルースト論考』(藤原書店、2013年)、『フランス文学者の誕生―マラルメへの旅』(筑摩書房、2014年)、『余白の声 文学・サルトル・在日―鈴木道彦講演集』(閏月社、2018年)、『私の1968年』(閏月社、2018年)ほか。訳書にファノン『地に呪われたる者』(共訳、みすず書房、1968年)、ニザン『陰謀』(晶文社、1971)、サルトル『嘔吐』(人文書院、2010年)、サルトル『家の馬鹿息子』全五巻(共訳、人文書院)、プルースト『失われた時を求めて』全13巻(集英社、1996〜2001年)ほか。

「2024年 『鈴木信太郎巴里日記1954』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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