- Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
- / ISBN・EAN: 9784409130315
感想・レビュー・書評
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自分も偶然的に存在しており、世界にとっては余計なものである。
人が退廃したところでは自然が覆い尽くす。
これまで私はあなたの愛しいアニーであったことはない。
人間主義者は全てのものを一つの考えにまとめてしまう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
恐縮ながら「自分語り」をすると、ぼくはすでに「いま・ここ」に、この肉体を伴って(つまり「吐き気」を催させる臓器・精神を伴って)「ある」。「ある」ことが所与の条件となってこうして何かを知覚する意識も成立する。そんな「あたりまえ」「自明の理」にロカンタンは見事に、実に滑稽に足をすくわれつまづいてしまう。眼前の光景に「いま」が脈々と横たわっていることそれ自体を戦慄とともに受け容れ、有名なマロニエの光景の中にそうした「ある」ことの生々しくかつ神秘的な真実を見出す。小説としてはやや平板だけど、その深度はあなどれない
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Some of these days レコードに傷、傷、傷があって you'll miss me honey 女の歌手はもう死んだだろう
つい忘れていて、読み返すたびにロカンタンってまだ30歳なんだ…と。
変更前の表題メランコリアを表紙に。 -
「存在」の偶然性
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3.87/1306
『港町ブーヴィル。ロカンタンを突然襲う吐き気の意味とは……一冊の日記に綴られた孤独な男のモノローグ。
「物が「存在」であるように、自分を含めた人間もまた「存在」であることにロカンタンは気づく。そうだとすれば、われわれがこの世界に生きているのも偶然で、何の理由もないはずだろう。われわれはみな「余計な者」である。この発見は強烈で、作品全体に一種のアナーキーな空気を漂わせている。(中略)これは政治運動としてのアナーキズムの意ではなく、独りきりの孤立した人間が練り上げたラディカルな思想を指している。」(訳者あとがきより)』(「人文書院」サイトより)
原書名:『La Nausée』(英語版『Nausea』)
著者:J‐P・サルトル (Jean-Paul Sartre)
訳者:鈴木 道彦
出版社 : 人文書院
単行本 : 338ページ
ISBN : 9784409130315 -
19年ぶりの新訳。
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仏文学を最近全く読んでいないと思い、思い当たったのが本書。
本書についてはサルトルの思想面が強調されているイメージ(哲学書のような)があったが、思ったよりも「小説」であった。
といっても、語り手のロカンタンという青年が、街の中を行ったり来たりし、モノローグを続けている場面がほとんど。
他の登場人物は、「独学者」、元恋人のアニーくらいしかいない。アニーは、「特権的な状況」「完璧な瞬間」について、そうしたものは結局存在しないことを表すために登場したのだろうが、独学者というこの風変わりな人物の役割は、ヒューマニズムへの批判的態度を表明することにあったのだろうか?
以下、巻末の鈴木先生の解説を参考に個人的に考えてみたことを書くこととします。
「存在」・・・ロカンタンは「物」(石やふと目にした店員の衣服?)に触れたり、「自然」(マロニエの木など)を観察したりすることによって、一人一人の人間の存在も、それら物や自然物と同様に「余計なもの」であると気づいてしまう。余計なもの、という感覚は、人間以外の物体などが例えば風に吹かれてたまたまその場所に転がっているように、人であってもその存在はあくまで「偶発的」なものである、という悟りのようなものである。美術館の肖像画の場面で(この場面はかなり長かったが、、)、肖像画に描かれた、歴史に名を残す偉大な人物たち。このような人たちは、自分たちは何事かを成すために地上に存在しており、他の者ではない自分だからこそできることがある、いる意味がある、というように考えているが(またそうした偉大な人物たちではなくても、誰でも多かれ少なかれ自分の意思や判断が影響してきたからこそ、今自分のいる位置にいるのだというような意識はあるものだと思うが)、人間が存在するということは、その他の「物」がたまたまその場所に転がっているがごとく、何らの必然性もないものだ、ということにロカンタンは気づくのである。存在たちはそれぞれ、相互に連関しあって意味付けられ、そこにいるように見えても、あくまで孤立しているものである。例えば仕事。それもまた存在の理由にはならない、だからこそロカンタンは論文?の執筆を放棄するのである。
「完璧な瞬間」・・アニーのいう完璧な瞬間とは、ロカンタンのいうような、何らの必然性もない「存在」とは対照的に、なるべくしてなる、起こるべくして起こるような状況を指すものと思われる。しかし、あなたと私の出会ったあの瞬間は、まさに奇跡であり同時に必然であった・・というようなドラマのような場面は、実際には起こり得ないものであり、そのことを悟ったアニーもまた抜け殻のように余生を送る他ないと考えているのである(といってもアニーにしろロカンタンにしろ、思った以上に若く設定されていた。2人とも達観しすぎていて老人かと思ったが)。
一方で、劇的な展開を見せるドラマには筋書きがあり、大団円もある。作中で音楽も同じ扱いがされていたが、つまりいわば小説というものは、結末に向かって、冒頭から必然のみが積み重ねられていくものであるから、小説の中では存在の偶然性といったことは生じないこととなるのではないか。ロカンタンは結末部分でも、この点にわずかに希望を見出しているのではないか。
この小説で表現されているものは、上記のような存在の偶然性といった考え方であるが、やはりこうした概念は哲学の中の抽象語の一つで、やや現実離れしすぎているようにも感じる。むしろ本書を読んでまず感じたのは、存在の偶然性の発見により絶望するロカンタンというよりも、小説の中の彼がほとんど誰も話し相手がおらず、家族も登場せず、ひたすら孤独に生きているのに、それでも年金収入もあり「生きられてしまう」ことが恐ろしいと感じた。なぜなら存在自体に必然性がないといっても、直ちに実感はわかないが、死にもまた必然性はない、といったほうが、我々には実感しやすいのではないかと思うからである。
本書は、哲学書などに比べると随分読みやすかったが、難解な箇所もあり、読了まで時間を要した。しかし、非常に勉強になる読書体験だった。 -
読めない わたしは一生本読めないんではないかと考えさせられるほど読めない どこから読んでもどこかを読まなくても問題ないような文 鏡に映る顔についての描写は面白いと思った つまり未体験なことばかりで主人公に移入できなかったということか
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サルトル 「 嘔吐 」ロカンタンが 吐き気を通して 事物と人間の実在を発見する物語。
小説にすると 人間の主体性や自由のための実存主義の主張が弱まり、事物の存在の空虚性が目立つ。「実存主義とは何か」の方が面白い
存在論
*存在とは 何でもない〜外から物に付け加わった空虚な形式にすぎず、物の性質を何一つ変えるものでもない
*本質的なことは偶然性〜存在は必然でない〜存在とは 単にそこにあること
*現在 以外に何もない〜私自身も 〜現在でないものは存在しない
「人生は それに意味を与えようとすれば 意味がある〜まず行動し、一つの企てのなかに身を投じる」