嘔吐 新訳

  • 人文書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784409130315

感想・レビュー・書評

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  • まず、鈴木道彦さんの訳がすごく読みやすかった。

    訳はいいが、内容を理解することは難しい。

    著者であるサルトルの実存主義(行動に責任を持つ覚悟があれば、人間は自由である)という考え方について、主人公のロカンタンが、この考え方に至るまでの経緯、“存在”の世界の真実を発見することが著書の内容になる。

    ※(本書では「実存」を発見する過程を描いた作品ではあるが、決して実存主義の思想に基づいて書かれた小説ではないそうだ。)

    実存主義の考え方は「孤独で有ることを認識する、他人からも憎まれているなどの面も認識した上で自由に生きる」というものらしい。

    主人公のロカンタンは、ほんの数人を除いてほとんど人付き合いのない生活を送っている。

    家族に関しても全く触れていないので天涯孤独なのであろう。

    他人との交流は乏しいが、物には絶えず囲まれて生活している。

    彼は、ある時から普段見慣れた物に対して〈吐き気〉を催すようになる。

    今までは気に留めなかった物が“存在”であること、しかもなんの理由もなく偶然“存在”していること、さらには物だけではなく、人間もまた“存在”であると気づく。

    ロカンタンを取り巻く“存在”の世界、嘔吐感を与える“物”の世界。

    その、“存在”と向き合いロカンタンの見出した結論、生き方とは…?

    私たちは「今、この瞬間に存在している不思議さ」なんて意識せず、何気なく毎日を送っている。あまりにも当たり前すぎて意識すらしていない。ロカンタンによってこの当たり前の常識を覆されてしまった。

    またロカンタンの孤独を受け入れていく姿勢からも目が離せない。

    これは実存主義を理解していく上でも重要な部分であるだろう。

    サルトルの著書や考え方に触れていくのは、本書が初めてであるため、今後も実存主義についての考え方を深めて行きたいと思う。

    そして、再読した時には本書をより理解していけたらこの上ない喜びである。

  • 1970年代という不安定な時代に、高校生という不安定な世代で読んだ。不安を増長するような気もした。「嘔吐」が現代に受け入れられるかは解らない。自分の子供に勧める自信はない。

    不安な時に、本を読むのでは安定できないかもしれない。運動したり、旅行するとよいかもしれない。

    不安な時に,いろいろな作品を読むとなにか、ひょっとしたらつかめるかもしれない。
    いろいろな本を読むことが大切だという意味で、お勧め1000冊に入れたい。

    歴史に興味をもち、近代を理解しようと思ったときには、近代の代表作の一つにあげてもよい。

    時代を理解するという視点で読んでみて欲しい。
    人はそれを「実存主義」と呼ぶ。

    実存主義という言葉は気にしなくてもいいかもしれない。

  • 文学としての完璧さを漂わす稀有な作品。

  • 嘔吐 新訳
    (和書)2012年05月10日 14:12
    J‐P・サルトル 人文書院 2010年7月20日


    サルトルさんの『嘔吐』を新訳で読んでみました。

    以前、別の訳で読んだことがありましたが、あまり印象に残ることはなかったけれど今回はなかなか素敵に読むことができて、これは翻訳のためか、それとも2回目ということで、やはり読書というものは一回読んだからどうだとかじゃなく、読むことを愉しむことは大事なのだと思いました。

    特に近日思うことは、真理の探求ということを考えていくと読書の面白さは無限大に愉しむことができると思いました。

  • ついに読み終えた、という読後感。
    「吐き気」という症状を持病という「存在」の一部として抱える身として、この作品においてロカンタンが吐き気に襲われる場面で本当に吐き気を催してしまうことが何度あったことか。
    しかし、僕にとってこの哲学小説は通るべき道のように思い続けていた作品(そう、まるでアニーの「完璧な瞬間」のように!)なので、吐き気を堪えながら読み終えた今、やれやれという心持ちとここ数年来自身が抱えていた内的問題に対する姿勢への得心を得たという感覚に浸ることができた。

    巻末の訳者解説によれば、この「嘔吐」はサルトルがフッサールとハイデッガーを咀嚼して実存主義を展開する前に書かれたために、「実存」という訳語を使わず「存在」に統一したということらしい。つまり、この段階ではまだ実存主義ではなくその萌芽が示されたに過ぎないと。けれど、この「嘔吐」を読むに当たっては「実存は本質に先立つ」という有名なサルトル実存主義の題目を念頭に置いておくと、ロカンタンの思索を読み解く助けになるように思う。

    例のマロニエの根のごとき存在(「自然」或いは「景色」と置き換えてもいい)と自己存在が完全な偶然性の下にリンクするような感覚をここ数年来覚えていたこと、またロカンタンのライフスタイルが僕にとても似ている(僕は高等遊民のような財を持たないが)ことなど、ほとんど身につまされながら、吐き気を堪えながら3ヵ月余りの期間の中で読了できたことを嬉しく思う。

  • プルースト『失われた時を求めて』の訳者による新訳。訳者は、サルトルの中にプルーストの影響を認めている。

    中村文則の小説『何もかも憂鬱な夜に』にサルトルのことが書かれていたので、読むことにした。

    そういえば、大学時代、サルトル好きの友人がいた。当時はフランス現代思想にかぶれていた僕は、現代思想が否定していたサルトルのことをバカにしていた。現代思想は、サルトル的な主体性、自由、行動する知識人の在り方を批判することから始まった。現代思想も廃れた現代において、改めてサルトルを読むと発見が多い。

    サルトルがガリマール社に『嘔吐』の原稿を渡した後、何度も改稿を命じられて、出版まで7年もかかったという。よほど編集者の直しが入ったのだろう、しかし、ガリマールの判断は正しかった。他のサルトルの小説といえば短編か未完作品ばかりだが、『嘔吐』は完結しており、サルトル自身認める傑作となっている。

    小説は主人公ロカンタンの日記の体裁をとっている。ロカンタンは十八世紀ヨーロッパの架空人物であるロルボン公爵の歴史研究をしている。生活のための仕事はしていないが、食べていける金利生活者である。行きつけの居酒屋の女主人、独学者の青年としか接触がなく、ロカンタンは物に囲まれた孤独な生活をしている。ロカンタンはある時、物に対して嫌悪感、吐き気を覚える。探求の結果、ロカンタンは、すべての物が偶然存在していることに気づく。存在に必然はない、世界の本質は偶然性だとロカンタンは喝破する。

    ロカンタンの目には、自分達の存在理由をかたく信じている社会の指導的エリートは俗物だと映る。以下冒頭の文章引用。

    「一番いいのは、その日その日の出来事を書くことだろう。はっきり見極めるために日記をつけること。たとえ何でもないようでも、微妙なニュアンスや小さな事実を落とさないこと、とりわけそれを分類すること。このテーブル、とおり、人びと、刻みタバコ入れが、どんなふうに見えるのかを言わなければならない。なぜなら変化したのはそれだからだ。この変化の範囲と性質を、正確に決定する必要がある」

  •  ニートを経験して、社会人になって、そこそこ生活できるようになって30過ぎて読むと実に面白く懐かしく楽しめる名作。愛すべき青春の一冊であり、サルトル33歳の時の作品。
     昔、好きな子がフランス文学科で、その子の話題に追いつこうと必死にフランス文学の小説や詩を読んでいた(死ぬほどつまらなかったというか理解する頭がなかった)。頑張ってサルトルの嘔吐(白井浩司訳)も読んだ。そうして読了して、さあ話をあわせるぞと「サルトル読んだで!」と笑顔で話しかけると、「あ、嘔吐、面白くて、あまりに感じすぎて読んでない、読み進めることがでけへんねん」と返された。私の頭の中で、必死に覚えた嘔吐のあらすじが、「俺も吐き気感じたりするわ~」みたいなわざとらしい感想が、すーっと消えていった。

     そうして、再読すると、この小説は実にリアルなのだ。アルファベット順に本を読む独学者とか、ビールを見ないとか自分ルールを作り出すとことか、哲学的と思われるかも知れないが、ニート経験者は「あるある!」と唸るポイントばかりなのだ。
     独学者VS主人公の、ニート自慢大会的な会話も楽しい。独学者は6年ぐらい勉強して冒険の旅に出るという。「あらゆる種類の冒険ですよ。汽車を間違えるとか、知らない街で下車するとか、財布をなくす、間違って逮捕される、ひと晩を牢獄で過ごす、といったような」みたいなしょーもない話を延々する。必死扱いて冒険の旅に出ることを述べる独学者の姿と聞いている主人公の心が手に取るようにわかる。また、隣のカップルのしょーもない話を延々盗み聞きするのもわかる。
     そしてしょーもない日々が続くうちに、だんだんと「何かが始まるぞ」と、まるで満月を見上げて「ちっ、早すぎる! やつが目覚めたというのか!?」という感じになってくるのをちゃんと書いているのもいい。ラノベ「中二病でも恋がしたい!」より70年はやく書かれた中二病小説でもある。
     みんな日曜日過ごして月曜日に心がむいているが、主人公は月曜日も日曜日もない生活。主人公は無人の通りにいるが、歴史が、現在が、猛烈な速度で様々な事件を起こして過ぎ去っていく。そのうち、在野の研究者的にマニアックな人物についての抽象的な研究をはじめたりするのだが、これもニートのことをよくわかっている描写で、何か抽象的ですごい論文を書いて哲学の究極大飛翔をするんだというのは「あるあるw」を通り越して、「心が痛い」。そして主人公はあっという間に挫折。「いったい、自分自身の過去を引き留める力もなかったこの俺が、どうして他人の過去を救い出すことなど期待できようか?」そして「何にも邪魔されずに自分の本を仕上げさせてもらいたい」という。
     誰も邪魔してないわ! とみんな突っ込むところだ。
     途中で強姦のことも考えはじめる。「強姦された少女」。これもほんとそうで、ニート時代は結構、世の中の不正義というか、悪に対してすさまじい嫌悪を持っていた。常に、邪魔者に対して敏感で、悪に対して本気で憎悪する。私もニート時代、違法駐車している車をどれほどひっくり返したかったものか。

    終盤、「それにしても、ブーヴィルにいたときは、いったい一日中何をしていたのか」という悔恨に爆笑。存在と自由を巡る話であるのだが、「ほんま何もしてなかったわ~」という結論。
     悲しいのは片っ端から本を読んでいた独学者の終わり方。少年へのセクハラで、ぼこぼこにされて、図書館を追い出される形。彼の学問も終わりである。
     研究対象だったロルボンから名もなきジャズを好きになり、その純粋な即興のようなものに心うたれたりして、ふと思い立ってパリに行こうと決心する。冒険に出るのではない。「何かが始まる」のを期待して、遠い未来で「この時、汽車を待っていた時が始まりだったのだ」と思い返せるために。
     もと愛人のマダムとの会話が良い。パリに立とうとしたら、愛人マダムもパリにいたとわかる。先を越されていたショックと同時に、さよならの時に、人の本当が分かるという、マンガの黄昏流星群のような展開に。

    「夜が落ちてくる。プランタニア・ホテルの二階では、二つの窓に明かりが点されたところだ。新駅の工事現場は、湿った材木の匂いを強烈に放っている。」というラストの段落は感慨深い。この材木の匂いにもう吐き気を主人公は感じないのだ。

     白井訳以来の、2度目の読了だが、はじめて読んだ時よりも数倍たのしく、深く、心に染みいるように読めた。あまりにしょっぱい主人公過ぎて、逆にハードボイルドな、男の切ないドラマに見える。
     哲学小説とか難解とか言われるかも知れないが、これ以上わかりやすく、楽しめるものもない。最初は「なんだこのしょーもない文学!」と20代のころに反抗的に読み、そして10年後、しみじみと再び読むべき書物だと思う。

  • 実存主義の世界に没入できる内容。
    違和感=嘔吐が生む生の価値を客観視できる。
    もう一回きっちりと内容をまとめて読みたい。

  • 原題は『吐き気』と訳したほうが正確なんでしたっけ?

    とにかく、存在そのものに嘔吐しそうになる、という着想にはちょっと笑いました。
    「あなたという存在が気持ち悪い」みたいな言い方がありますが、サルトル流に解釈するなら、気持ち悪いのは「あなた」じゃなくて「存在」なんですよね。

    でも、すごく共感します。

  • 精一杯うんと背伸びして、アルベール・カミュの『異邦人』や、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』や、ジャン・ジュネの『泥棒日記』や、ルイ・フェルディナン・セリーヌの『夜の果てへの旅』や、アラン・ロブ・グリエの『反復』や、トマス・ピンチョンの『V』や、ドナルド・バーセルミの『口に出せない習慣、不自然な行為』や、そしてこの本、ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』などなど、誰も見向きもしないから綺麗なままの本をほとんど独占して読むことが出来た中学から高校にかけて,それにしても各々の学校の図書館に何故あれほどまでに尖鋭な現代文学の本が、私を待っていたのでしょうか?

    それはともかく、『嘔吐』は、カフカの影響を云々されていますが、骨の髄まで徹頭徹尾そのころ芥川龍之介に影響されていた私の文学観では、主人公ロカンタンの吐き気をもよおすこの嫌悪感は、まさに芥川龍之介のペシミズムに通じるものとして理解されたのでした。

    実存的存在などこれっぽっちも知らなかった中学生には無理もないことでしたが、その後ひそかにサルトルに少なからず入れ込んでいくにつれ、たとえ今ではもう誰もその思想性に注目しようとはしない流行遅れのような過去の遺物のような扱いをされようとも、私にとっては、思想や哲学をただ思弁的なものとしてだけでなく、現実の社会とのかかわりの中で見出そうとして批判して闘った人として、また1901年から始まったノーベル賞をベトナムの革命家のレ・ドゥク・トとともに二人だけ辞退した反骨の人として、深く記憶に刻まれたのでした。

著者プロフィール

J‐P・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre)
1905年6月21日 - 1980年4月15日
フランスの哲学者、小説家、劇作家。20世紀を代表する哲学者・思想家のひとりで、「実存は本質に先立つ」と語り、実存主義思想の代表的哲学者とみなされる。そして、発言と行動が注目される知識人のひとりであった。フランスのみならず、日本でも大きな流行が起こり、多大な影響を各方面に与える。代表作に、『嘔吐』、『存在と無』、『実存主義とは何か』、『自由への道』など。

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