モラルの話

  • 人文書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (157ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784409130407

作品紹介・あらすじ

欲望すること。歳をとること。人間であること。

円熟期にある作家が、今どうしても伝えたいこと。

「人間のモラル」の底を描く、余韻に富んだ最新作。



ノーベル賞作家が、これまで自明とされてきた近代的な価値観の根底を問い、時にシニカルな、時にコミカルな筆致で開く新境地。英語オリジナル版に先駆け贈る、極上の7つの物語。

感想・レビュー・書評

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  • クッツェーも歳を取ったんだなあ。
    「私たちは歳をとると、肉体のあらゆる部分が劣化したり混乱に陥ったりして、それが細胞にまでおよぶ。古い細胞が、まだ健康であっても、秋の色に染まる。これは脳細胞にも起きる。(中略)秋を迎えた脳が思いつく欲望は秋にふさわしい欲望で、幾重にも記憶に彩られたノスタルジックなものになる。もう夏の熱気はない。たとえその欲望が強烈であっても、その強度は複合的で、多面的で、未来より過去に向かうことが多い。(P56~57)」ホントね、上手いこと言うわ、としみじみ思う。
    「本当の真実は、あなたは死にかけてるということです。本当の真実は、あなたは片足を墓の中に突っ込んでいるってことです。本当の真実は、すでにあなたはこの世では無力で、明日はさらに無力になり、日一日とそれは進んで、もう手の打ちようがなくなる日がやってくるということです。本当の真実は、あなたは交渉する立場にないこと。本当の真実は、あなたはいやだとは言えないこと。本当の真実は、時計が時を刻むことに対してあなたはいやだとは言えないということ。」(P108)畳み掛ける老いの真実。
    しかし分娩中の猫やベルトコンベアにのせられたひよこに対する優しさもある。優しさなんて言ったら怒られそうだけど。「長靴を履いた男が、たとえばあなたが分娩中で攻撃を受けやすく、無力で、逃げられないことをいいことに、あなたを蹴り殺すような世界に私は生きていたくない。わたしの子供たちが、ほかの母親の子供たちにしても、数が多すぎるという理由で、母親から引き離されて溺死させられるような世界に生きていたくないの。」(P87)
    パワーは衰えたかな。昔よりとっつきやすくなった気がするクッツェー。でも知的で毒気たっぷりは変わらず。今後さらに老いを見つめた小説を書いてくれることを祈る。
    しかし、猫に性格はある。表情筋が少ないのは群れで生活しないからで、表情があまりないからって感じていないわけではない。人間もそうだけど。それに、意外と表情あるよ。一緒に暮らしたらわかる。
    あと、P52のミズスマシってアメンボの間違いではないのかな?足が長い羽虫とあるから。ミズスマシは足そんなに長くないし甲虫だよね。

  • クッチェーの短編連作。全作品が60歳以降に書かれた作品。

  • モラルにまつわる7つの寓話

  • 何度も読み返して自分の頭で考えたいと思う、思考実験本。なんの前情報もなく読んだので、モラルについて苦言を呈するような評論かと思いきや世界共通のモラルに関する爽やかな小話、という感じで読みやすかった。ジェンダーや婚姻制度、親の高齢化など絶対的正義が存在しえないようなテーマのため、爽やかとは言い切れないかもしれないが、説教くさくないところに爽やかさを感じた。また、テーマも実に現代的で、日本語に翻訳された本しか読むことのできない圧倒的情報弱者の読者としては、これが10年以上も前の本だったら困る、と不安に駆られたが2016-2017年に書かれた本であるというから、現代人の頭痛の種は世界共通なのだなぁと安心することができた。

  • 静止したモラルとは死体に過ぎず、腐臭さえ放つ。揺さぶり続けてこそ、それは機能する。これはそんな揺さぶりの小説。
    アポロとディオニュソス的、『分別と多感』的な、母子の議論が繰り広げられ、物語は進む。
    奔放さと熱がどんどん増していく母と、常識的で冷静な息子。
    我々はそのどちらにも共感できるし、違和感も抱ける。それをいわばブレンドとして、中間色として受け取っていく。
    その議論の性質は、議論によって話を進める2人の作家、ドストエフスキーの熱とチェーホフの公平性(或いはシニカルさも)を兼ね備えている。

    対立する2人の議論に、最終的に浮かんでくるものは、2人の親子ゆえの絆のあたたかさであり、その一点で2人が触れ合う姿、それが本作が感動的である理由。
    それがもはやなくなってしまった時、我々の社会の様に「分断」されてしまうことになる。

    開いたまま風に晒される問い。問いは閉じた時に死ぬのである。それらの答えには至らない問いが、解答ではなく、ある種の確信へと変容して行く。
    もっとも重要なセリフはこれだろう。「わたしは愛なんかには興味はない、関心があるのは公平さについてだけ。」この「愛」は「イデオロギー」と置き換えれば解りやすい。

    『物語』。
    私はこれが好き。不倫する妻の話。凄く安吾っぽい。『青鬼の褌を洗う女』みたい。夫婦は婚姻関係以前に個でありうるか。当たり前の話、個でありうると思う。「自由時間の範囲内で、ほんの一、二時間、結婚した女であるのをやめて自分自身になるだけなのだ。」

    ただしこの話、主人公が女性であるから進歩的で凄く爽やかに見えるが、男性だと違う意味合いになる。それは勿論、女性が置かれた境遇の歴史を鑑みれば、同じことをしても、男女では行為のベクトル・意味が逆になってしまう事によるのだが。だからこそ著者は主人公を女性にした。
    人によっては物凄く嫌悪感を催すであろう話かもしれない。けれど、私には美しい話に思えた。

    制度にも慣習にも愛する人にさえも立ち入られることのない個、というものを人は大事に持つべきだし、他者のそれを大事にすべきなのだ、と思う。そういう意味でこの話は爽やかなのだ。
    じゃあ不倫はOKなのか、というとそれはまた別の話なんだけど。ではなくて、そうした個と制度の拮抗した場所でしか人間は人間的ではありえないのではないか、制度を越えた個があるということをしっかり見詰めずには制度もありえない、という事。

    『虚栄』。
    「本から出て来た人物みたいにふるまっている」と主人公が指摘されるのは著者の思考は所詮小説内の思考であり、そのイノセンスは現実に晒される時、非常に傷ついた存在となる、という事。でも小説家の仕事とはまさにそうあるべきだと。

    この本全体と関わっている話で、別におばあさんが派手な化粧をするのは駄目という話ではない。そうではなく、作家が世界と対峙する時のあり方、それを宣言しているような内容なのだ。(本書全体において言えるが、議論の対象が象徴するものを同時に読んでいかないと、短絡的な感想しか抱けなくなる。)

    ここでの「レッスンから学んだわけよ」という言葉。これが『ひとりの女が歳をとると』で芸術の持つ美の意義を問う場面での「あなたの書くものがレッスンを含んでいるからではなくて、レッスンであるからよ」という言葉へと繋がる。これが本書の基調でもあり、著者の文学の在りようなのだと思う(ドストエフスキー、チェーホフの2人はまさにレッスンそのものである小説を書く代表格だ!)

    ところでここで語られているチェーホフの短編、というのが私には題名を思い出せない。キャサリン・マンスフィールドの「ミス・ブリル」に酷似した話ではある。孤独な部屋に戻ってウイッグを外す、という所と狐の襟巻を外す、という違い。とすると、マンスフィールドの元ネタである可能性はある。

    『ガラス張りの食肉処理場』。
    ハイデガーのいう動物の世界経験云々、というところでダニを例に挙げているところは、多分、ユクスキュルの環世界っていうのを踏まえていると思うのだが。ユクスキュル『生物から見た世界』を読みたいところ。

    圧巻なのは、デカルトについての講義を聴きに行き、生きた兎の心臓を裂く話が出る部分。ここで主人公は講義内容よりもその兎に思いを馳せ、跪くのだ。
    ナイーヴだと一蹴される様なこうした行為こそ、実は人の眼の恣意性の枠を外した、冷徹な公平性なのではないのか。(そこで私はラッセ・ハルストレムの映画、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』を想った。)
    そのロマンチックと嘲笑されるような視点こそが、合理性の眼で歪められることのない公平性であって、寧ろ我々はただそれを合理性という暴力的な大義名分で、恣意的に覆い隠しているだけなのだ。
    こうした公平性の欠如は、簡単に我々を残虐行為へと向かわせる。それは自らをも確実に滅ぼしているはずだ。
    そして、それが本来、他者への眼差しというものなのではないのか。ムイシュキン的な、アリョーシャ的なイノセンスを持つこと。それだけが命を、個を相対化から救い出すことが出来るのだ。

    そこへウィリアム・ブレイクの詩が挿入されるという小説的な盛り上がり。単に哲学談義ではなく、間違いなく小説そのものであり(哲学談義なのであれば私は読む気がしないな)、小説として非常に高度に洗練され、深い余韻を生んでいる、その小説としての在りように、私は深く感動する。

    ***併読書として『カラマーゾフの兄弟』は勿論だが、私はチェーホフの『中二階のある家』『ともしび』をお薦めしたい。本作の原型とも言える議論のスタイルを見ることが出来る。本作の受け取り方に戸惑った方には、特に。

  • 老いとモラル。
    「エリザベス・コステロ」再読のこと

  • モラルという普段考えるようで考えずに生きてしまっていることに対して読み物として考えさせられる本。ストーリーは読みやすいながら、一つの物事に対する複数の視点からの物の見方や考え方を追体験できる。新たな考えに気づかされるというより、自分の中にある考えが発露するイメージ。その考えの中には正に世の中の常識や社会通念的に悪とされたり良くないとされているものもあるので自身の心の中に留めているものも多いと思うが、そういった考えをストーリーの登場人物たちが代弁してくれている事で少し心が楽になる(?)気がする。

  • モラルのはなしを、多様なトピックで多様な角度から語り広げる。
    どの視点に立つか、と惑いながら、結局は読み手として傍観者でしかいられない自分に気づく。

  • 「犬」「物語」「虚栄」「ひとりの女が歳をとると」「老女と猫たち」「嘘」「ガラス張りの食肉処理場」の八編からなる、モラルについての短篇集。はじめの二篇を除く六篇は、一人の年老いた老作家エリザベス・コステロをめぐる、ある一家の物語。時間の推移通りに配された連作短篇として読むこともできる。エリザベス・コステロは、クッツェーの同名の小説の主人公で、クッツェーのアルター・エゴといえる。

    仕事の往き帰りにその家の前を通るたび猛犬に威嚇される。雄犬は「彼女」が体から発する匂いか何かで自分を恐れていることを知覚し過剰に反応するらしい。それは怒りであり、情欲でもあると「彼女」は考える。雄犬は強い獣として弱者を威嚇すると同時に、雄として雌を征服する喜びを二重に感じているのだろうか。

    屈辱的な恐怖感を自分で制御できない「彼女」は、人間が堕落していることの証明は自らの身体の運動(勃起)を制御できないことだ、というアウグスティヌスの言葉を思い出す。犬と関係性を作ろうとして飼い主に話をするが相手にされない。キレた「彼女」が「人間の」言葉で犬を罵るところで話は唐突に終わる。「犬」には、性、動物と人間、暴力、といった本書の主要なテーマが鏤められ、序章の役目を果たしている。

    「物語」のテーマは不倫。夫に内緒で別の男との情交を楽しんでいる「彼女」には疚しさというものがまったくない。夫を愛しているが、夫のいない時間はただの自由な自分に戻るだけのことだ。保守的な「彼女」は、いつかこの関係が終わったら、結婚している女に戻ることも知っている。「彼女」はモラルに反しているのか。モラルをストレートに問う一篇。

    エリザベス・コステロと、その家族を扱う連作短篇が読ませる。エリザベス・コステロは、オーストラリア出身で、六十歳をこえた今でもポレミックな姿勢を崩さない。簡単には人の意見に同調することのない、この老作家と息子たちの対話が実に愉しい。中心となる話題は、老いつつある作家の一人暮らしだ。心配する二人の子の思いは分かるものの、自分の人生は自分の思うように生きたい老人のこだわりはいつもすれちがう。

    「虚栄」では家族が六十五歳の誕生日を祝うために母親のアパートに集まる。その前に現れた母親は髪をブロンドに染めてドレスアップしていた。家族は驚くが、母親は「ずっとこのままってことではないの」「この人生でもう一度か二度、ひとりの女が見つめられるように見つめられたい」と言う。しかし、帰りの車では、あのまま放っておくと義母は傷つくにちがいない。自分をコントロールできていない、とジョンの妻ノーマは言う。

    実の息子と娘は、母親のすることに驚きはしても批判はしない。批判してやめる母親ではない。ノーマもそれは知っているから、その場では口をはさまない。もともと現実離れした世界で生きてきた人なのだ。「若いときは問題がなかった。でもいまはその現実離れが(略)彼女に追いつきはじめた」とノーマは言う。微妙なのは、あのまま放置しておいて、義母が傷ついた時「その責任が私たちに降りかかってくる」というところだろう。

    「ひとりの女が歳をとると」では、ヘレンがギャラリーを運営するニースに母がやってくる。同じ頃、アメリカにいるジョンも渡仏する。母親は、これには企みがあると考える。案の定、二人は同居を提案する。ニースでもアメリカでもいい。どちらかを選んだらいい、と。もちろん、母親は同意しない。まだまだ一人でやっていける、と。母と娘、母と息子それぞれの間で交わされる会話がいい。作家の脳内対話なのだが、実に生き生きしている。

    子どもたちは母を心配し、同居を考え、それを拒否されると、施設への入居を勧める。放っておくと母親の頭と体はどんどん衰え、最悪の場合、孤独死だ。それを止めるのが子どもの義務だと考えている。が、ジョンとヘレンにとってはそれだけではない。本当に心配なのだ。同居も施設も最良のものを準備しての提案である。第三者的にはこれ以上ないような提案に思える。

    一方、親は遠くで誰の世話にもならず、死にたいと思っている。思いやりは迷惑とまではいわないが、子どもに要らない心配をかけたくない。それに、死ぬまでの間にはやりたいことや考えたいことがまだまだある。子どもとの同居や施設への入所は、その邪魔になるだけだ。体や頭の自由がきく間はそれでいけるだろう。だが衰えは知らぬ間に進んでいる。

    「老女と猫たち」では、母親はスペインの田舎に隠遁している。そこへジョンが訪ねてくる。母の家には露出癖のあるパブロという男が同居している。施設に収容されるところを母が保護を名乗り出たのだ。それに十数匹の猫も。村を出た人々が飼っていた猫を捨て、野良猫となった。村人は野良猫を見つけると撃つか罠で捕らえて溺死させる。それで母が保護している。当然、村人は面白くない。母親は村で孤立している。

    人と動物について、選択と行動等々、哲学的ともいえる会話が母と子の間で交わされる。老いた母は議論で相手を言い負かせたい訳ではない。ただ最後まで自分の生き方を通したいだけなのだ。猫を保護するのは「数が多すぎるという理由で、母親から引き離されて溺死させるような世界に私は生きていたくない」からだ。人間だったらどうなのかという問いがそこにはある。結局ジョンは母を説得できない。

    「老女と猫たち」の内幕をジョンの視点で語るのが「嘘」。ジョンは母が転倒したことを知り、慌てて飛んできたのだ。足腰の弱った母に施設への入所を提案する息子に「本当の真実」を言えと母親は迫るが、息子の口からは言えない。妻になら言える。それで手紙を書く。異国の寒村で痴呆の男に看取られて死ぬかもしれない母親に寄せる息子の切々とした心情が綴られる。親を施設に入れた身として、今はジョンに肩入れして読んでしまうが、そのうち立場が入れ替わるのも承知だ。身につまされる。

    「ガラス張りの食肉処理場」では、いよいよ知力が衰えてきた老作家は息子を頼る。自分のことではない。人間が他の動物を食べるという問題について、考えるための施設を作れないか、という電話だ。それからいくつもの断片的な文書が送られてくる。人間と動物について書かれた本の書評やら、書きかけの作品。中にはダニを馬鹿にするハイデガーが弟子のハンナ・アーレントに対してはダニと同じことをしている、と揶揄する文章まである。もう自分では、まとめることができなくなっていることを自覚して息子に後を託しているのだ。

    明晰で直截的。紛らわしいところや仄めかしを残さない。辛辣さをユーモアで塗したエリザベス・コステロの断簡は、勿論クッツェー自身の手になるもの。大きめの活字でゆったり組まれた組版は、老眼に優しいが、書かれている中身は決して優しくない。しかし、エリザベス・コステロとジョンの思弁的な対話には思わず引き込まれる魅力があり、ナイーヴなテーマを恐れず追究する態度は感動的である。傍らに置いて何度でも読み返し、余白に書き込みを入れたくなる、そんな一冊。未読の『エリザベス・コステロ』も読んでみたくなった。

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著者プロフィール

1940年、南アフリカ・ケープタウン生まれの作家。74年『ダスクランズ』でデビュー。『マイケル・K』(83年)、『恥辱』(99年)で英ブッカー賞を史上初の二度受賞し、2003年にノーベル文学賞を受賞、現代の最重要作家の1人と評される。著書に、自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』、『鉄の時代』、『モラルの話』、『夷狄を待ちながら』、『イエスの幼子時代』、『イエスの学校時代』などがある。

「2021年 『J・M・クッツェー 少年時代の写真』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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