モラルの話

制作 : J.M. Coetzee  くぼた のぞみ 
  • 人文書院
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本棚登録 : 65
レビュー : 10
  • Amazon.co.jp ・本 (157ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784409130407

感想・レビュー・書評

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  • クッツェーも歳を取ったんだなあ。
    「私たちは歳をとると、肉体のあらゆる部分が劣化したり混乱に陥ったりして、それが細胞にまでおよぶ。古い細胞が、まだ健康であっても、秋の色に染まる。これは脳細胞にも起きる。(中略)秋を迎えた脳が思いつく欲望は秋にふさわしい欲望で、幾重にも記憶に彩られたノスタルジックなものになる。もう夏の熱気はない。たとえその欲望が強烈であっても、その強度は複合的で、多面的で、未来より過去に向かうことが多い。(P56~57)」ホントね、上手いこと言うわ、としみじみ思う。
    「本当の真実は、あなたは死にかけてるということです。本当の真実は、あなたは片足を墓の中に突っ込んでいるってことです。本当の真実は、すでにあなたはこの世では無力で、明日はさらに無力になり、日一日とそれは進んで、もう手の打ちようがなくなる日がやってくるということです。本当の真実は、あなたは交渉する立場にないこと。本当の真実は、あなたはいやだとは言えないこと。本当の真実は、時計が時を刻むことに対してあなたはいやだとは言えないということ。」(P108)畳み掛ける老いの真実。
    しかし分娩中の猫やベルトコンベアにのせられたひよこに対する優しさもある。優しさなんて言ったら怒られそうだけど。「長靴を履いた男が、たとえばあなたが分娩中で攻撃を受けやすく、無力で、逃げられないことをいいことに、あなたを蹴り殺すような世界に私は生きていたくない。わたしの子供たちが、ほかの母親の子供たちにしても、数が多すぎるという理由で、母親から引き離されて溺死させられるような世界に生きていたくないの。」(P87)
    パワーは衰えたかな。昔よりとっつきやすくなった気がするクッツェー。でも知的で毒気たっぷりは変わらず。今後さらに老いを見つめた小説を書いてくれることを祈る。
    しかし、猫に性格はある。表情筋が少ないのは群れで生活しないからで、表情があまりないからって感じていないわけではない。人間もそうだけど。それに、意外と表情あるよ。一緒に暮らしたらわかる。
    あと、P52のミズスマシってアメンボの間違いではないのかな?足が長い羽虫とあるから。ミズスマシは足そんなに長くないし甲虫だよね。

  • モラルという普段考えるようで考えずに生きてしまっていることに対して読み物として考えさせられる本。ストーリーは読みやすいながら、一つの物事に対する複数の視点からの物の見方や考え方を追体験できる。新たな考えに気づかされるというより、自分の中にある考えが発露するイメージ。その考えの中には正に世の中の常識や社会通念的に悪とされたり良くないとされているものもあるので自身の心の中に留めているものも多いと思うが、そういった考えをストーリーの登場人物たちが代弁してくれている事で少し心が楽になる(?)気がする。

  • 「犬」「物語」「虚栄」「ひとりの女が歳をとると」「老女と猫たち」「嘘」「ガラス張りの食肉処理場」の八編からなる、モラルについての短篇集。はじめの二篇を除く六篇は、一人の年老いた老作家エリザベス・コステロをめぐる、ある一家の物語。時間の推移通りに配された連作短篇として読むこともできる。エリザベス・コステロは、クッツェーの同名の小説の主人公で、クッツェーのアルター・エゴといえる。

    仕事の往き帰りにその家の前を通るたび猛犬に威嚇される。雄犬は「彼女」が体から発する匂いか何かで自分を恐れていることを知覚し過剰に反応するらしい。それは怒りであり、情欲でもあると「彼女」は考える。雄犬は強い獣として弱者を威嚇すると同時に、雄として雌を征服する喜びを二重に感じているのだろうか。

    屈辱的な恐怖感を自分で制御できない「彼女」は、人間が堕落していることの証明は自らの身体の運動(勃起)を制御できないことだ、というアウグスティヌスの言葉を思い出す。犬と関係性を作ろうとして飼い主に話をするが相手にされない。キレた「彼女」が「人間の」言葉で犬を罵るところで話は唐突に終わる。「犬」には、性、動物と人間、暴力、といった本書の主要なテーマが鏤められ、序章の役目を果たしている。

    「物語」のテーマは不倫。夫に内緒で別の男との情交を楽しんでいる「彼女」には疚しさというものがまったくない。夫を愛しているが、夫のいない時間はただの自由な自分に戻るだけのことだ。保守的な「彼女」は、いつかこの関係が終わったら、結婚している女に戻ることも知っている。「彼女」はモラルに反しているのか。モラルをストレートに問う一篇。

    エリザベス・コステロと、その家族を扱う連作短篇が読ませる。エリザベス・コステロは、オーストラリア出身で、六十歳をこえた今でもポレミックな姿勢を崩さない。簡単には人の意見に同調することのない、この老作家と息子たちの対話が実に愉しい。中心となる話題は、老いつつある作家の一人暮らしだ。心配する二人の子の思いは分かるものの、自分の人生は自分の思うように生きたい老人のこだわりはいつもすれちがう。

    「虚栄」では家族が六十五歳の誕生日を祝うために母親のアパートに集まる。その前に現れた母親は髪をブロンドに染めてドレスアップしていた。家族は驚くが、母親は「ずっとこのままってことではないの」「この人生でもう一度か二度、ひとりの女が見つめられるように見つめられたい」と言う。しかし、帰りの車では、あのまま放っておくと義母は傷つくにちがいない。自分をコントロールできていない、とジョンの妻ノーマは言う。

    実の息子と娘は、母親のすることに驚きはしても批判はしない。批判してやめる母親ではない。ノーマもそれは知っているから、その場では口をはさまない。もともと現実離れした世界で生きてきた人なのだ。「若いときは問題がなかった。でもいまはその現実離れが(略)彼女に追いつきはじめた」とノーマは言う。微妙なのは、あのまま放置しておいて、義母が傷ついた時「その責任が私たちに降りかかってくる」というところだろう。

    「ひとりの女が歳をとると」では、ヘレンがギャラリーを運営するニースに母がやってくる。同じ頃、アメリカにいるジョンも渡仏する。母親は、これには企みがあると考える。案の定、二人は同居を提案する。ニースでもアメリカでもいい。どちらかを選んだらいい、と。もちろん、母親は同意しない。まだまだ一人でやっていける、と。母と娘、母と息子それぞれの間で交わされる会話がいい。作家の脳内対話なのだが、実に生き生きしている。

    子どもたちは母を心配し、同居を考え、それを拒否されると、施設への入居を勧める。放っておくと母親の頭と体はどんどん衰え、最悪の場合、孤独死だ。それを止めるのが子どもの義務だと考えている。が、ジョンとヘレンにとってはそれだけではない。本当に心配なのだ。同居も施設も最良のものを準備しての提案である。第三者的にはこれ以上ないような提案に思える。

    一方、親は遠くで誰の世話にもならず、死にたいと思っている。思いやりは迷惑とまではいわないが、子どもに要らない心配をかけたくない。それに、死ぬまでの間にはやりたいことや考えたいことがまだまだある。子どもとの同居や施設への入所は、その邪魔になるだけだ。体や頭の自由がきく間はそれでいけるだろう。だが衰えは知らぬ間に進んでいる。

    「老女と猫たち」では、母親はスペインの田舎に隠遁している。そこへジョンが訪ねてくる。母の家には露出癖のあるパブロという男が同居している。施設に収容されるところを母が保護を名乗り出たのだ。それに十数匹の猫も。村を出た人々が飼っていた猫を捨て、野良猫となった。村人は野良猫を見つけると撃つか罠で捕らえて溺死させる。それで母が保護している。当然、村人は面白くない。母親は村で孤立している。

    人と動物について、選択と行動等々、哲学的ともいえる会話が母と子の間で交わされる。老いた母は議論で相手を言い負かせたい訳ではない。ただ最後まで自分の生き方を通したいだけなのだ。猫を保護するのは「数が多すぎるという理由で、母親から引き離されて溺死させるような世界に私は生きていたくない」からだ。人間だったらどうなのかという問いがそこにはある。結局ジョンは母を説得できない。

    「老女と猫たち」の内幕をジョンの視点で語るのが「嘘」。ジョンは母が転倒したことを知り、慌てて飛んできたのだ。足腰の弱った母に施設への入所を提案する息子に「本当の真実」を言えと母親は迫るが、息子の口からは言えない。妻になら言える。それで手紙を書く。異国の寒村で痴呆の男に看取られて死ぬかもしれない母親に寄せる息子の切々とした心情が綴られる。親を施設に入れた身として、今はジョンに肩入れして読んでしまうが、そのうち立場が入れ替わるのも承知だ。身につまされる。

    「ガラス張りの食肉処理場」では、いよいよ知力が衰えてきた老作家は息子を頼る。自分のことではない。人間が他の動物を食べるという問題について、考えるための施設を作れないか、という電話だ。それからいくつもの断片的な文書が送られてくる。人間と動物について書かれた本の書評やら、書きかけの作品。中にはダニを馬鹿にするハイデガーが弟子のハンナ・アーレントに対してはダニと同じことをしている、と揶揄する文章まである。もう自分では、まとめることができなくなっていることを自覚して息子に後を託しているのだ。

    明晰で直截的。紛らわしいところや仄めかしを残さない。辛辣さをユーモアで塗したエリザベス・コステロの断簡は、勿論クッツェー自身の手になるもの。大きめの活字でゆったり組まれた組版は、老眼に優しいが、書かれている中身は決して優しくない。しかし、エリザベス・コステロとジョンの思弁的な対話には思わず引き込まれる魅力があり、ナイーヴなテーマを恐れず追究する態度は感動的である。傍らに置いて何度でも読み返し、余白に書き込みを入れたくなる、そんな一冊。未読の『エリザベス・コステロ』も読んでみたくなった。

  • 価値観の多様化した現代で揺らぐモラルを問い直す。
    多くの人が目を逸らしている問題を著者の代弁者と思われるエリザベスが突きつける。
    合理的な思考でそれに対峙する息子は多数派の代表である。

    社会運営のために少数派を切り捨てることは許されるのか。
    マイケルサンデルは社会哲学の世界で倫理の再定義を行っているが、
    クッツエーはそれを文学の世界でやろうとしているのではないか。

  • 英語で書いているのに、アンチ英語メインストリームとして翻訳を最初に出す、それに選ばれたのが日本語とはありがたい。
    年老いた親と息子が登場人物だが、デカルトを語る作家の親が母であるのは良い。古典的には知性は父の担当だから。
    老い、記憶、生と死をめぐる終盤の議論は印象的で、ラストのヒヨコのエピソードがあまりに感動的だ。高齢になったクッツェーの声が聞こえてくる。
    次の「モスクワの誤解」もだが、高齢化社会においていっそう「老人文学」の重要性が高まっていくように感じる。

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