エンカウンター―心とこころのふれあい

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著者 : 國分康孝
  • 誠信書房 (1981年3月10日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784414403091

エンカウンター―心とこころのふれあいの感想・レビュー・書評

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  • 良い本でした。

    ●以下引用

    非構成的グループとは課題もなく、内容も方法も参加者が決めていくグループである。

    構成的グループとはファシリテーターが主導権をとって、課題を与えたりエクササイズをさせたりするグループである

    グループの中で生きるといっても、二通りある。一つは与えられた役割をこなすだけの「あたりさわりのない」生き方をしている者。他は役割に縛られず自分の個性を発揮したいが思うようにできず、絶えず求道者的な者。グループエンカウンターは後者の人たちのものだと思う

    グループエンカウンターは、役割に縛られない自分をこの人生で実現したいと願っている健常者のためのもの。つまり自己発見がねらいである

    したがって、グループエンカウンターとは、人工的・契約的なグループの中で本音の自分を発見し、それに従って生きる練習をする場である

    人間が成長するとは、今まで気づかなかった、気づいていても表現できなかった自分をオープンにしていくプロセスであるという考え方が前提にある

    本来カウンセリングを受けるべき人がエンカウンターに参加すると、心的外傷を受ける危険性が高い

    エンカウンターの体験とは六つである。

    ①自分のホンネを知ること=自己覚知
    洞察は推論や知的ニュアンスが強いが、覚知は、感情に浸りきっている、感情になりきっていること。他人事のようぬ自分をみつけてはいけない。
    →それを経ての②③
    ②自己開示 ※きれいな富士山だなぁ
    ③自己主張 ※ 本を貸してくれないか

    ④他者受容 他者の②③の需要
    ⑤信頼感 ホンネの表現を受け入れてもらえる安心感の体験。信頼感は人から一貫性のあるやさしさを受けとる体験からうまれてくる

    ⑥役割遂行
    ホンネの自己表現をこの現実世界で実現するには、何らかの役割を果たさなければならない。役割が遂行できぬとは、自分が活かされないということになる

    人口移動の激しさ→どこの誰ともわからない人と短期間に親しくなるのでなければ、生きられない。ところが互いに異質の下位文化を背負っているわけであるから、表面上のやさしさに終わってしまうことが多い

    仮にホンネがわかっていても(自己覚知)、それを表現する相手がいないので、慢性の孤独感にとりつかれる。生き甲斐も活力も感じなくなる。これは実存神経症の始まりである。

    グル―プエンカウンターは、束の間の契約された人工的なグル―プではあるが、そこでは、メンバー相互が十年の知己のように本音を表現し合える。本音を表現できるので、自己人の実家(原点)に戻った感じがする

    文化的孤島とは、自己疎外からの脱却の島であり、本音の自分に戻れる島なのである

    子どもが過程に定着して、登校拒否や結婚拒否になるのと同じで、エンカウンターグループに定着して、現実生活に溶け込めなくなると問題である。

    個人主義(自立性の尊重)は甘え欲求からの脱皮が条件になる。ところが個人主義が極端になると、甘え欲求が全く満たされなくなる。相互の甘え合いがなくなる。ということは人生のすべての苦悩・困難を自分ひとりで背負うということである。したがってたえざる孤独感につきまとわれることになる。これはきつい。行き倒れになるか、誰かに甘える(依存)しかない。

    日本もだんだん個人主義が浸透し、甘えが満たされなくなってきたと思う。ゲマインシャフト(共同体)からゲゼルシャフト(機能的集団)になりつつある

    甘えと言うのは決して悪いことではない。甘えとは母子一体感の回復のことである。いつでもどこでも甘えしか求めなくなることが問題なのであって、甘えてもよいときに甘えられるのはむしろ美徳であり、甘えてもよいときに甘えられないのは可愛げがない

    エンカウンターグループの中でしか、満たし得ないとすれば、宗教に逃げ込むのと大同小異である。そこでエンカウンターグループでの体験をいかにして、日常生活に持ち込むか、これが今後の課題である

    エンカウンターは、セラピーやカウンセリングに比べると、同じ集団体験でも手荒いのである。手荒いとは病人扱いしないのである

    グループ・サイコセラピーや、グループカウンセリングでは、焦点は特定の個人に置かれるが、グループ・エンカウンターでは、前述のようにグループそのものに焦点をおいて観察し、補足的に特定個人にも注目するといった方が良い。

    自分のことばかり話す人には、時間を独占するな、自分のことばかり話さず人の話も聴け、君の話は少しもおもしろくない、とストレートに拒否反応を示しても大丈夫である。その方がかえって本人のためにもなる

    神経症や問題をかかえた人は、エゴの強さと、柔軟性に欠けるので、他者からのエンカウンター(ホンネ)を受け止められない。自我が弱いとは、フラストレーションに絶える力が弱いという意味である。つらさに絶える力が弱いので、ストレートに感情をぶつけられると、がまんできなくなる。

    エゴの柔軟性に欠けるとは、一つの反応の仕方しか出来ないという意味である。複数の反応の仕方から、状況に合わせて一つを選ぶという作業ができないのである。通俗的に言えば、「ねばならない」にしばられているのである。講義は寝転んで聴くべきではない、女性は男性に膝枕してはならない、年少者は年長者に敬語を使うべきではないなど、ワンパターンに固執している。

    他者に本音をぶつけるのが苦手である。他者にコンフリクトする勇気がない。それは自己防衛的だからである。自分を守ることに汲々としているので、攻勢に出ることができない。攻勢に出るということは、外界からの攻撃を誘発することになるからである。エンカウンターとは、相互に水を掛け合うことである。水を掛け合うとは、他者の反応を畏れずに、自分のホンネ、自分のストロークを相手に与える勇気をもった者同士のエンカウンターでないと、それにならない。

    エンカウンターとは本音をぶつけあうことである。自分の感じていることを表明することである。

    エンカウンターで感情表明をする場合、これは推論ではない。自分の感じてゐることを言うのであるからまちがいはない。誰が何と言おうと、うれしいことはうれしいのである

    あるがままの自分を抑圧して、他人の気に入るように感じたり考えたり言ったりしているうちに、本当の自分がわからなくなる。自己疎外といわれるものである。あるがままの自分は、その都度のありのままの自分を表現することにによって確認できる。表現することが自己理解になるのである、自分はこういう感情がある、と他人事のように解説するだけでは本当の自分はつかめない

    「今、ここ」という思想は、現象学に起因している。実在するものはわれわれの認知の世界に住んでいるのである。生きるとは「今、ここ」での認知にしたがって行為の選択をすることなのである。それができない人間が不自由人なのである。過去の体験に縛られて、過去の影響から解放させること、これが心理療法である。

    エンカウンターえは、原則として解釈や説明をしない。自分の実感に基づいて動くことが求められる

    八方美人にとどまっている限り、自分のホンネはつかめない。もっともコンフローテーションによってしこりが残ることはある。しかしそのグループはいずれ解散するのであるから、そのあと現実的に不利をこうむることはない

    グループエンカウンターでは、他のメンバーに対して自分はどう感じているかを語る方が主になる。フィードバックされた方は、それが機縁で自己理解も深まり、自己分析・自己改造への意欲も高まる。一方、フィードバックする方はそれによって自分はどんな人間で、人に何を期待しているのかがわかってくる、ましてや同一人物に対して自分と全く異なるフィードバックをする人がいることを知れば、自分がいかにドグマ的で、ゲシュタルト(見方・考え方・受け取り方)が固着しているかに気づくこともある

    相手に対する認知を語ることで、リレーションが深まる。早い話が印象を告げると告げた方も急に親しくなる。相手が自分をどう受け取っているかわかると安心できるからである。安心できるからこちらも自由にものが言いやすい。その印象が仮にネガティブなものでも、やはりリレーションはふかまる。「君、恐いね」と言われた方はそういってくれた人にかえって親近感をもつ。もし相手に沈黙されたら、何を考えているかわからない

    サイコセラピーのクライアントの場合、パーソナリティーに問題がある。幼少期に体験すべきでありながら、体験できなかった何かがある。未解決の問題をもっているということ。おとなの見栄を捨てて、退行しなければならない。したがってセラピーには退行が必要である

    フェローシップとは、父母を通して得た認知の世界以外の世界に触れるということである。それによって認知の世界が広がる。今までつくりえなかったゲシュタルト(見方)が広がる。横の世界の拡大、生活空間の拡大である

    生活空間の拡大とは相互の文化が融合することである。

    メンバーは複数の文化にふれ、これと融合するわけである

    エンカウンターのときには燃えていたのに、なぜそれが続かないか。洞察が足りないからだと思う。感動のままにとどめておいてはいけない。なぜ感動したのかを自分なりに洞察しておかないといけない

    自己覚知だけでなく、自己洞察も必要である

    文化的孤島での自由ではなく、現実社会での自由を獲得するすべを学習することが大切.文化的孤島の名のもとに、現実から遊離することに私は警鐘を鳴らしたい

    上司には本音を言わない方がよいこともある。むかしはノーと言えないのが屈辱的だった。しかし今は違う。ノーと言える。言えるけれども、そういわないだけである。ノーと言いたくても言えないのと、言おうと思うえば言えるけれど、言わないのとでは雲泥の差がある
    →自分がその時点で「どう感じてゐるか」を、覚知することの重要性の示唆

    それまで気づかなった世界を急に全部意識させるのではなく、徐々に気づかせるのである

    まずはオリエンテーション(契約)が大切

    喰わず嫌いということもあるので、特にダメージを与えることはないと判断した場合は、参加をすすめるだけの強さがほしい

    前言をひるがえすような、父権性が必要なときがある

    エンカウンターグループの思い出がひとつの準拠集団としてのその後の人生の原点になるので、現実生活が表層化し自己疎外に陥った時、エンカウンターのときの自分を想起し、ヒューメインな自分に戻る一つのよすがとなる

    職場の問題児になることがある。これはエンカウンターかぶれの結果である。住む文化が異なっても、行動を変えないからである。現実社会はそれではないと認識していないからである

    生きるとは、儀式、活動、ゲーム、じかんつぶし、親密さである、ここでは親密さだけに終始する

    実社会でのすべてを親密さだけで貫くのは不可能。要は各自に生活空間を今までよりも、「親密さ」の支配領域がふえればよいわけである

    自分にはこういう心理あるいは行動様式があると知っただけでは意味がない。知ったらその心理を満たす行動をとらなければならない。
    「自他の感情に気づけ、気づいたらそれを満たすような行動をせよ」

    世の中には、「ノー」と言いたい自分に気づかない人がいる。そこでホンネは「ノー」と言いたいのだと気付、言ってみよ、というのである。言って、人を傷つけるのなら、傷つけないような言い方を工夫せよ、つまり試行錯誤せよというわけである

    自己洞察せずにおれない状況を人工的に作りだすことが重要

    気づいたら、それを変容しなければならないが、そのためには今までの自分の行動以外にもさまざまの行動の仕方があることを知らなければならない。そこで、人の行動を観察し、模倣できるものは模倣した方が良い。独力で新しい行動をクリエイトするにが、さまざまの行動の仕方を見聞きするのがよい。それらをヒントにして、自分独自の方法を考え出せばいい

    行動の変容を願うならば、実際に新しい行動を自分でトライせねばならない。トライしてみて不評を買わなければ、その行動を取り入れればよい。これが試行錯誤である。

    相互に率直にフィードバックすることである

    人の行動を変えようとしないこと。なすべきことは、当人に対する感情表現である。「大きな声で話せ」と言わないで、「君の声は小さいから聞こえない」と言えば良い

    休憩時間も食事も一緒にしようとすう。これは不安の表れである。似た者同士が集まれば不安は軽減する。これを許容していては、耳珠独立の精神が損なわれる

    自分よりも年長者であろうが、言うべきことは言わねばならぬ。気力を要する仕事だ。「まあまあ」主義に陥ってはならぬ。

    ペアリング現象を起こしている場合は、そのことを指摘する

    リーダーには気力が必要。はっきり言うこと。

    役割は与え放しでは熱がこもらないので、、一日一回はこなし方について全員に評価させる。ああした方がいい、こうした方がいいよ、意見を聴くことで、行動範囲の拡大や意識の拡大をはかる

    人のあとについてまわるのは、不安、孤独のため

    受身的ではいけない。生徒や部下は教師や上司に声をかけられることを待ってゐる。自分からは近づくたくても、遠慮していることが多い。そこで教師や上司は積極的にリレーションを求めていく態度が必要

    愛されるのを負担に思い、これを拒否する人がいるがいわゆる可愛げのない人である

    こそういうリスクを背負って、自分を開く勇気がないと、エンカウンターは生じない
    (防御が直ぐにとれない、伝わらないでバカを見ることもある)

    リーダーが奥歯にもののはさまった答え方をしていると、メンバーもその程度の表現しかしなくなる

    人が尻込みしている時に、自らかって出る気概がないと、人との出会いもない。

    子ども心を出すべく時に出すと、人とのリレーションがつきやすい。あなたに恐怖を感じないからである

    相手のことばかり考えず、まずは自分を打ち出す活力をもたねばならない、それが成長の原動力である
    (自己表現と自己主張)

    自分は一体何を言いたいのか、何を感じているのかは表現のプロセスではっきりしてくるものである。わけがわかならなくても、とにかく混沌は混沌のままに表現すれば良い

    なぜノーとかイエスとか、率直に言えないのか。ストレートに表現すると、人に悪く思われるのではないか、という不安があるからである。

    自己主張の能力が乏しいと、温厚、円満とほめてくれるが、八方美人と表する人もいた

    無条件に人を受け入れることが高級な人物だと思っている。あるいはこちらが拒否すれば、相手はいやな感じをもつから、つまりこちらを拒否するから、それが怖くてノーと言えないのか

    人を愛する自由があるのと同じように、人を拒否する自由もある。

    あなたのおっしゃることはわかりますが、私には私の考えがありますので、私のしたいようにしたいです。とやんわり自己主張する

    厚かましいのはよくない、強引なのはよくないという価値観の人がいるが、そういうステレオタイプから脱却しなければならない。淡白でいさぎよいのは、フラストレーションい耐える力が弱く、あるいは自己主張能力が乏しいのである

    義憤すらももたない円満主義者は畏敬の対象にならぬ

    受容とか、非審判的・許容的雰囲気と言う美名のもとに、気骨のない自分を甘やかしてはならない。気骨のある人間が受容するから値打ちがある。義憤を感じない骨抜き人間が、受容したとしても、のれんに腕押しである。歯ごたえがない。人間はやはり波風を立てるべきときには波風を立てるだけの勇気と能力が必要である。

    自己主張は説得、屈服させたい攻撃性がある。分離意識がある。
    自己表現にはない。感情を他者とわかちあおうという欲求がある。共感を求めている。一体感。

    相手の世界を共有するとは、自分の世界を虚しくすることである。捨て去ることである。

    まだことばにしていないことを聞き手が先取りするのが、明確化(ホンネの出ることの手助け)

    人間は自分の原動を是認されると自信をもつ。ケチや無視は自信を失う

    イライラしている自分に気づいたら、頃合いを見計らってそういえばよい

    予期に反して相手がおこるかもしれない。それはやむおえない。そのくらいの勇気がなければ、エンカウンターはできない。失愛恐怖においてエンカウンターは出来ない

    人間は誰でも自己盲点があるので、人に指摘されないと気付かないところがある

    健全な人間とは、事実に基づいた自己概念をもつ人のことである。人の評価を盲信して、「自分は●である」と思いこまないことである。自分の眼であるがままの自己を見つめるということだ

    エンカウンターでは、自分のホンネを表明する勇気をたかく評価する。成長するとは、自己一致の状態になることである。自分のホンネに忠実なことである。機に応じて、自己開示できることである

    当たっていなくても、印象を相互に語り合うことが、リレーションを高める

    信頼感はどうして育つか。甘えるという体験を通してである。まかせるとか、甘えるとかは人間の基本的なホンネである

    模倣の対象が拡大する。「この人のような言い方をすればよいのだ」というのがモデリング、次々とグループが変わるのは、武者修行に出歩くようなもので、師に出会うチャンスである

    自分が仲間から好かれていないことが一目瞭然となった幾人かの課長たちの表情を、私は正視することができなかった

    エクササイズのねらいを言わないのは、操られている感じを与える

    リーダーがグループに浸りきってしまうと、全体の動きがつかめなくなる

    エンカウンターは恥をかくということ

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