カウンセリングの原理

著者 :
  • 誠信書房
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感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784414403404

感想・レビュー・書評

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  • 著者は、「カウンセリング心理学」なるものを標榜しているようだ。

    臨床心理士に敵愾心を燃やしているように思われた。
    (いや、俺も臨床心理士じゃないから、利害関係はないんだけど)。

    サイコ・セラピーはintra-person「個人内」でパーソナリティ変容を目指し、カウンセリングはinter-person「個人間」とか?本当にそう考えているのか?

    「『これだけ一生懸命やっても、一向にラチがあかないのでぼくは情けない』と学生に向かって言った。これが自己開示である。学生は答えた。『そんなに先生が私のために一生懸命して下さっているとは思いませんでした。先生の誠意に応えるためにも私はよくなりたい。すみませんが、もういちど始めからカウンセリングをやり直して下さいませんか』と。」(P.195)

    心優しい学生から、交流分析で言えばACのストロークを引き出している。クライエントが自分を自由に発現するどころか、新たにペルソナを形成しているとしか思えない。言っとくけど、これは転移ではなく逆転移(裏面CP)だ。

    「自己開示できる人とは自己受容している人である。留年した自分(actual self)、死にたくなった自分(actual self)を受容しているからこそ平気で「ぼくも留年したことがある」「私は自殺したくなったことがある」と自己開示できるのである。(P.196)

    カウンセラーからこんな「自己開示」(武勇伝の披瀝?)をされたとして、クライエントが本当にエンパワーされるとでも思っているのか?場合によっては、クライエントに気を遣わせることになる。詰まるところ、迷惑以外の何者でもない。誰のセラピーをしているのだ?

    心底から凍り付くのは、これが「成功例」だと思って記載している点である。いやー、驚いた。

  • カウンセリングと心理療法は異なるという立場を訴えている。用語が違うのだから「同じ」というのはそれなりの説得力が必要だが,この著者は「異なる」というスタンス。カウンセリングの対象は「問題を抱えた健常者」であり,この「問題」は人生の途上で誰もが遭遇し通過する問題であるという。精神疾患の治療を目的とするのがサイコセラピー。結構納得。でも,あんまり区別していない臨床家の方が多いように思う。

    いくつかの文献を素人ながらに読んで分かり始めたことは,「臨床心理士」というのがある種の政治的闘争の中ですったもんだしたということ。本書には「臨床心理士(制度)」への軽い敵意を感じる。


    *****
    これ[スクール・カウンセリング]は一九九五年度から文部省が臨床心理士をスクール・カウンセラーに起用し,とりあえず週二回,公立学校に配属する案を試行して以来,急激に世人の関心を引きつけるようになった。しかし,私の定義では臨床心理学は神経症・人格障害・精神病など「病理的パーソナリティ」が主たる対象であり,カウンセリング心理学は「問題をかかえている健常者,および特に問題をもたない健常者」を主たる対象としている。
     それゆえ,臨床心理学出身の臨床心理士のみをスクール・カウンセラーに起用するのではなく,カウンセリング心理学出身のカウンセラーをもスクール・カウンセラーに起用したほうが生徒のためになる,というのが私の主張である。それゆえ「学校臨床心理士すなわちスクール・カウンセラー」と唱する人びとへの反論の意をこめてスクール・カウンセリングの分野を特にとりあげた。(pp.47-48)

     カウンセリングだけが援助的人間関係ではない。心理療法,ソーシャルワーク,教育,宗教,人事管理も援助的人間関係である。これらは相互に類似しているので,チームを組んで仕事をするときに,相互のテリトリーや機能の相違を認識していないと,競合しあったり介入しあったり,あるいは誰かがするだろうと思って手をぬくことがあり得る。
     たとえば「ロールシャッハ・テストもわからない人間がカウンセラーと称して人の人生に関与すべきではない」という意見がある。私に言わせると,これは心理療法とカウンセリングのテリトリーと機能の相違が識別できていない意見である。
     あるいは「カウンセリングすなわち教育である。教師はすべからくカウンセラーたるべし」と檄をとばす人がいる。私の考えでは,これは教育とカウンセリングの識別があいまいな意見である。
     さらに,こんなこともある。いま学校現場では臨床心理士をスクール・カウンセラーに起用しようとしている。私の考えでは,臨床心理学とカウンセリング心理学とを識別できるように,臨床心理士とカウンセラーも識別し得るものだと思われる。それゆえ,教育問題の解決に臨床心理士が貢献できるためには,臨床心理士,教師,カウンセラーのテリトリーと機能の異同を認識したうえで協力する必要がある。「臨床心理士にまかせようじゃないか」,と教師も教育相談担当者も養護教諭も手を引いた場合どうなるか。そうならないためには,類似のヘルピング・プロフェッションが相互に異同を識別し合う必要がある。(pp.57-58)

    アメリカでは,臨床心理学専攻生は生理学と投影検査法は必須科目であるが,カウンセリング心理学専攻生はキャリア発達に関する科目と文化人類学(または社会学),哲学などが必須科目である(ただし,大学院によって若干の相違はある)。(p.59)

     心理療法家はカウンセリングを知らねばならぬ。なぜなら,患者が治癒して現実原則に復帰する段階ではカウンセリングが必要だからである。一方,カウンセラーは心理療法を知らねばならない。なぜなら,本来,心理療法をすすめるべきクライエントにカウンセリングをすすめて時間と金を失わせないためである。(p.62)

     カウンセリング心理学者も学校心理学者も産業心理学者も,臨床心理士のライセンスがなければ「臨床の素人」とみなす風潮が高まることへの警鐘を乱打したいわけである。
     ことばそのものとことばの意味することを識別せねばならぬ。スクール・カウンセラーということばを用いず,学校臨床心理士という以上はこの両者のちがいを明示できなければならない。同じことをちがうことばで表現しているのであれば,何が同じかを明示せねばならぬ。時代と文化のどさくさにまぎれて,新語を持ち出し言語環境を支配することがあってはならない。(p.205)

  • 「技法」「理論」「原理」の三部作の名著なんだろうが、カウンセリング初心者には、難易度は高い。カウンセリングのフレームワークともいうべき内容。

  • カウンセリング心理学の入門書としても、興味本位の読み物としても面白い本。
    著者の語り口が独特で切れ味が良い。

  • 國分康孝氏の「カウンセリングの○○」シリーズ3部作の最後。
    「カウンセリング心理学入門 (PHP新書) 」も含めると、新しい視点に欠けていたように思うが、カウンセリングの全体像と学問的、実践的存在意義を示したという意味で、集大成と呼ぶにふさわしい。

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