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Amazon.co.jp ・本 (278ページ) / ISBN・EAN: 9784418015214
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土門拳著「拳眼」を読む。
若者で土門拳の写真が「好き」という話は、ほとんど聞いたことがない気がする。どちらかというと「写真に向かう道徳律や訓戒を学び取るべき求道者」という扱われ方をしているように思う。
それはもしかすると高度経済成長期以降の中産階級の崩壊とともに、大衆の「数寄者への憧れ」が薄れているからかもしれない。
写真家には「写真機を扱う職能」と同時に「被写体の本質を見抜いて、最良の撮像を引き出す眼力/作家性」が必要で、そこには必ず専門性、嗜好性が生じる。ファッション、報道、動物、アート、天体、鉄道など、写真家は皆「自分が観たいモノ」を撮る。
土門拳の場合には、その興味の対象は言わずと知れた「古寺」や「古美術」、または老作家や俳優のポートレートにあって、ざっくり言うならばその本質は「被写体に刻まれた年輪を克明に写し取ること」のように思われる。
筑豊や広島を撮って日本のフォトジャーナリズムの黎明期を創ったという側面もあるけれど、報道写真はどちらかというと匿名的で、写真家・土門拳の作家性はやはり、前者にあるのだろう。
自身も古美術を愛好し、銘品を購入しては生活に取り入れる数寄者であったようだ。持ち前のふてぶてしさで考古学者や古美術商、仏門の徒たちと機知を得るなかで、自身の眼の哲学を鍛えていった様が、本書からも読み取れる。
しかし翻って現代、モノの所有への憧れは急速に失われつつあり、公に管理された文化財は別として、個人で骨董を愛でることは、ともすれば卑しい成金趣味とすら解釈される。瀟洒な装飾性を誇る古美術も今では美学的な価値を減じ、投機の対象としての市場価額以上の価値を持ちにくくなってきていると思う。
古寺にしても、その場の精神性を体感しに行くというよりも、そこへ行ったという記録して身にまとうことで、ある種の高踏性を表象する「記号」になりつつあるのは間違いない。
土門拳の愛したモノや物語の価値は、いまや骨抜きにされてしまったのかもしれない。そういう意味では、冒頭に述べた「土門拳の現代における捉えられ方」にも、まぁ納得がいく。
刻まれた年輪を愛でるということは、文化の歴史を学ぶことであって、ひとつの教養として重要なことであるとは思うけれど、産業や社会情勢の変化のスピードが上がるにつれて、そういった余裕すら奪われているのが、市民的実感だろう。
隅から隅までバチバチに喰らいつかせながら、線の一本まで計算されたようなカチカチのの写真には、確かに鬼気迫る凄みを感じるのだが、一方で時代が変われば写真も変わる。
逆に現代のInstagram文化を土門拳ならどう批評しただろうか。もはや批評に値しないとして切り捨てたのだろうか。そのあたりについて少し考えてしまった。 -
土門 拳 / 世界文化社 (2001/11)
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