拳眼

  • 世界文化社 (2001年11月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (278ページ) / ISBN・EAN: 9784418015214

感想・レビュー・書評

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  • 土門拳のいろんなエッセイをギュウ詰めにした1冊。276ページで終わっているけど別に写真60ページくらいあるんで重厚そして濃密。

    まずは生い立ちを記した『私の履歴書』が熱い。幼き頃の悪ガキぶりが微笑ましい。まあそういう人なんだろうなっていうイメージが浮かぶ。文章が素晴らしいんですよ。明快にして鮮烈かつ芳醇、時に物悲しい。修業時代に師匠の撮った顔写真を尖った鉛筆でひたすら修正していたというのがクエスチョンマーク。逆に傷つきそうですが。

    オマケみたいについている高見順とのまるで噛み合わない対談が好き。『風貌』の時にもチクリとやってましたがお互い無理なんでしょうね。それでもなんとか収めようとする高見順に対しほぼほぼ突っぱねる土門拳。やっぱりそういう人なのでしょう。

    勉強になったのは顔写真について。高見順曰く「つまらないしろうとの撮った方が、僕が僕と思っているような顔が出ていて、あなたに撮られると、僕でないような僕がでている。僕が責任もてないような僕がでている」と。対して土門拳「それはあなたに違いないんだから、それはもうだめですよ。高見さん自身が僕はこういうものだと思っていること自体が、すでに非常に片寄っているんですよ。自分の顔が非常にいいとうぬぼれていることは、えてかってなものなんで、そういう反省をすることが実は必要なんですよ。プロは日常的なものよりも、ひねったもの、ちょっと鋭いもの、あたりまえのものでないものが出たのを、ねらうんですよ、それが実は、ご本人があまり知らない面だったわけですよ」

  • 土門拳著「拳眼」を読む。

    若者で土門拳の写真が「好き」という話は、ほとんど聞いたことがない気がする。どちらかというと「写真に向かう道徳律や訓戒を学び取るべき求道者」という扱われ方をしているように思う。

    それはもしかすると高度経済成長期以降の中産階級の崩壊とともに、大衆の「数寄者への憧れ」が薄れているからかもしれない。

    写真家には「写真機を扱う職能」と同時に「被写体の本質を見抜いて、最良の撮像を引き出す眼力/作家性」が必要で、そこには必ず専門性、嗜好性が生じる。ファッション、報道、動物、アート、天体、鉄道など、写真家は皆「自分が観たいモノ」を撮る。

    土門拳の場合には、その興味の対象は言わずと知れた「古寺」や「古美術」、または老作家や俳優のポートレートにあって、ざっくり言うならばその本質は「被写体に刻まれた年輪を克明に写し取ること」のように思われる。

    筑豊や広島を撮って日本のフォトジャーナリズムの黎明期を創ったという側面もあるけれど、報道写真はどちらかというと匿名的で、写真家・土門拳の作家性はやはり、前者にあるのだろう。

    自身も古美術を愛好し、銘品を購入しては生活に取り入れる数寄者であったようだ。持ち前のふてぶてしさで考古学者や古美術商、仏門の徒たちと機知を得るなかで、自身の眼の哲学を鍛えていった様が、本書からも読み取れる。

    しかし翻って現代、モノの所有への憧れは急速に失われつつあり、公に管理された文化財は別として、個人で骨董を愛でることは、ともすれば卑しい成金趣味とすら解釈される。瀟洒な装飾性を誇る古美術も今では美学的な価値を減じ、投機の対象としての市場価額以上の価値を持ちにくくなってきていると思う。

    古寺にしても、その場の精神性を体感しに行くというよりも、そこへ行ったという記録して身にまとうことで、ある種の高踏性を表象する「記号」になりつつあるのは間違いない。

    土門拳の愛したモノや物語の価値は、いまや骨抜きにされてしまったのかもしれない。そういう意味では、冒頭に述べた「土門拳の現代における捉えられ方」にも、まぁ納得がいく。

    刻まれた年輪を愛でるということは、文化の歴史を学ぶことであって、ひとつの教養として重要なことであるとは思うけれど、産業や社会情勢の変化のスピードが上がるにつれて、そういった余裕すら奪われているのが、市民的実感だろう。

    隅から隅までバチバチに喰らいつかせながら、線の一本まで計算されたようなカチカチのの写真には、確かに鬼気迫る凄みを感じるのだが、一方で時代が変われば写真も変わる。

    逆に現代のInstagram文化を土門拳ならどう批評しただろうか。もはや批評に値しないとして切り捨てたのだろうか。そのあたりについて少し考えてしまった。

  • すでにぼくから絵というものを取り去った瞬間から、実は生きて行くべき力の泉を自ら涸らしたというべきであったかもそれない。しかもまだそれに代わる新しい泉は掘りあてていず、鶴嘴を打ち込みべき方向すらも分かっていなかった つまり俳優は、私小説的存在ではない。自分を虚構の他者に置き換えてしまった存在だ 読み応えのする本だった。写真も文章もきらりと光るものがある

  • 土門 拳 / 世界文化社 (2001/11)

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著者プロフィール

1909年、山形県酒田市生まれ。1935年、日本のグラフ・ジャーナリズムを切り拓いた「日本工房」に入って以来、足かけ45年にわたり、「報道写真家」として激動の日本を記録。「絶対非演出の絶対スナップ」を標榜して、徹底的なリアリズム手法で被写体に迫り、『文楽』『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』『風貌』『古寺巡礼』など不朽の名作を数多く残した日本を代表する写真家である。

「2023年 『土門拳の東寺』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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