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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784418112319
感想・レビュー・書評
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大本営発表写真版。国内外の子供たちの写真は笑顔でも胸が痛みます
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SDGs|目標16 平和と公正をすべての人に|
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/57037 -
2019/01/28 図書館で借りる
FRONTと並ぶ,戦時写真雑誌。
ビジュアルがいい。 -
graph
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「永井荷風が日記に記した戦時下の日本と“ささやかな抵抗”とは」
作家・永井荷風が記した日記『断腸亭日乗』。1917年(大正6)から1959年(昭和34)にかけて記されたもので、大正~昭和の激動の時代にある日本の状況がよくわかる資料としても優れたものといわれています。今回は戦時下における荷風の、“ささやかな抵抗”の様子をお届けします。
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※永井荷風(ながい・かふう/1879~1959)……東京生まれの小説家。本名・壮吉、別号を断腸亭主人。一時期慶應大学教授も務め、「三田文学」を主宰する。1952年に文化勲章受章。
『断腸亭日乗』は小説家の永井荷風が、1917年(大正6)から書き始めた日記である。東京の銀座や浅草、さらには私娼街などもこよなく愛した粋人だけに、その多くは浅草の踊り子や食べ物屋、文筆仲間などとの交遊譚で占められているが、その合間合間にさりげなく、それでいて鋭い社会批評が織り交ぜられている。(中略)
昭和14年6月28日付には、純金買い上げ問題が登場する。軍部と政府は、希少金属の「金」資源を“街の鉱山”に求める法律を作ったのである。金に裏打ちされた円でなければ、すでに欧米は物を売ってくれなくなっていたからだ。
「此日浅草辺にて人の噂をきくに、純金強制買上のため掛りの役人二三日前より個別調査に取かかりし由」「一寸八分純金の観音様(浅草の観音さま)は如何するや、名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)も如何と言ふものもありとぞ」
と、この日まではまだ冗談調もうかがえるが、6月30日に町内会の役員が荷風宅にも金品申告書を置いていったことから、急に現実味を帯びてきた。
「余が手元には今のところ金製の物品無し。先考の形見なりし金時計の類(たぐい)は数年前築地の歯科医酒泉氏に託して既に売払ひたり。今は煙管(きせる)一本と煙管筒の口金に金を用ひしものの残れるのみ。浅草への道すがら之を携行き吾妻橋の上より水中に投棄せしに、其儘(そのまま)沈まず引汐(ひきしお)に泛(うか)びて流れ行きぬ」
蒔絵の煙管筒には一句をしたためた。
行春の茶屋に忘れしきせるかな 荷風
~『「写真週報」に見る戦時下の日本』保阪正康(監修)/太平洋戦争研究会(著)より
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この後、荷風は手箱にある煙草入れ金具の裏座に金が使われていることを思い出し、同じく吾妻橋から投げ捨てました。役人の手に渡して幾ばくかのお金に換えるよりも捨て去ったほうがよいと思ったのだそう。その後、誰かが拾ってお金にするなら、それはそれでもかまわない、という内容が日記にしたためられています。
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「戦時中に書かれた、あるジャーナリストの日記」
太平洋戦争中に書かれたジャーナリストの日記に『暗黒日記』というものがあります。書き手はジャーナリストの清沢洌(きよさわ・きよし)。
戦時中は情報局(※)によって執筆を禁じられ、“要注意人物”としてマークされ、身の危険もあった人物です。その彼が日記に戦時下の世相を記しました。今回はその日記の内容とその背景を少しのぞいてみましょう。私たちの知らない日本の姿が、そこにはあります。
※情報局……1940年12月に発足した日本の内閣直属の機関。戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的としていた。
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『暗黒日記』の著者として知られる清沢洌(きよさわ・きよし)は、17歳の1907年(明治40)にアメリカに渡り、清掃夫や邦字紙の記者などをしながら学校に通い、1918年(大正7)に帰国した。そして1920年(大正9)から1929年(昭和4)までは中外商業新報(現在の日本経済新聞)や朝日新聞の記者をしていた。
その朝日時代、清沢の自由主義でリベラルな論調は右翼勢力から攻撃され、退社に追い込まれてしまった。以後は外交問題を得意とするフリーのジャーナリスト、評論家として活躍していた。
しかし日中戦争が始まり、軍部の力が増大するとともに報道・出版ジャーナリズムへの規制が厳しくなる。本来の対米協調外交を主軸に、内政・外交に鋭い評論をする清沢は、当局から“要注意人物”としてマークされだした。
1941年(昭和16)2月26日、情報局は各総合雑誌に執筆禁止者リストを交付した。そこには矢内原忠雄(やないはら・ただお:経済学者、のち東大総長)、馬場恒吾(ばば・つねご:ジャーナリスト、政治家)、田中耕太郎(たなか・こうたろう:裁判官、法学者)、横田喜三郎(よこた・きさぶろう:国際法学者、最高裁長官)といった著名人とともに清沢の名前も載っていた。
その清沢が『暗黒日記』として刊行される日記を書き始めたのは、対米英戦争開始1周年目の1942年12月9日である。日記は「近頃のことを書き残したい気持ちから、また日記を書く」(橋川文三編・ちくま学芸文庫版より。以下同)という書き出しで始まっている。(中略)
こうした硬派のジャーナリストにショックを与える“事件”が起きた。連合艦隊司令長官山本五十六(やまもと・いそろく)大将の戦死である。5月22日に清沢はこう書いている。
「山本五十六大将戦死を、昨日発表さる」「これだけ大きなニュズは近頃なかった。山本は日米戦争に反対だった。海軍次官のかれは、はやる陸軍の対米戦争指導を食い止め、一時は非国民とさえもいわれたものだ。かれは公然陸軍に抗した。しかし一度国策決れば黙して戦うといって、火ぶたを切った。すなわちこの戦争はかれの好まない戦いであった。ゴルフに行く途中バスでの女学生の話しに、かの女の母親はラジオで山本の死を知り御飯を食わなかったと話していた。瞭の話しに、ラジオのアナウンサーが、終わりに泣いた」
この山本大将の戦死に続いて、『暗黒日記』は交遊録の間にアッツ島守備隊の玉砕を書き、独ソ戦が2年目に入ったことを書き、そして8月1日にはイタリアのムッソリーニ政権の崩壊を書いている。
そしてこの日の最後はこう結んでいる。
「朝、鶴見、嶋中(中央公論社社長)とゴルフをやり、成績よからず。予日記をつけつつありというと、嶋中君危ないぞという。中央公論社の出版物を警視庁で持って行ったが、その中に馬場恒吾君や僕のものもありと。予もこの日記をつけながら、そうした危惧を感ぜざるに非ず」
~『「写真週報」に見る戦時下の日本』より
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この『暗黒日記』は、清沢自身がいずれ書きたいと思っていた昭和史のための備忘録として書かれたそうですが、戦後すぐに出版されました。ご存じのとおり、1945年(昭和20年)8月に日本は終戦を迎えますが、その少し前の5月21日、清沢は東京・築地の聖路加病院で急性肺炎により55歳の若さでこの世を去りました。生きていれば戦後の政治や外交に影響を及ぼしたであろう清沢の死を、多くのかたが悼んだそうです。
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