ギーゲリッヒ 夢セミナー

制作 : 田中 康裕 
  • 創元社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784422115603

作品紹介・あらすじ

夢を「外から見る」のではなく「内から見る」。まさにすべてのイメージに魂が宿っているかのように一つひとつのイメージに丁寧に添っていくことで、夢の内側からクライエントの抱えている心理学的な真実に迫ってゆく。既知の事実ではなく、夢のもたらす未知なるもの、驚くべきことをこそ治療に生かそうとする独特のアプローチを、あたたかくも緊張感に満ちたセミナーの全記録によって紹介する。

感想・レビュー・書評

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  • これは、凄い。
    夢とはこのように扱うべきものだったんだ。そう、思わされる。
    電車と塔が自己中心性のモチーフの一つに捉えられている。だから、僕は高いビルのデパートで何かを探していたり、電車を乗り継いでどこかに向かっていたり、いつもしているのかも知れない。そうだったのか。。


    ・夢を内面の表現やパーソナリティの現れとして捉えることの問題点を指摘しておくと、それは夢をすでにわかっているものから捉えることになってしまいがちなことである。つまり夢見手がどのような問題を持っていて、どのようなパーソナリティであるということから、夢を説明し、そこに還元することで終わってしまいがちなのである。あるいは、家族関係や、過去における出来事から夢を説明し、解釈するのも同じような問題をはらんでいる。つまり夢は、せっかく未知の、驚くべきことを治療にもたらそうとしているかもしれないのに、既知の過去のこと、パーソナリティから生じていることになって、何も新しいことを心理療法にもたらさないのである。
    →夢分析というと、過去の経験を自分がどう捉えているかをあぶり出すものというイメージがあった。そうではない方法は個人の経験と乖離しないか?と思うけれど、俄然興味が湧く。

    ・その方法(夢を内側から把握する方法)は、まず否定的に定義できる。つまり夢の中に入るために必要なのは、「外から見ない」「外から見るのを否定する」ということである。たとえば、過去の出来事や、その人の人格特長から夢を解釈しようとすると、夢をその外のものから見ていて、中に入っていないことになる。夢を象徴として見ていくのは、一見すると内在的な見方で、夢の中に入っているようであっても、象徴に当てはめたりするのも、実は象徴体系という外から見ることになってしまっていることがある。

    ・夢というのは、物語として考えられていることが多いかもしれない。つまりあることが時間の流れの中で連続的に展開して、異なるものに変化していくようにである。ユングは、夢に起承転結という劇的構造があると指摘している。しかし夢というのは、何か違うものになっていくのではなくて、実は同じモチーフが繰り返されていることが多い。だから個々のイメージの世界というのは通じ合っていて、個々のイメージに入っていくことで夢の中に入っていけるのである。

    ・もう一つ「内から見る」ということに関連して印象的なのは、本当に個々のイメージを大切にし、しかも物のイメージが大切にされることである。これも本書の中の夢ではないが、たとえば「自分は担架で病人を運んでいる」という夢だと、普通はすぐに担架を持っている自分や、担架の上の病人から出発してしまいがちである。それに対して、担架の象徴から入っていく。つまり担架は一人では持てず、必ず誰かと持たないといけない。だからそれがもう一人の人への架け橋になるというのである。

    ・夢セミナーを通じて、ベテランのセラピストよりも、大学院生たちの場合のほうが、セラピストの特徴が色濃くクライエントの夢に反映しているような印象を受けたのである。つまり未経験者ほど、セラピストの心理的特性が直接的にクライエントの夢に出てくるようなのである。
    このことは、自分が入るとはどういうことなのか、また夢を扱う場合の訓練について、さまざまなことを考えさせられる。ギーゲリッヒが女性性の発展について、最初は具体的な内容を持つ女性性が、器や意識という形式に変化すると述べていることは、夢に対する関わりや訓練についても当てはまるのではないだろうか。つまり最初は夢の具体的内容として現れてくる形で夢の中に入っていたセラピストは、訓練とともに、個々の具体的なイメージではなくて、イメージが現れてくる場所となるように夢に入ることが可能になるのではないだろうか。それこそが夢への内在的なアプローチの目標となるのかもしれない。

    ------ここまでが、監修の河合俊雄による序文。ユング心理学には河合隼雄から入ったのだが、同じ道に進んだ息子の俊雄氏の仕事まで遂に踏み込んで来てしまった。基本的にどのケースも、クライアントの悩みや症例と実際の夢が2、3ケースとして検討される。夢とセットでその詳細な内容の検討を読むと更に深い洞察が得られると思うが、基本的には考えさせられた洞察の部分だけ抜きます。全文書き写さなければいけなくなってしまうので。。
    特に記載がなければ、ギーゲリッヒ本人の発言とします。
    クライエントごとにケースで分けました。その中で2、3の夢に言及されています。------

    ~ケース1~
    ・海に沈んだり、嵐だったり、船が難破したりしたら海はそれ自体でも危険ですが、特に陸地との境界において、海は危険なものになります…。けれども「危険」というのは心理学的な概念とは言えず、自我の概念です。心理学的な概念化をするなら、それは何かを欲する、魂の必要性なのだと私は思います。陸地は安定した精神状態、習慣的な思考法を象徴しています。ものごとの習慣的な対処法やそういったものです。私たちが経つことのできる堅固な大地、信頼できるものです。そしておそらくは、それとは別の、むしろ心理学的な他者である魂の側面を表すものがあります。あらゆるものが魂なのですが、魂の中には、より自我の側面、伝統的な側面があり、そしてそれに加えて、新しい側面があるのです。「夢の私」のもとに訪れることを欲している新しいもの、それがとても危険なあり方をしたこの水なのでしょう。

    ・夢の物語で突然、以前に起こっていたはずの何かが作られることがありますが、もし彼女が車でやって来たということであれば、それは新しいテーマなわけではありません。車。もし彼女が車で来たのであれば、夢は「私は…いた」のではなく、「私は来た」「私はそこへ行った」という形で始まります。そこには意図があって、つまり、彼女はそこに行きたかったのです。このことは、「夢の私」が、陸と海の出会う場所、対立物が一つになるこの場所を切望するように意図されている、ということを意味しています。だから、それは実際には、彼女の、つまり「夢の私」の、そこに赴き、対立物の結合を経験することへの関心なのです。しかし、そこまで来たところで、それが自分にとってはあまりにも大きなものであることがわかります。高い波。あまりにも危険です。「浜辺を歩いていて」…彼女は陸と海の間の水に近づきたいと思ったんですね。

    ・「私はカタログで結婚式に着るウェディングドレスを選んで、その番号を電車の外にいる女の子に伝えなくちゃいけない」。しなくてはいけない。まるで宿題や学校の何かをしなくてはいけない、と言っているようですね。カタログを眺めてどのドレスが一番いいだろうということを想像しているとき、花嫁はとても幸せなものではないかと思うのですが、彼女は「しなくてはいけない」と言う。誰かにそうすることを期待されているような。「ねえ、このカタログを見てよ!素敵でしょう!?」というのではありません。自分自身の欲求というよりも、義務のような感じがしますね。「私はその友達に番号を伝えた」という表現もありえたのに。

    ・ウェディングドレス。日常的なものだけれども、心理学的に、夢のモチーフとしてのウェディングドレスとは何でしょうか?重要なのは、夢のモチーフを普段の日常的な生活の中のものとしては捉えないこと、つまり、魂の現実性の実現として捉えることです。ガウンやドレス、制服を着るということは、そのドレスや制服に伴う職業や役目を受け入れることを意味しています。これは、先ほど言った洗礼ではありませんが、たとえば、妻としてのアイデンティティというような新しいアイデンティティを獲得するための、公の、すなわち、儀礼的な行為です。

    ・桑原:彼女の「私は自分がなにかにしがみついているような感じがする」という言葉について(治療開始時の主訴)、夢ではもっと距離とか分離というイメージがあって、私は彼女が何かにしがみついているという印象を受けませんでした。それに、「何か」というのは何なんだろうと思います。

    ギーゲリッヒ:私もはじめにこれを読んだとき、これはとても重要な言葉だと思いました。なぜなら、この言葉は彼女自身のより深い洞察であるように思えるからです。本当に重要な反省なのですが、ただ、彼女は何にしがみついているのかを言語化することはできていません。私の想像では、彼女がしがみついているのは「1であること(one-ness)」だと思います。「自己中心性(self-centeredness)」自分しかいない。もしそこに他の誰かがいれば、その彼は彼女のスキーマに合わせなくてはいけなくなります。そして、「その手を離す」ということは、「自分を開く」ということを意味しています。他者の存在を受け入れ、認めないといけない。

    ・おとぎ話によく出てくる処女性のイメージに「塔」があります。若い女性がその内側に閉じ込められている。コミュニケーションが存在しない。一つしか中心がありません。もし他者との関係に入っていけば、特にそれが結婚というような親密な関係であれば、そこには二つの中心が存在します。それは矛盾であって、中心があらゆるものに対して中間を持つことになるのです。
    …もし二人の人間がいながら一つしか中心がないならば、それは一方が他方の奴隷になっているか、あるいは他の何らかの方法で一方の中心のもとに包括されてしまっているということを意味しています。「2であること」というのは、とても重要な心理学的問題で、神経症にも非常によく見られます。それは子どもの世界から大人の世界への移行の証です。つまり、子どもは「1」の世界に住んでいるのですが、「二重性」に開かれるというのは大人のしるしなのです。

    ・田中:この夢の中の電車は、塔と同じ役割をしているような印象があります。

    ギーゲリッヒ:素晴らしい!とてもいい観察です。それは同じ閉じ込める働きを持っています。おとぎ話の中での塔は、窓と併せて特別重要なものです。しばしば窓の外に男性が現れ、というの閉じ込められた少女を純潔から解放します。

    河合:もし電車が塔と同じ機能を持っているのだとすれば、なぜ窓の外にいる第三の人物は男性ではなくて女性だったんでしょう。

    ギーゲリッヒ:面白いポイントですね。一つの考え方として、「代役」ということがあります。私が結婚するのではなくて、それを他の人に代理させるのです。彼女は、誰か他の人が実際にそれを行ってくれることを必要としています。「1であること」と「二重性」との関わりで言えば、彼女の中ではすでに他の人と共にいるという「二重性」が作動してはじめており、彼女はそれによってしか、「1であること」を維持できなくなっているということを示唆しているのでしょう。なぜならこの夢の最初から、結婚、婚約者といった「2」の概念が存在しているからです。この設定の中では、彼女は自分自身と電車の外にいる女性を分裂させることによって、はじめて「1であること」を維持できるのです。そして、ウェディングドレスを他の人に代わりに買わせて、彼女は私たちの知らないどこかへ去って行きます。

    ・まさに神経症的です。彼女はすでに「2」ということを知っています。最初の文章で「婚約者」が出てくる時点で、すでに「2」という考えが存在しています。そこから、彼女は「1であること」に戻ろうとしています。それが神経症です。神経症はすでに失ったもの、すでに終わったと知っているものを再建しようとする試みです。もし「2」ということを知らないのであれば、それはただ単に「1」という考えにまだこだわっているというだけのことです。それは神経症ではありません。実際には自分を通り過ぎているにもかかわらずそれにしがみつくことを強く要求する、それが神経症なのです。

    ・彼女にとって大切なことは、自分はコミュニケーションの方法を学びたいと思っている、けれども本当のところでは自分はそんなことを求めてはいない、ということに気づくことです。最終的な結果としてではなく、彼女は自分がそんなことを求めてはいない、ときうことに気づくようになります。一つ目の夢で、彼女は浜辺へ行く、彼女は水と接触したいと思っている、(けれども)彼女は元の場所へ戻る、とあります。彼女は、彼女の中の神経症的な部分がぬれることを欲していないと知っています。彼女が人とのコミュニケーションを学ぶことを欲しているという事実にはそれほど価値はありません。そこに力はないのです。彼女は自分の中のコミュニケーションを取りたくないと思っている部分と繋がらなくてはいけないのです。欲していない、結婚したいとも思っていない、そして最後に、どうして彼女は欲していないのか、それを学んで初めて、この「ない」は、成果となり、開かれた水路となりえます。神経症には常に、自我の願い、自我が欲していることにかかりっきりになっているという基本的な特徴があります。けれども抵抗が存在する場所には、”実際には欲していない”ということがあるのです。どうして彼女が二つになることを欲していないのかを考えることです。どうして彼女は手を離すことができないのか?それは彼女が離したいと思っていないからです。それが神経症の水路です。”私は本当はしたいと思っていない”、それが神経症です。神経症はいつも「私はしたくない」という決心、意志です。

    ・河合:治療の中ではこの抵抗を取り除くのではなく、彼女の抵抗を真剣なものとして扱うことですね。

    ギーゲリッヒ:まさにそのとおり!彼女がコミュニケートしたがっているという幻想が消えるとき、彼女は「そうか、私は本当は人と関わりたいなんて思っていなかったんだ」という考えを受け入れ、それを生きなくてはいけない。そしてそこで、人と関わりたいという彼女の本当の願望が生まれてくる。それは彼女の自我や知的なものではなく、正真正銘の願いです。自分自身の神経症がどこに存在しているのかを見つける手助けをするのは、とても大切なことだと思います。心理治療の主要な目的や仕事は、彼らが考えていること、欲していること、欲していたことを示すことにあります。ただしそれは、自我の願いではありません。それは重要なものではないのです。事実に沿って、あるいはその人の行為に沿っていくことで、その人が本当に欲していることが明らかになります。いつも繰り返す失敗は、その人がこころの本当の深いところでは欲していないことを示しているのです。

    ~ケース2~
    ・櫛は道具というだけではありません。櫛は排泄物あるいは粘土とのある種の対立物です。対立物。とてもきれいに、はっきりと差異化されたものと、未分化なものの集合体です。

    ・家にいるとき、彼女は未分化なうんこや粘土のようなのでしょう。そして、外にいるときには彼女は少し分化されていようと努めます。しかしそこには不均衡が生じます。ただし私はこの不均衡に対して「正しいか間違っているか」という言葉を使うべきではないと思います。心理学は「真の自己」とか「偽の自己」という言葉を使う傾向があります。外側は偽の自己、内側は真の自己というように。けれどもそうではなくて…。
    …こころは、それがそうあるままのものです。彼女はそれを流してしまいたいのだけれど、こころが彼女にそうさせません。こうした不均衡とは、「魂の私」が望むことと、そこで生じていることとの間のものだと私は思っています。それから少なくとも、そこで起こることは、魂が欲していることだと思うのです。しかしながら、はじめにそれを捨ててしまおう、分離させてしまおうと思ったということも、確かに重要だと思います。
    (夢の引用を。現実ではありえない大きさのうんこが出てしまい、それをなぜか手で受けるという夢を見た。粘土みたいな感じなのか、手で持って汚いという感じのものではなかった。たぶん流そうと思ったんでしょうね、洗面所のほうまで持っていくけれど、落としてしまって、げーっ!と思う。ちょうどその下に櫛などが置いてあって、それに付いてしまう。)
    おそらく彼女は自分自身に同一化し過ぎているのです。彼女自身に囚われています。ユングにとって、より高次の治療目的の一つは、自分を自分自身から区別することを学ぶということでした。自分を自分自身から区別するということは、ある意味で自分の外側に立ち、自分自身を振り返るということです。自分自身に同一化することなく、その結果、客観的な事実として自分自身を見つめることができるのです。

    ・ギーゲリッヒ:「鳥が4羽いて」…どんな鳥なんでしょう?わかりますか?(セキセイインコの説明)

    畑中:彼女は、「おばさんが踏みつぶして死んでしまいそうなイメージの鳥だ」と言いました。

    ギーゲリッヒ:けれども、それはこの夢とは何の関係もありませんね。外的な連想です。もちろんこれには彼女の考えていることが表れていて、それはとても攻撃的な考えです。しかしそれは夢の一部ではなく、夢を理解する手助けにはなりません。それは彼女のコンプレックスを理解するには役立つかも知れません。私たちは常に、主観的な連想ではなく、客観的な意味を考えることに専心しなくてはなりません。もちろん客観的な意味というのは、特定の夢に出てくるそれ自身の雰囲気や出来事を伴ったものです。しかしこの夢の中では「踏みつぶす」とかいうことは出てきていませんから、私はそうした連想をこの夢の解釈に持ち込むことは許されるべきではないと思います。

    ~ケース3~
    ・「自分の問題を直視できない」、…まるで何か外的な力によってそうすることを妨げられているかのように聞こえます。もし足がないので走ることができないというなら、それはもっともなことですね。しかし、それが「問題を直視する」ということになればどうでしょう。自分がそうするのなら、そうしたいと思うなら、問題を直視することが出来るはずです。「直視できない」というのは油断のならない表現で、まったく実態に即していません。
    実際には、「私は問題を直視することを恐れている」ということなのではないでしょうか。彼女自身がそうしたくないのです。「できない」のではありません。恐れが非常に強く、その恐れに屈服してしまうために、できないのです。「できない」ということは、本質的な問題のはじまりではありません。本質的な部分は、「私がそうしたくない、そうすることを恐れている」ということです。

    ・ここでもう一つポイントとなるのは、なぜ彼女が従妹と話さないのかということです。彼女は従妹に「こんなことをしてはいけないわ。エレベーターに車で乗りこむなんて失礼じゃない。車を外に停めて、歩いてエレベーターに乗りましょう」と言うこともできたのではないでしょうか。
    このことは、ある種の分裂がそこに生じていることを示しています。彼女は従妹に車に乗ったままエレベーターに乗り込ませ、彼女自身、「私」だけが罪の意識を感じないですむようにしたいのです。

    ・「私は、なぜ従妹の母が言うなと言うのか、なぜ行き先も教えずに知り合いを旅行に誘うのかが不思議だと思う」。
    これはピントがずれた反応ですね。本来、彼女が不思議に思うべきは、”なぜ従妹は母親の言うことに従わなければならないのか”ということではないでしょうか。まったくもって奇妙なことです。母親がどう思うかは重要ではありません。どうして大人の女性が、「母が言うなと言うから言わなかった」などと言うのでしょうか?
    しかし、「夢の私」はその点には触れず、なぜ母親がそんなことを言うのかを問題にしています。つまりこれは、彼女が母親、もっと言えば、権力としての母親に挑戦しようとはしないということを意味しています。彼女は母親の言う通りにするのが正しいことだと考えているのです。

    ・しかし、母性について疑うのは間違いです。そうではなく、母性を後にして立ち去り、忘れなくてはならないのです。なぜなら、それについてあれこれと考えはじめれば、答えのないままにそこにはまり込んでしまうことになるからです。何か問題があるとき、その問題を解決しようとすると、往々にして罠にはまってしまいがちです。このことはとても重要で、そこを後にして前に進まなければならないのです。
    たとえば、「なぜ母は言うなと言ったのか?」「なぜ目的地を言うべきでないと言ったのか?」という問題を解決しようと考えだすと、そのことで母親コンプレックスにはまり込んでしまいます。そうではなく、「わかりました。母親はそうすべきじゃないと言ったけれど、関係ありません。先に行きましょう。私のやり方でやりましょう」と言えばいいのです。
    これは心理療法ではとても大切なことで、多くのクライエントは何らかの終わりのない問題にはまり込んでいます。なぜ彼や彼女がこうしたのか、ああしたのかとずっと問い続けることはできますが、それは重要ではありません。

    ・ここでも「目的」という観念がありませんね。目的があるとしたら、それはおそらく下ることでしょう。それと、これはまた別の考えですが、もし彼女が湯呑を見つけていたとしたら、下ることは終わりのない反復になって、次の坂、次の坂と続き、おそらくどこにも辿り着けなかったでしょう。しかしここでは、失った湯呑のために彼女は引き換えし、失ったものを統合しなければなりません。つまり、湯呑を失ったことを通して、新たなもの、苔と大根が現れるのです。

    ~ケース4~
    ・彼が語ることは、常に彼のこころ、意識の中にあるものですし、ジグソーパズルはすでに出来上がった絵ですね。もし、彼が自分で絵を描いたり箱庭をしたりすれば、より深層から何かを得ることができるかもしれません。ただ夢がありますね。夢は今言った、より深い層からやって来るものですから。

    ・彼はいい友達で、二段ベットで一緒に寝る、とても近しい存在です。その彼が、「僕のお姉ちゃんに腕をけがさせられた」。腕…。腕は行為のためのもので、何かをしたり、あるいは戦ったり、防御したり、他者を攻撃したりもします。彼はけがをする。この夢は、けがについて、つまり、彼のこころの底にある何か傷ついたものについて語っています。しかも、歩いたり動いたりするための足ではなく、それを使って何かを操る腕が、姉によって傷つけられるのです。

    ・さて、彼の大好きな姉が、大好きな友人を傷つけました。それは、おそらく「忠誠心」をめぐる葛藤の存在を意味しているのでしょう。姉に対する感情と友達に対する感情があって、これら二つが今、ある種の葛藤や緊張状態に陥っています。つまり、彼にとって一つの緊張が生じていて、何かがもはや調和した状態にはないということです。

    ・「大きな太った女の人がやって来た。その人は校舎よりも大きい。」化け物です。恐ろしい人です。驚くべきことに、一つ目の夢で魔女という観念が出てきていましたが、ここで登場する大きな太った女性は魔女ではありません。彼女は大きく太っていますが、それは魔法ではありません。魔女は魔法を使いますが、この女性は彼女自身の大きさによって力を行使するのです。彼女は「校舎を潰してしまった」。学校は宇宙なのに(笑)。私の校舎、私の宇宙、私の内的世界、私の個人的な宇宙。これらが大きな太った女性に破壊されるということが意味するのは、彼の内的世界はそこまで強いものではないということなのでしょう。

    ・「パンダの檻の中に入って、パンダをむしゃむしゃ食べた」。驚愕すべき場面ですね。おそらくパンダは生きているテディベアのようなものだったのでしょう。この危険な女性からの逃走において、実際に彼らは子供時代の象徴であるペット、この種の動物を破壊し食べたのでしょう。子ども時代のものを食べるなんてことは普通ありません。イニシエーションや聖なる儀礼では、自分で狩った大きな動物を食べることがありますが、それはその大きな動物の力を得るためです。しかしパンダを食べることは、子ども時代を克服し、彼ら自身の中に統合することだとも考えられます。

    ・(河合)これは9歳の男の子の事例で、この年齢の男の子にふさわしいテーマが夢で展開されている。施設でのセラピーにおいては、ついついその子どもはどのような傷や負荷を成育史において負っているのであろうか、という見方をしてしまいがちであるけれども、夢の示しているのはこの年齢の子どもの健康な発達である。

    ~ケース5~
    ・「人といると孤独を感じる」。これは興味深いことです。古代ローマ人で、「誰かと一緒にいるときほど孤独だったことはない」と書いた人物がいます。他者の前では、文字通り一人でいるときよりも、いっそう強い寂しさを感じることがあります。そして、人といるときに感じる孤独のうちには、”接触したい”という欲求と、同時に”接触することができない”という感覚が同時に存在しています。

    ・それは彼のトリックです。私なら、なぜ彼がセッションのはじめではなく最後にその夢の話をしたのかを尋ねます。それは出会いの即時性を避けるための彼のトリックだと思うからです。次の回では、夢はもうすでに温かくありません。それについてはすでに話してしまったので、今はただ、その夢の細部がどうだったかを述べているだけ、ということになります。彼はその夢について話すのに先立って、まずは詳細を省いて要約だけを話すので、続けて夢について議論することもできなくしてしまいます。彼は彼自身の素材、彼自身の現実に向き合うことを回避しているのです。

    ~ケース6~
    ・「吸血鬼」というファンタジーの心理学とは、どのようなものでしょうか?吸血鬼は死んでいて生命を持っていないので、若い女性の血を必要とします。しかしなぜ少女の血であって、少年や子どものものではないのでしょう?吸血鬼というファンタジーに対する私のファンタジーは、吸血鬼は外界に投影された少女自身の欲望を表しているのではないか、ということです。若い無垢な女性は「私にはエロティックでセクシュアルな欲望があります」とは言いません。その代りに「誰かが私の血を欲している」と言うのです。それは心理学的に翻訳されたもので、現実には「私はこの男性を欲している。けれども私は願望など持っていない。そんなはずがない。私はあまりにも純粋無垢なので、『セクシュアルでエロティックな欲望を持っている』なんて言えない」ということなのです。

    ・彼女は妹たちを救い、「その隙に妹たちを逃がす」。事例の概要でもあったように、彼女は責任を果たそうとしています。彼女は自分自身を逃がすことはしません。「お父さんは吸血鬼なのよ。妹と私、みんなで逃げましょう」とはならず、彼女はこの問題を解決しなければならないと考えていて、そう考えていることがおそらく彼女の問題です。

    ・若者が子ども時代から若い女性への境界に身を置くとき、欲望というのは突然現れるのだろうと思います。子どもはそうした意味で欲望することはなく、欲望はそれ自体で存在します。これは子どもの意識にとってはひとく馴染みのない恐ろしいことです。欲望は脅威として現れますが、実際には自分自身の欲望なのです。しかしそれは、子ども時代の無垢な意識にとっては何かひどい、危険で恐ろしいものとして経験されます。

    ・そしておそらく彼女のケースでは、吸血鬼の物語は典型的なものではありません。なぜなら彼女が先に述べたような戦う人だからです。吸血鬼の物語においては、たいていの場合、少女を救ったり救おうとしたりする別の英雄がいるものです。ここでは、彼女自身が救助する英雄で、ひどく非典型的です。

    →夢の要素の本人との関わりではなく、元型的な世間一般での扱われ方でもなく、夢の文脈の中で何故その位置に配置されたかを丁寧に扱っていることが表れている。

    ・河合:それにしても、自我が印象的です。(今回のセミナーのクライエントで)目的を持った人というのは初めてです。昨日(のケースで)は目的というものがまったくありませんでした。それで、あなたは自我キャラクターと言ったのですね。

    ギーゲリッヒ:ええ。最初の夢と同じく、ここでも強い自我キャラクターが見られます。「職場に着いたとき」…これは、タクシーが目的地に着いたということでもありますね。多くの夢で、どこかに行きたくてもタクシーは来ない、動かない、あるいはタクシーを呼ぶが電話がつながらない、鍵がかかっている、タイヤがパンクする、などということがあったりしますが(笑)、彼女は到着します。
    「同僚三人がやって来て」…同僚もまさに自我の世界、仕事の領域に属しています。「また駅に戻らなくてはならないと言う」。つまり、制止が入って、彼女は仕事へ行くこと、日常の仕事という自我の世界により深く入っていくことを許されず、送り返されます。もちろん、職場から帰らなければならないと同僚が言う理由がよくわからないと思われるでしょう。それには何の説明もありません。しかしおそらくそれは重要ではないのでしょう(重要だとすれば、彼女が同僚に「そうしたくない」と言ったり理由を質問したりすることもできたはずなのに、そうしなかったこと。)。
    それが示しているのは、この夢が彼女に、目標指向性が欲求不満に陥る体験をさせようとしているということだろうと思います。

    ・心理学的な思考において、八つ裂きという概念はどのような文脈にあるのでしょうか(夢でタクシー運転手がばらばらの死体になる)。
    …殺害が重要なのではありません。八つ裂きというのは、日常的な普通の人間であることの終焉と、精霊の世界やデュオニソス的狂乱へのアクセスに関わっています。そのようなアクセスはいつも、何か異なる世界やスピリットとの接触を引き起こすのです。ここに見られるイメージはまさに、われわれがこれまで見てきた自我の終わりを示すものであるように私には思えます。そして、ただ殺されるだけでは自我を取り除いたことにはなりません。そうではなく、自我は変えられたのでしょう。非自我的なスタイルへの変容が起こっているのです。

    河合:彼女の場合は、「意図」という中心的な考えを持っていることが顕著でした。その意味では、八つ裂きはバラバラになり、中心がなくなるということなのだろうと思います。


    ~ケース7~
    ・先ほどの夢の、ガードマンのようなものに注意を向けなければならないと思います。ガードマンを強調し、なぜ彼が陰陽師のほうに行くのか、なぜ危険があるかどうかを自分でチェックしないのか、なぜ彼の守るべき電車を見回らないのか、とガードマンを批判しなければなりません。そのことで、魔術的で神秘的な世界から、出会いに対するごくありふれた恐怖という具体的な世界に移行することを、単に恐れているだけだと彼は意識できるかもしれません。その恐怖は今、特に女性、つまり異性との出会いへの恐怖として現れています。緊張感を経験するのはまったく普通のことです。このように脱神秘化していくことがおそらく私の方略となります。

    ・桑原:この二つの夢の主なモチーフは「死」です。彼はもちろんそれを恐れている、けれども怖いと言うことができない。だから、彼は死ぬことができないのだと思います。奇妙なことでが、彼は何かを液体に変えて、…

    ギーゲリッヒ:そう、彼は死なない。なぜかと言えば、死ぬことは何よりも「そこにいること」を徹底的に要求するからです。

    河合:私は「死」が彼の主な問題ではないと思います。それよりむしろ「そこにいること」だと。しかし彼があたかも死と接触しているかのような、たいそうな話を作ってしまっていることが問題です。

    ギーゲリッヒ:そのとおりです。私は、それは単に恐怖のしるしだと思います。彼は、これほどまでのたいそうな話や神秘的なものを必要としているのです。それは彼の恐怖や無力感を彼自身から隠蔽する手段なのです。
    この二つの夢を見てきて、私は、この人に必要なのは「認める」ということだと思います。自分が恐怖を感じていて、また無力だということを意識的に認めること。そして、何かを怖がるというのは人間にとって普通のことだと理解すること。それは呪いなどではない。想像を絶するものや神秘的なものではない。怖く感じることは起こりうることなのです。そのとき、この恐怖の中できちんと自分の持ち場を守り、逃げないことです。あるいは逃げるとしても文字通りに逃げて、神経症的な防衛をする(笑)。それは少なくとも彼のように「論理的な」逃避よりはずっといいです。
    …自我の不在は、自分が恐怖を感じていると認められないことに示されています。もしあなたが自我としてあるならば、あなたは「そうです、私は恐れています」とか「私には勇気がある」と言うことができます。現実に対してはこのような幅のある反応がありえます。しかし、彼は英雄のようになることもできないし、「僕は恐怖を感じている」と言うこともできない。その代りに「僕は呪われている」と言うのです。そして事態はすっかり神秘的で魔術的なものになってしまい、人間とはどうにも関わることができなくなるのです。

  • ギーゲリッヒ

    P09
     心理療法の方法とは、主体の内面を探り、自己関係によって問題や症状を解決していこうとする。その際に、実体的なものとしては存在しないはずの主体は、何かに映されることで治療的に扱えるようになる。その内面をなにに映し出すかによって、技法や学派が異なってくる。

    P16
     イメージの内容ではなくて、形式の崩れなどに夢セミナーでも注目することがある。これは特に、精神病圏のクライエントについて有効であると思われる。これはイメージの内に入っていき、その意味を明らかにするだけでは十分でない場合の一つの例であろう。逆にユングの「赤の書」のようにん、内容的には奇妙でも、構造的に崩れていないものは、まったく精神病的ではないのである。

    p142
     この開かれた対照性、開かれた敵意を通じて、彼はみずからのコンプレックスを意識に引き上げ、直面し、それに取り組むことができるのです。非常に重要なことは、彼の内にある怒りであり、彼は誰かに対して怒ったということです。(略)彼には、戦うことを通じて関係性に入っていく道があるのです。徹底的に戦った後にだけ、そこに共通の地平を見いだすことができるのでしょう。

    P144
     クライエントから感じる恐怖やこの強い感情からわれわれは自由にならなければならないのです。
     これはシャーマンにも似ています。シャーマンは患者の病を自分自身の中に取り入れ、自分自身の中でそれを克服します。

    P154
     セラピストの自我が人工的に治療するのではなくて、魂のセラピストが働かないと本物の治療にならないのである。これが彼がよく言う「心理学的差異」ということなのである。

    P196
     自我は、「否定」を通して、「いいえ」ということを通して存在を与えられます。なぜなら自我は、他から独立した実体を有するようなものではないからです。(略)自我は実在しません。それは「いいえ」ということを通して人為的に構成されるのです。

     (河合)自我を最終生成物としてとらえる必要はありません。それは「いいえ」と言い、差異を生み出す、絶え間ないパフォーマンスなのです。

    P199 
     自我というのは、世界を知覚して体験する様式なのです。(略)
     この意味では、自我には三つの水準があって、その一つは、私の感情や行動といった個人的な自我。もう一つは、自分が作り出し、自分が誰であるか、なにをしたいのかといった言ったことを示す作業の類。そして三つ目は完全に客体化された、個人的な私とは全く関係がない次元、それが客観的な世界の論理です。そして今、西洋社会では、この自我の論理を越えることが、問題になっています。

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著者プロフィール

(Wolfgang Giëgerich)
一九四二年生まれ。ドイツ連邦共和国ベルリン市在住。米国ニュージャージー州立大学ドイツ文学の教授職を辞して心理学へ転じ、一九七六年よりユング派分析家。二十世紀の東西思想の結節点となったエラノス会議にてくり返し演者を務めるところから始まり、現在までユング思想を牽引し続けている。既刊邦訳に『魂と歴史性』『神話と意識』(いずれも日本評論社)、『魂の論理的生命 心理学の厳密な概念に向けて』『ユングの神経症概念』『仏教的心理学と西洋的心理学』(いずれも創元社)、「抑圧された忘却 アウシュヴィッツといわゆる〈記憶の文化〉」(『ホロコーストから届く声』所収、左右社)などがある。また夢分析論の決定版とも言える『夢と共に作業する』(日本評論社)が近刊予定。

「2023年 『家族のおわり、心のはじまり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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