他者への自由―公共性の哲学としてのリベラリズム (創文社現代自由学芸叢書)

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  • 創文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (266ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784423730911

作品紹介・あらすじ

一方には、リベラリズムの哲学的勝利を謳歌する人々が、他方には、その哲学的挫折を宣告する人々がいる。しかし、両者はリベラリズムの哲学的頽廃を歴史的円熟として祝福する点で、奇妙に一致している。本書は、この「明るい頽廃」に抗してリベラリズムの哲学的再生を図る、現代自由学芸の騎士による挑戦の書である。

感想・レビュー・書評

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  • リベラリズムとは何かについて、著者がその立場を明らかにしたもの。特にマルクシズム、アナーキズム、共同体論との対比の上で、著者自身のリベラリズムの立場に正面から向き合っている。アナーキズムなどはあまり正面切って取り上げられることも少ない。著者は、アナーキズムからその思想的有効性をまず最大限取り出した上で、それに対して批判するという建設的な態度を取っている。

    著者によれば、リベラリズムとは何よりも公共性の哲学である(p.113,117)。著者が本書で主に定位する言葉を使えば、人々の価値観とその公共性にかかっている。人々の価値観は多様であり、何が善い生き方、善き生であるかはそれぞれである。それらは文化や伝統という形であったり、ある種の共同体や、宗教という形で実現されていたりもする。こうした多様の価値観から、どれか一つが覇権を得て強要されるべきだろうか。あるいは、これら価値観は必然的に対立し、覇権を求めて争うものだろうか。興味深いことに、著者は例えばニーチェの力への意志をこうした文脈で読んでいる。自らの善き生に忠実に生きようとし、それに対立する他者からの自由を説くことは、結局他者の支配に至る。自分の価値観からの他者評価では不十分である。ある価値観は公共性を持つものではない。我々には、脱中心化した視点が必要なのである(p.200-211, 224f)。

    ニーチェの力への意志のような展開を防ぐために、放縦な暴力を制御する国家装置が必要だ。もちろん世界経済における多国籍企業や、国際NGOといった非国家的権力もある。だがこうした権力も多かれ少なかれ国家に依存しており、国家を問うことこそ、リベラリズムの構え(p.83)である。しかし国家自体が人々の多様な価値観を抑圧してしまう可能性に配慮しなければならない。ここにリベラリズムとマルクシズムの接点がある。ただ、国家が多様な対立を一元的に抑圧することをリベラリズムは批判する。マルクスの階級的国家論は社会的対立をすべて階級対立に還元する点でリベラリズムからの同じ批判の的となる(p.43-45)。こうした、個人の自由と平等な者たちの公共性という競合する理念対を総合させようとする点で、リベラリズムとアナーキズムは哲学的双生児となっている(p.79f)。だがリベラリズムはアナーキズムと違って、国家の不必要性を説くわけではない。ある一つの価値観の覇権を防ぐために国家は必要とされるが、国家権力自体が一つの価値観の覇権に使われてしまう危険性に留意する。

    しかしそもそも個々人の価値観、善き生の追求はなぜ強制されてはならないのか。これは単なる趣味の問題ではない。それは、こうした善き生の観念が個人の内的な価値に関わっていて、そのアイデンティティの基盤をなしているからだ(p.220)。その人の善き生の追求を否定することは、結局その人そのものを否定することになるからである。例えばサンデルを始めとする共同体論は、善き生の観念を共有する共同体の重要性や復興を目指している。もちろん著者は、共同体論が矮小化したようなリベラリズムの「負荷なき自我」を担いでいるわけではない。著者は、リベラリズムにおいても個人が既に共同体や伝統を担っていることを示しつつも、それと一体化することへの懸念を記す。第一に、共同体論では自由な社会を、各人が伝統や共同体を背景としつつ、公共の事柄(行政的義務や納税を典型例とする)の負担や犠牲を自発的・自主的に引き受けるものとしている。自由とは共同体論では徳としての自由である。しかしこれ程までに自発的・自主的な自我は、結局は共同体の価値観そのものをも問に付すことになるだろう。つまり、同質的な共同体の保全・復興は非現実的である。無理やり重要視して保護しようとすれば結局は何らかの強制力を用いざるをえない。第二に、こうして均一化を目指す共同体は、他の価値観を持つ共同体とから孤立してしまうだろう。ポイントは、同じ価値観を共有する共同体ではなくて、自らはある価値観を担いつつも、他の価値観をいかに尊重できるかにあり、これこそリベラリズムの論点となるものだ(p.192-195)。

    こうしてリベラリズムとは、その名前からすぐに想像されるのとは違い、野放図な自由を謳い上げるものではなくて、むしろ「正義」によって自由を鍛え直す思想(p.196,200)なのである。この文脈で言う正義とは、それぞれの善き生の構想を尊重するものである。自らとは違う価値観を持つ他者を尊重するという意味での正義が、善き生の論争をそもそも可能にし、ある構想を支持しない少数派への抑圧を禁じる。リベラリズムが目指すのは、異なった価値観を認め、それについて考え、その対照によって自らの価値観を鍛え上げ、もって人格の陶冶に寄与する自我である。異なる価値観を持つものたちからなる論争の公共的な場を拓くことにリベラリズムの眼目がある(p.98-117, 143-145)。リベラリズムはこうした多様な価値観を持つものたちの公共的社会に向けて、個々人を陶冶する環境を整えることを支持する。そうして成立する公共的社会こそ、自由な社会なのである。こうしてリベラリズムは、ある一つの価値観に従うことこそ徳であるとする卓越主義(perfectionism)を退けるが、価値観の多様性を認めて、自らの価値観をも問い直せることこそ徳であるとして、メタレベルの卓越主義に訴えているように自分には思える。ラズの卓越主義的リベラリズムに近いものになるのだろうか。

    さてこうして定式化されるリベラリズムについて、自分は概ね賛同できるのだが、一抹の不安も覚える。自らの属する共同体の伝統や文化を背景としつつも、異なる価値観を尊重し、それとの対照によってむしろ自分の価値観を問い直し、ときには共同体の価値観をも批判できるリベラリズムの自我。それを理想に置き、それに資する環境を支持する(例えば教育、言論の自由、等々)というのは確かに重要である。しかし、こうした自我は理想にしてもかなり強い自我ではないか。こうした理想に適わない狭隘な人間は山のようにいる。権利問題と事実問題の対比がここにあるといってもいいが、はたしてあまりにも深遠すぎる理想のようにも思えてくる。こうした理想と、我々の現実をつないでいるものは何だろうか。そこに、リベラリズムの価値観を根付かせるヒントがあるように思われる。

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  • 私が自由であることが許されるのは何故。自由の深さがわかる本。論理的にも感覚的にも説得力をもつ。

  • 私が自由であることが許されるのは何故。
    自由の深さがわかる本。
    論理的にも感覚的にも説得力をもつ。

  • 一方には、リベラリズムの哲学的勝利を謳歌する人々が、他方には、その哲学的挫折を宣告する人々がいる。しかし、両者はリベラリズムの哲学的頽廃を歴史的円熟として祝福する点で、奇妙に一致している。本書は、この「明るい頽廃」に抗してリベラリズムの哲学的再生を図る試みの書。

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著者プロフィール

原理的なリベラリズムの立場に立って、憲法問題から政局まで、鋭く切り込む。1954年生まれ。専攻、法学。東京大学法学部教授。『他者への自由──公共性の哲学としてのリベラリズム』『普遍の再生』『世界正義論』『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください──井上達夫の法哲学入門』『ザ・議論! 「リベラルVS保守」究極対決』(共著、小林よしのり)ほか。

「2017年 『憲法の裏側 明日の日本は……』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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