ホスピタリティ原論―哲学と経済の新設計

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  • 文化科学高等研究院出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (540ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784434117190

作品紹介・あらすじ

21世紀はホスピタリティの時代。20世紀の商品/サービス社会経済にかわる、「資本/場所/ホスピタリティ」の経済と哲学を設計する、「資本の哲学」「場所の経済」「自己の技術」の書。日本人がプラーベートな力をとりもどすために、「社会」にかわる「パブリックな環境」を創出する。

感想・レビュー・書評

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  • ホスピタリティというのは、おそらく身体知のことなのだろうということを思った。他者に対して、身体がどう働くのか、どう動かされるのか、その即興の妙が、ホスピタリティなんでないかなと。「あいだ」に関わる技法だなと思った。そして、その目的には、その人自身がその人自身に「なる」ことを、援助するというものがあると思う、従って、ホスピタリティというのは最終的にはケアリングであり、「存在への配慮:気遣い」なんでないかなということを思った。

    以下引用


    プライベートさに対応していくのがホスピタリティである

    最初のウエイとレスは、わたしの情況にあわせて灰皿を変えていた。後の人は。状況を読むことなく、灰皿を代えるというルールでもって、わたしの状態を無視しておしつけてきた

    お客の情況をつねに考えているのがホスピタリティ、お客の状態にかかわりなくあるきまったことをきちんとするのが、サービス

    サービスは人を窮屈にする、ホスピタリティは人を気持ちよくさせる

    サービスとは、ルールにしたがってすることをするのであって、ルールにはずれたことはしないのだ

    ホスピタリティは、ひとによって全部違ってくる。だいじなことは、相手の個人的な存在そのもの。ホスピタリティはなくても、不満にはならない。なければよし、あれば感動をよぶ

    資本、ホスピタリティの経済は、顧客一人一人に違うことが、為される経済である。サービス経済の観点からは面倒くさい、効率が悪いとなるが、これまでは、高級ホテルがそれを実行してきた。コーヒー、カレー一つの値段が交換市場よりも高くとも、ひとがそれをうけいれるのは、物品だけではなく、ホテルという空間、、、、、

    →この観点からいえば、本来的な経済というのは、その人がその人らしくあるための、もう少し言えばその人になっていくための、手段であり、交換だったのだという事が言えると思う。「その人育てる」行為として、「経済」


    地域やローカルな場は、それだけでは場所ではない。又ニーズがあるのではなく、その場所に住まう人たちが、グローバル化の複雑性において、なにを自分たちの快楽といていくのか、それをモノや情報を組み立てて、つくりだしていくことだ。

    モノが売れなくなっていることでおきているのは、もはや量産の社会づくりをなしてきたフォーディズムやケインズ主義的な消費空間が充足され、あらたなプライベート化の多様性にこたえていく経済が要されている。あらたな次元、地盤に経済がつくられていくことを意味する。ホスピタリティはその基本原理である。金持ちのためだけではなく、それぞれに応じたホスピタリティが作られていくこと、顧客=買い手がつくりだされていくことだ。ここにはいまだなされていない、膨大な経済の場がきりひらかれていきうる。

    社会也、ルールなりが、個に内在されることの重要性である。外部にルールがあって、それに従っているから他者にルールを押し付けることになる。そうではない。ルールは自分のなかに自分をコントロールし規制するように、自己責任において自分にたいして行使していくことだ

    社会を消すこと、とわたしはいったが、それは社会を自己のなかに溶解させることを意味する。規範は自己のなかにおける自己への関係のとりかた、つまり自己技術において使うことである。社会に使われるのではない、社会/サービスを使うことだ。これは、極めて高度な技術である、これが経済そして政治の基本であるということ。社会にホスピタリティはない、あるのはサービスである、パブリックな世界にはホスピタリティがある。


    日本は、社会が個人に内在化され身体化されて自分が無く無くなっている。しかも、それが「社会のため」「人のため」と称して、自分の「しないこと」「できないこと」の正当化に使われ、その実ただ、「不能化した自分」を守っているだけのことになってくる。しかしそうした社会基準は、無知のベールにおおわれているため、たんに無知からの裁定でしかない。なにも、本質がみえないまま、常識であるかのように作用する。

    ジャックデリタは、ホスピタリティが敵を迎え入れる点について強調している。なぜ敵かというと、主人がもっていないもの、「非在」をもちこむため、主人の権威なりパワーを危うくさせるということだ。

    サービスとは<社会技術>であり、ホスピタリティは、<自己技術>であると設定し、その関係技術は、まったく異質であると考えている。

    ホスピタリティは「もてなし」ではない、むしろ《しつらえ》である。人と人との関係が成立しうるために場を<しつらえる>ことだ。モノによって、雰囲気によって、言葉にならぬものによって、「しつらえ」がなされる。つまり、人とモノと場所とが、非分離に成る環境がしつらえられることである。したがってホスピタリティは「コミュニケーション」ではない。ある場の「気」を作り出すことだ。「気に入る」「気が落ち着く」「気がやすまる」場を作り出す。

    「化粧」を「化粧(品)」として、商品や交換の経済を作り上げた。それは、商品世界を作り上げていくという、文化社会的なものをすすめたから、発展したのであって、「商品」をつくったからではない。これが産業という形で高度に発展していくのだが、わたしの言い方だと、明治期の口紅は、資本、正確には文化資本としてはたらいていたが、戦後の産業社会のなかで、たんなる商品=モノになってしまった。二十一世紀の経済はこの二つの異なる局面を同時にかかえている。

    →「ある価値」を実現するために、それが結果として商品になるのか、そもそも貨幣化を目指して商品をつくるのかの違いか


    何が経済を形成してきたか、何を経済は形成してきたのか。経済を何をしていくことなのか。これらが、根源的に問われている。これは近代の枠を超える。

    下駄の履物と靴の履物とでは、物質文化の文化技術がまったくちがう。同じように化粧も、化粧をする人に商品を渡すだけの文化ではなく、化粧という物質文化、あるいは化粧をめぐる美の物質文化、生活文化がある、それは化粧品ではない

    →ある理想的な「生」を具現化していくために、「経済」また、そこでのモノの享受、交換があるということかな。「自己」を生きやすくする行為としてのそれ。

    美を生産するのと、化粧品をつくるのとではまったくちがう。清潔な空間をつくるのと、便器をつくるのではちがう

    ホスピタリティは、間関係における、間アクションである

    非経済に経済がある。効率の経済ならば、そんなことはない。非効率にするからそれができる

    未だに商品の論理、すなわち生産物に対して、消費者は同じ行動をとるので、消費者ニーズはなんであるのか、動向は、と分析すればよいという。

    有名になり、客はたくさん入っているが、もう昔のようなホスピタリティは失われている。料理もどこか、もうまずくなっている。こうしてかつての客が離れている。客とのコンテクストがなくなって、料理の要素のコンテンツだけが給されているにすぎない。つまり、もう場所において、場がなくなっている

    客への対応は、それが置かれてある場所が必ず存在している。その場である場面が必ず展開される

    常に客を見て居なければならない、客をみていない場があまりに多すぎる

    客の小さな挙動に反応して、なにを客が求めているか、寿司を握りながら見ている。スタッフはただ忙しく自分の仕事をしているだけ

    ホスピタリティがなされるには、顧客の文化度が高くならないとありえない、という条件がともなう。サービス世界に満足している人たちもいる、そこにホスピタリティは通用しない

    ホスピタリティは、資本制社会においては極めて高価なものになる

    ホスピタリティは、社会ではありえない、ありえるとしたら、それはもう「社会」ではない、別の場が構成されているということ。ぞれがパブリックな場である、プライベートなものを活かすパブリックな場においてのにホスピタリティがありうる。

    ホスピタリティは、プライベート化にこたえるものである。相手のプライベートさのちがいに、それぞれ対応していく、高度な自己テクノロジーだ。それが、パブリックな場において守られていく、


    それぞれ固有のプライベートな世界をもっているエンドユーザ―に個々別々に対応できる、新しい経済システムの構築が要されている。ホスピタリティ経済が、資本と場所のプライベートさをいかすものとして、つくりだされていくことだ

    ----------------------------------------------
    2021/2再読 以下引用

    ホスピタリティはひとによっいぇ対応がまったく異なっていく。その場で何が起きるかわからない、それに敏速に対応するのがホスピタリティである

    サービスには社会がある、社会の規則・基準が働いてゐる、ホスピタリティには社会がなく、パブリックがある

    お客の個人的な情況をつねに考えているのがホスピタリティ、決まったことをきちんとするのがサービス

    サービスは人を窮屈にする、ホスピタリティは人を気持ちよくさせる

    サービスが、生産者側、提供側に都合がいいものであって、客のためのものではない。ルールにしたがってするのであり、はずれたことはしない

    目的が現実にひっくりかえるのは、現実の物象化

    自律した行為=アクションがなく、決まったパタンしかしない

    サービスは、社会が提供しているもの、社会の規範をなりたたしめているものであり、人と人との関係にあるもんどえはない。人が制度や物事に依存し、無責任になり、自分で考えず、自分でせず、自分が不能になっていく

    ★自分でしていくように押し付けられていくのだ。押し付けられてるのに、自分でしているかのようになっている。(サービスは)

    サービスと社会規範が合体し、人にマイナスな作用をもたらす

    わたしは労働ができない研究の仕事はできる

    ★自分が資本者になることだ、資本家ではない、自分のパワー自分の力能をもっている「資本者」である

    サービスが人を創造性から不能化している

    サービスはすることがみな前もって決まっている、起こりうることが設定されている

    おばあさん疲れているの、席変わってくれる?と自分で言えばよいのだ。こどもははいと、かわってくれるだろう。すべてが自律的になっていると、人間関係はよくなっていく

    ホスピタリティの基本は客を見ること、そしてふさわしい行動をすること、

    社会のあるところに、ホスピタリティはない

    物が売れなくなっていることでおきているのは、もはや量産の社会づくりをなしてきたフォーディズムやケインズ主義的な消費空間が充足され終焉し、あらたなプライベート化の多様性にこたえていく経済が要されている。

    それぞれに応じたホスピタリティがつくられていくこと、顧客=買い手がつくるりだされていくことだ。ここにはいまだなされていない膨大な経済の場が切り開かれていきうる

    社会が個人に内在化され身体化されている。しかもそれが社会のため、人のためと称して、自分のしないこと、できないことの正当化に使われ、不能化した自分をまもっているだけになっている

    みんなで仲良く、平等に、ものごとをすすめていこうという仲間主義に支えられた社会イズムがはびこっている

    これまでの成功を導いてきた社会づくりを守るのか、それとも新たなステージに立つのか

    社会は何よりも先に規則・ルールを決め、それを規範化する、社会とは人を信用しないで、人を監視している世界である

    社会イズムの最大の負の遺産は、プライベートなものの自己喪失である

    自分で判断して片付ければ良いのだ、客が仕事に熱中しているコンテクストをよめば、たずねる必要はない

    知の生産が商品価値にどっぷりとらわれている

    プライベートなものは、そのひとのトータルなライフスタイル。ライフスタイルの消滅が社会生活であった。ソーシャルライフは、社会的な最低賃金の保証、社会福祉の保障において成立している「必要を満たす」生活、これが日本が追求した社会だ

    社会に代わる「パブリック」なものをあらためて創出していかねばならない。社会の消滅なしに、プライベートなものの形成はない

    商品、社会、サービス→資本、場所、ホスピタリティ

    ★★創造的な仕事であればあるほど、その仕事の実態はなかなか見えない。物質的なエビデンスがないか。最後まで物質的なエビデンスがみえないというものが、とくに文化的な仕事にはつきまとう。

    みなが悦んでくれればいい、それだけ。食事がコンビビアルだというのは、古風な家、それが置かれた場所、すべてのしつらえが組み立てられてこそ成り立つ

    ★ホスピタリティは、非自己が非在の場で述語的に働いている環境場所


    他の企業は便器を作っている、ところがイナックスは美の環境をつくってる

    ★物だけではな空間をつくっているということ

    ★商品をつくるのではなく、資本をつくっていくこと、それが何であるのか、化粧品でなく「美」を生産していくこと

    教育は学ぶことそれ自体の世界をつくるのである

    ★ホスピタリティはもてなしではない、むしろ設えである。人と人との関係が成立しうるためん、場をしつらえるのだ。モノによって雰囲気によって、言葉にならぬものによって、しつらえがなされる。人とモノと場所が非分離になる環境がしつらえられることである。したがって、ホスピタリティは、コミュニケーションではない、ある場の「気」をつくりだすことだ。「気に入る」「気が落ち着く」「気が休まる」場をつくりだす

    交換の経済において、「化粧」を、「化粧品」として商品や交換の経済をつくりあげた。それは、文化社会的なものごとをすすめたから発展したのであって、商品をつくったからではない

    ★明治期の口紅は資本、正確には文化資本としてはたらいていたが、戦後の産業社会のなかで、たんなる商品=モノになってしまった

    →コンテクストがよりも、その物単独の一面的な質の高度化ばかりが進み、それに付加価値としての貨幣がついてくるというベクトルに向いてしまったのかなと。

    化粧による美を生産するのと、化粧品をつくるのとではまったくちがう、清潔な空間を作るのと、便器をつくるのとではtがう

    ホスピタリティは計算不可能。

    交換は分離だけれど、ホスピタリティは非分離。交換は非主体的なものを客観化するというベクトルを持つが、ホスピタリティは非客観的なものを述語的に組み立てる

    ★非効率にするから、非経済に経済がある

    ★★ホスピタリティでパブリックな場だけ作り、ソーシャルをなくすと、収拾がつかなくなる。だからソーシャルやサービス面を隠すようにして、隠れた規制条件で与えておいて、ホスピタリティをすると生きてくる。これをどううまくできるのかが決め手。

    ★★ソーシャルをなくすと、ホテル側の人間が客と一緒に戯れてしまう。ソーシャルな規制を入れて、客と一線を画すことではじめて成立する

    →このあたりめちゃくちゃ大事。この線引き誤ると、疲弊するし、経済も成立しない。


    ★社会を消すというのは、社会が個人に内在化されること、個人のコントロール化に置かれることで、外在化させて従うことではないと理解した

    ホスピタリティは見えて、サービスは隠さなければいけない

    その人なりのプライベートな生活総体がホスピタリティビジネスの対象だということだ。それが百人いれば百通りあるというもの。

    ホテル経営ー客数の量を求めてマネージメントし、売り上げUP。一方、集客数を減らしてルームを大きくし、単価をあげる方法。ホスピタリティの質はみえないところまで含んで高めないと見込めない。ホスピタリティをすると、損するというのは、サービス効率から見た評価。全く逆で、儲けはあがるのだ

    述語環境空間をつくりだすことがホスピタリティ

    ホスピタリティは、物体ではない、感覚の領域。

    商品環境と資本環境とは全く異なる。

    ★商品は量産である。資本は一品である。いや資本はモノではない、「関係」である

    のためというのは、自律性がけている

    ホスピタリティ
    1ひとによって個々ちがう
    2非効率的だが合理的
    3直接性
    4一対一の関係行為
    5そのひとに最高の物を
    6なされなくとも不快にならない
    7不等価の関係
    8足るを知る
    9単価コストを高くする
    。。。


    サービスは他者のために物事をなすこと、他者のために自分を捨てて身をつくすこと

    客とのコンテクストがなくなって、料理の要素のコンテンツだけが供されている。もう場がない

    サービス世界に満足している人には、ホスピタリティは通用しない

  • 「哲学の政治 政治の哲学」の次に読んだ本。
    サービスとホスピタリティは違うんだ、ということが明確にわかる。自分はこの本が画期的だと思ったけれども、初めて読んだ人は理解できないかもしれない。
    社会そのものを疑うところから全てが始まる、ということは、悩み・苦しみを感じていなければ理解できないかもしれない。

  • 商売人必読!

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著者プロフィール

新資本経済学会顧問。著書は『甦れ資本経済の力』知の新書001、他多数。

「2022年 『おもてなしとホスピタリティ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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