私たち人間は何千年もの間、生物的、知的、感情的、心理的にプログラミングされてきた。そしてそのプログラムを何度も何度も反復している。
偏見や理想、信念、信仰はあらゆる混乱、不幸、テロ、破壊、とてつもない暴力を超越したものを一考え、観察し、吟味し、発見するのに必要な能力とエネルギーを妨げてしまう。
観察は私たちが自分の偏見や特定の経験、特定の理解に固執している限り妨げられる。
思考は私たちのすべてを束縛している共通の要素。
人間はその人の経験、知識、条件づけに応じて考える。これはつまり私たち人間が思考のネットワークに囚われていることを意味する。
世界全体の混乱を理解するには私たちが生物的、肉体的、精神的、知的にプログラムされてきたことに気づく必要がある。
私たち人間はカトリック、プロテスタント、イタリア人、英国人、スイス人等々であるべくプログラムを組み込まれてきた。何世紀もの間、私たちは特定のことを信じ、信仰心を持ち、一定の儀式、教義に従うようプログラムされてきた。あるいは国家主義者になり、戦争をするようプログラムされてきた。
私たちの脳はコンピューターのようになった。そしてその思考は限定され、能力が減退している。
外側をいかに規制し制限しようと、内なる心理の活動が常に外部を圧倒する。政治的、宗教的、経済的にいかに入念に制度を築こうと、私たちの内なる意識が全面的に秩序立っていない限り、その無秩序は常に外部を圧倒する。
私たちはコンピューターのように自分は個人だと考えるようプログラムされてきた。そしてプログラムされた私たちの脳は、何度も何度も同じことを繰り返す。
個人という観念は幻想であり、錯覚に過ぎない。
例えばクリスチャン、民主主義者、共産主義者、仏教徒、国家主義者としてーつまり、種々様々な偏見のかたまりとしてー見るのであれば、その時には私たちが直面している危機の大きさを理解することは出来ない。
もしある特定のグループに属していたり、あるいはグルに従っていたりするとすれば、それはある一定の行動形態にはまり込んでいることでありプログラムされているということであるから物事をあるがままに見ることはできない。
思考は人間のためになるようなすばらしいことをしてきた一方で、世界に大規模の破壊をももたらしてきた。
私たちは思考の性質と運動の仕方を理解する必要がある。なぜある一定の仕方で考えるのか、なぜ一定の思考形態に固執するのか、なぜ一定の体験に執着するのか、なぜ思考は死の性質を理解しなかったのか、等々を調べる必要がある。
人々はエンジニア、詩人、科学者、主婦、学者、宗教家、グルとしてひたすら訓練されてきた。特定のプログラミングを見てみれば、それを組み込まれた脳がものの見方を制限していることがわかる。
経験が知識を与え、知識から記憶が起こり、記憶から思考が起こり、思考から行動する。人間は経験、知識、記憶、思考、行動のサイクルを繰り返し、その行動からより多くを学ぶ。
知識は時間の一部であるため常に限られている。
限られた性質を持つ思考から起こるどんな行動も限られている。
もし私は日本人だ、ヒンドゥー教徒だなどといてばそれは自己限定となる。そしてその限定が葛藤を引き起こす。なぜなら「私はヒンドゥー教徒だ」ということによって他の教徒と袂を分かってしまうから。
思考は知識の子供であり、それゆえ限られている。かくしてそれによる行動はどんなものであれ限られたものとなり、それゆえ否応無しに葛藤をもたらす。
私たちの意識は幾重もの恐怖、心配、快楽、悲嘆、信念、あらゆる種類の信仰といったものから成っている。そしてその意識の中に愛、慈悲心もまたあり、その慈悲心から全く別種の英知が現れる。
何世紀もの間プログラムされてきた人間の脳が、はたして学ぶことによって全く異なった次元へとただちに変容を遂げうるだろうか?
深い理解はおのずから行為を生む。
私たちは決心、意志の行使によるのではない決心、私たちの内部と外部の世界の全構造と性質とを理解し始めるときに自然に起こるはずの決心をしなければならない地点に至っている。そのような知覚は確固たる決心、行為をもたらす。
思考が様々な宗教を考え出し、作り上げ、そして区別し、それゆえ葛藤を生んできた。
自分の思考の性質、思考の一部である私たちの反応の性質を深く理解しない限り、私たちが何をしようと、どんな行為に出ようと、思考はそうした行為の奥にいて私たちの人生を支配してしまう。
思考から生まれたものではない行為によって、人間はパターンを破ることができる。
現代の世界情勢、世界の破局、テロ、原子爆弾、隣人同士の果てしない競争が人間を滅亡させつつあることを目の当たりにしている真剣な人間が自分は個人ではないという真理を知覚するとき、ある決心が生まれる。
非蓄積的知覚によって初めてパターン、プログラムを打破し、それによってまったく異なる行為(非蓄積的行為)ができる。
グループ意識と手を切るにつれて、その意識全体の中にまったく新しい要素を導入していくことになる。それが「あなたの」意識が変われば人類全体の意識に変革が起こるという意味であり、私たちの人生における真のターニングポイントである。
もし人が自分の特定の経験、意見、判断、偏見にしがみついていれば、そのときには一緒に考えることは不可能となる。
偏見があるとき、英知は拒まれる。あるいは他の誰かに従うなら、英知は拒まれる。いかに気高かろうと、他人に従うことは自分自身の知覚を妨げ、自分自身の観察を拒む。何を行い、何を考えるべきか等々を教えてくれる他人に従っているだけなら、英知は存在しなくなる。なぜならそこには観察がないから。
英知は懐疑、問いを必要とし、他人に感化されないこと、他人の情熱、エネルギーによって左右されないことを要求する。また英知は合理的に言葉で説明されることを理解する能力だけでなく、ある情報が何事についても決して完璧ではありえないことを知ることでもある。
英知とは人間の全体性を理解することー彼の肉体的反応、感情的反応のすべて、知的能力、愛情、苦悩をすべてまとめて理解することーを意味する。そのすべてを一目で知覚し、そして行動することーそれが最高の英知。
何かになろうとしている時、人はただあること(being)を拒んでいる。そこには常に「あるがまま」からの逃避がある。幸福であろうが、思考の投影物としての悟りであろうが、より偉大な知識を身につけることであろうが、いずれもそれは「なりゆく過程」である。「今はこうだが、私はいずれそうなるだろう」。そしてそれは時間を含んでいる。
私たちの文化、宗教的誓いのすべてはいずれも「なれ!」と命じる。この現象は世界中で見受けられる。
誰もが何かになろう、何かであろう、何かを避けようとしている。内面的および外面的に何かになろうとする衝動がある。それが葛藤の原因であると気づかずに。
遠方の誰かに会うには時間がかかる。ところが、この外部と同じ過程が内面にも持ち込まれる。「私はこれだ、私はそれになろう」。思考は時間である。思考と時間は不可分な関係にある。
一定のパターン、一定の規範、一定の慣れ親しんできた脳のパターンのまったく外側にある時間と思考のものではない知覚が葛藤を解決しうる。
記憶なしに観察する。時間や記憶、思考の働きを交えずに見つめ、自分自身や他人について築き上げたイメージを取り払い、あたかも初めて見るかのように見つめる。バラの花を初めて見るかのように。
合理的思考、合理的観察はなお思考の一部であるため限界があるということを認めつつ、論理的で合理的な思考力を使うようにする。
バラなどの花を言葉なしに、何色と言わずに観察する。それをただ見つめる。それは大きな感受性をもたらし、脳の重圧感を打破して、とてつもないバイタリティを与える。明らかに思考と時間に無関係な純粋な知覚があるとき、まったく別種のエネルギーが生じる。