老いはヤケクソ

  • リベラル社 (2025年1月24日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784434351990

作品紹介・あらすじ

100歳を迎えた佐藤愛子先生のインタビュー、佐藤愛子を彩る家族や相棒たちを語ったエッセイ、過去の受賞作の紹介や当時の手記も掲載。「百嫗」という言葉は特権、世間に文句をいう資格がなくなった、庭の桜も立派なおばあさんになりまして、四十代から整体のおかげで医者いらず、真面目に老いていたらやりきれない、自然体で生きるのは楽、こうして座ってりゃ勝手に死んでいくんだろう など、「百嫗(ひゃくおうな)」の老いの日常をヤケクソになって笑って生きる愛子センセイから、「老い」が楽しみになる一冊て?す。

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

老いをユーモアと共に受け入れる姿勢が印象的な一冊で、著者の人生の歩みや周囲の人々との関わりを通じて、老いの意味を再考させられます。100歳を迎えた著者は、自身の経験を語りながら、老いを楽しむことの大切...

感想・レビュー・書評

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  • 随筆春秋の師匠の著作なので購入

    『100歳を迎えた佐藤愛子先生のインタビュー、佐藤愛子を彩る家族や相棒たちを語ったエッセイ、過去の受賞作品を掲載。』

    流石にご自分では書けなかったようで、インタビュー
    転倒されて入院されているとか
    大丈夫でしょうか?

    書かれていることはどこかで聞いた話だけれど
    字が大きくて読みやすい
    お体おいといください

    ≪ 百媼 なるようになれ 気炎はく ≫

  • 2025年1月リベラル社刊。愛子さん最新の語りおろし。101歳の愛子さんの話は面白く、貴重です。

  • 2014年『晩鐘』で「最後の長編小説」と宣言したのち、まだ本を出し続けているのだが。本書は第一部インタビューで心境を語ったのち、以下これまでの著書から引用などで波瀾万丈の前半生をふりかえる。
     戦前の児童文学大家・佐藤紅緑の娘と言っても知らない人が多いだろう、『リンゴの唄』『長崎の鐘』『かわいい位かくれんぼ』『ちいさい秋みつけた』『うれしいひなまつり』の作詞者・詩人サトウハチローの、20歳はなれた妹。

    <i>愛子は大正12年年生まれ(この年、大正関東大震災があった、司馬遼太郎の生年でもある)。乳母と4人の兄とに可愛がられて育った。小学校にあがるとき「行きたくない」とごねるとバアやは「の中にはイヤでもしなければならんことがあるんです」と諭したという。
     長兄ハチローは早稲田をはじめ、8つの中学(旧制)を転々、自由奔放な生活を送りながら詩を作り、23歳のとき詩集を出版、のちに童謡・歌謡曲などの作詞家として活躍。学生時代に手を焼かされた父も遺言では「皇室敬愛の念があって宜しい」と評価した。 </i>

    時代は震災復興の経済的負債や1929〜世界恐慌、社会主義運動(ソヴィエト連邦による“革命輸出”=反政府組織支援、それへの反発≒“階級対立”〜“階級闘争”vs日本的「家」アイデンティティ)によって不穏化

    <blockquote>
     


    </blockquote>

    昭和15年 父・紅緑(満66歳)は小説家を廃業した

    <i> 「今回の原稿はいただきかねます」と編集者に言われて父は憤慨したが、
    武家の出で理知的な母は返された原稿を一読して「あなた、もう引退なすったほうがよろしいです」と断を下したという。戦地報告や戦意高揚文芸をものした作家は敗戦後、「戦争協力者」の汚名を着せられ、実質「文壇追放」の憂き目を見ることもあったようだから、結果的に引退したのは幸いだったといえる。
    </i>

    <b>昭和18年、陸軍の主計将校と見合いで結婚、翌年長男誕生。</b>
    終戦で長野県の婚家に身を寄せたが、夫は軍隊での腸疾患の治療がもとでモルヒネ中毒になっていた。医師である義父にモルヒネ保管に注意するよう促したが聞かれなかった。
    昭和22年、長女が誕生したが、

    <b>昭和24年、紅緑の死をきっかけに別居し実家に戻り離婚した。</b>



    <blockquote> 父の死を看取ってきた私は、人間は死ぬために死を受け容れる覚悟を決めなければならないものだということを知らされた。知らされはしたが、ではどうやって覚悟を決めるかということは考えなかった。私はまだ若く、死は遠方にあったからだ。その上私は生きることに全力を注がねばならなかった。
     …私は不幸な結婚生活から脱出するか、それとも踏み止まって希望のない日々に甘んじるか、その分岐点に立っていたのだ。

     父の死を契機に私は夫のもとを去った。夫の入退院の繰り返しを見兼ねて、祖父母が子供を手許に引き取っている間に家を出たのである。
     私は滅びたくなかった。私はついにこのままでは未来に希望がないと思うようになったのだ。誰にも頼らず、煩わされず、自分ひとりの力で生きようと決心したのである。
     当然、婚家先からは攻撃され、その小さな町の人々は私を非難した。だがそんなものを気にしてはいられなかった。その時から私は他人の目や思わくを気にしていては生きていけないという人生を歩みだしたのである。
     私が選んだ道は「小説を書く」ということだった。といっても私は文学に関心があったわけではない。前々から私の手紙を読む度に父が、「愛子には文才があるなあ」といっていたことを母が思い出して私に勧めただけのことである。</blockquote>

    1951年 別居中の夫と死別

     その前年から、『首都文藝』同人となり十月から月定例会に参加した。二度目の夫・田端麦彦と知り合った。彼は本名篠原省三、毎日新聞学芸部記者であった。
     彼の属していた同人の中のグループ「ロマンの残党」に入った。

    <blockquote> 
     月に一度集会しては書いてきた小説を朗読し、それを皆で批評しあった。その会合は母と暮らしていた世田谷真中の私の家ですることが多かった。母はそれが私の「文学の勉強」になると信じていたから、会合には協力的で、カレーライスなどを作ってもてなした…その会合ではどんな作品も、ほとんど褒められることがなく、いつも痛烈な批評に終止したが、私の作品を褒める人がいないという点で、母は信用したのである。

     グループの中で、誰よりも痛烈に私をこき下ろすのは田畑麦彦だった。私の文章を、水面に浮いている油みたいだ、ギラギラして浮いている、というのだった。そういわれればそうかもしれない、と私は思った。しかしそれではどんな文章を書けばいいのか、私にはわからない。彼らは「我らはなぜ書くか」という問題について議論した。しかし、「なぜ書くか」といわれても、私にはなぜなのかわからない。
    「書きたいから書く?ではなぜ書きたいのか?」
     そういわれても、答えようがない。なにせ私は小説好きでも文学少女でもなかったのだ。
     夫が麻薬中毒にならなければ、小説なんか書こうと思わなかった…私は「ほかにできることがない」から小説を書いて暮らしを立てようと考えただけなのである。小説とは「お話」を書けばいいとだけ思っていた。二、三年もすれば、すぐに職業化できると安気に考えていたのだ。
    </blockquote>


    1956年 田畑麦彦(本名・篠原省三)と再婚

    1962年 田畑『嬰ヘ短調』で文藝賞受賞
          同年、妻愛子とともに産業教育教材販売会社『日本ソノサービスセンター』を設立 
          その関連で「日本ソノフィルム」「エスプリ企画」の代表取締役社長も務める

    1963年 『ソクラテスの妻』、『二人の女』が連続で芥川賞候補になる
    <blockquote>
     …きっかけに私は「悪妻の見本」として婦人雑誌などから短文の注文が来たりして、子供のおやつ代くらいにはなる収入があるようになった。
    …(やがて)マスコミに乗りたいと思ったわけでなかったが、なにぶんにも手許不如意のため断れず、情けないことに悪妻、男性攻撃がメシの種になった</blockquote>

    1965年 『加納大尉夫人』が直木賞候補になる

    <blockquote>
    夫の帰りは毎日遅い。いったい何をしているのか、午前二時か三時頃、ヘトヘトになって帰ってくると、ズボンから疲れた脚を引き抜き、そのまま寝てしまう。朝起きると昨夜のままの形で脱いであるズボンに脚を入れて引き上げ、そのまま穿いて出て行く。ズボンの筋がのなくなっているので、会社では「シームレス」と渾名がついていた。
     おそらく妻である私の配慮のなさが非難悪口の的になっていたことだろうが、私は必死で原稿を書いていたのである。
    </blockquote>

    1967年 夫の会社が倒産、負債総額2億円

    1968年 偽装離婚

    <i> </i>



    1969年 倒産後の修羅場を描いた『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞
          (翌年、映画化)
     債権者は、「稼ぐチカラのある」彼女の方に来た。離婚した夫の負債を返すため小説や雑文を書きまくり、舌鋒鋭く社会を批判。

    <i> </i>


     偽装離婚のつもりが別に女を作っていた。

    <blockquote>
     私は別れた夫がつくった借金の返済のために、かなりの時間と労力を費やしましたけど、後悔なんてしていないし、相手のことも一切恨んでいません。間の抜けたことをしたなとは思いますけど、その程度です。

     やっぱり戦争に負けてからじゃないですか、自分の欲を前面に出してはばからなくなったのは…いまはないでしょ、神棚も仏壇も。そうすると目に見えるお金がいちばん大事になるのでしょうね。

    </blockquote>




     必要のない別れた夫の負債を返すため小説やルポタージュや雑文を書き続け、舌鋒鋭く社会を批判し父・佐藤紅緑の一族のことを大河小説に書いてきた佐藤愛子は令和6年11月、101歳となった。波瀾万丈の人生の99歳で帯状疱疹を患って、「もうおしまい」と言いつつ書き続けてきたが、100歳超えて文章にまとめるチカラがなくなった。「年を取ることは、もはやヤケクソ」
     もうインタビューで答えるぐらいしかできないが、孫の杉山桃子さんによるとインタビューの用意をしたり、話のやり取りをするのは実に楽しそう。/耳が聞こえないから音楽も楽しめない、今の若い人は声が小さくて早口だから聞き取れない。週刊誌も「印刷が薄いので」読めないという。

    <blockquote>
     人の魂は死後も残るのか?さあ、どうでしょう。霊能者の人はいろいろなことをいいますけど、死んだあとのことは私にはわかりません。死んだらそれで終わりでいいんじゃないですか。
     
     死に方を自分で選ぼうなんていうのは贅沢ですよ。戦争で散った若い人のことを思うと、自分がこんな死に方をしたいと考えることすら申し訳ない気がします。

    </blockquote>

    <i>著者は「ヤケクソとは文字通り“焼けた糞”です」と、戦後の焼け野原となったかつての大都市東京を想起する。ヤケクソは自棄糞とも表記し“自暴自棄な行動をとること”を意味する。昭和2年 </i>

  • すごい人生で尊敬に値する。二度の離婚を経験し、子どもと離れ、次には大きな借金まで背負い、がむしゃらに生きてきた作者。今からまでいろんなエッセイで楽しませてもらった。

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著者プロフィール

大正12年、大阪生まれ。甲南高等女学校卒業。昭和44年、『戦いすんで日が暮れて』で第六十一回直木賞を受賞。昭和54年、『幸福の絵』で第十八回女流文学賞を受賞。平成12年、『血脈』の完成により第四十八回菊池寛賞、平成27年、『晩鐘』で第二十五回紫式部文学賞を受賞。平成29年4月、旭日小綬章を授章。近著に、『こんな老い方もある』『こんな生き方もある』(角川新書)、『破れかぶれの幸福』(青志社)、『犬たちへの詫び状』(PHP研究所)、『九十歳。何がめでたい』(小学館)などがある。

「2018年 『新版 加納大尉夫人 』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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