ヒトはいかにしてことばを獲得したか (認知科学のフロンティア)

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  • Amazon.co.jp ・本 (225ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784469213331

作品紹介・あらすじ

サルからヒトへの進化の過程で、ことばはどのようにして誕生したのか?発達過程で子どもたちはどのようにしてことばを身につけるのか?これら言語研究のコアとなる難題について、サル学、子ども学のエキスパートである生物学者と脳とこころとの関係からことばを研究してきた認知科学者が検討を加える。

感想・レビュー・書評

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  • 辻先生の本を読みたかった。

    目的が一貫していて心地いいです。

  • 猿系以外に明るく無いのが残念、個人的には良書

  • 2013 8/1 1章のみパワー・ブラウジング。同志社大学今出川図書館で借りた。
    図書・図書館史の授業用に手にとった本。
    ことばの成立にはこの授業ではあまり深入りしたくないが、さりとて文字の前提として触れないわけにもいくまいと思って、いろいろ探す中で手にとった一冊。

    霊長類研究者の正高信男と、認知科学・言語学者の辻幸夫による対談。
    おもしろいはおもしろそうだが、ちょっと意図していたの(歴史的な話)とは外れている感じ。
    まあそういうこともある。本書の問題ではなく自分の側の問題。

  • 神経科学、霊長類学の研究者、正高信男氏と、
    認知科学、言語心理学の研究者、辻幸夫氏が
    「言語」をテーマに対談する。

    言語の研究というのは面白いもので、
    「言語学」という枠組みを前提として語りだすと
    それは構造分析みたいな方向に進みがち。
    いっぽうで、「コミュニケーション」ととらえると、
    生物学などの自然科学のフィールドに入っていく。

    本書は、この2人の専門家の研究分野がうまくズレており、
    そして個性も違う。
    そこから生まれてくる対談が、実に面白い。

    「予定調和」などではまるでない。
    文章化された語り口は穏やかながら、
    実際は見えない火花も飛んでいたんじゃないか(笑)、っていうくらいの
    議論の白熱も感じられる。

    とはいえ、あまりにも方向が違っていては議論は成立しないのだが、
    本書の2人の場合は、そこは「認知科学と神経科学」がしっかりと
    橋渡しをしてくれている。

    ちょっと余談。
    私はいわゆる「文系」型だったけれど、
    生物学、認知科学を学んでからは、
    いわゆる「構造主義」みたいなものがまるで無根拠だと知って
    大嫌いになった(笑)。
    以来、ヒトのふるまいに関する研究に関しては、
    どれくらい自然科学の知見の適切な引用がなされているかを
    細かくチェックするようになったのだが、
    本書に関してはそこはパーフェクトといってよい。


    本書は面白い話がたくさん詰まっているのだが、
    私がとくに気に入った話をメモっておくと。

    ・生成文法について

    チョムスキー以来の生成文法の考え方について、
    ナマの生物の専門家の正高氏は
    「アームチェア学問(生物の実態を見ていない)」と
    ボロクソに批判する(笑)。
    確かに、ダーウィン以来の進化論が明らかにしてきた中では、
    「生物の進化はとにかく有り合わせ、ツギハギだらけで
     進んできて、適したものが残ってきた」
    という事実が明らかなわけで、
    そうなってくると「普遍文法の生得性」を過剰信奉するのは
    よく考えるとおかしいな、と気づかされた。
    (ディーコンによる「チョムスキーの逆立ち」という批判)

    そもそも生成文法がどういうパラダイムで出てきたかといえば、
    「ヒトの言語は全て後天的なものである」という
    構成主義、さらに言ってしまえば社会主義的なもの、
    ピンカーが「ブランク・スレート」というような認識論に対する
    批判の文脈だったように思われる。
    ヒトは生まれもった力があり、その自由は規制されるものではない。
    それをアカデミックに支える根拠として、生成文法は広く支持
    された、と考えることができる。
    社会主義に対する自由主義というべきか。

    とはいえ、近年の神経科学、認知科学の急速な進歩の中で、
    「ヒトの頭の中で何が起きているか」が、かつてよりはるかによく
    分かるようになってきた。
    その結果として、「生成文法」も結局あるパラダイムの産物でしょう、
    ということが、見えつつあるという状況なのだと私は思う。
    本書に書かれるとおり「生成文法へのこだわり」もまた、
    古いパラダイムへのしがみつきなのだろう。


    ・聾と盲について

    私はヒトの言語能力を考えるようになってから、
    「聾の人、盲の人はどうやって言語習得するのか?」
    ということがずっと疑問だったのだが、
    なかなかそれに答えてくれる本が読めていなかった。

    本書では、これについてかなり詳しく語ってくれている。

    実に面白いことに、聾の人が手話を乳児の頃から覚え、
    使うようになっているときには脳の聴覚連合野で
    言語処理がされているという(p.126)。
    他方、盲の人が点字を読むときには、視覚野が刺激されているという
    (定藤規弘の研究)。

    これはつまり、ヒトの脳の機能分化の考え方というものは、
    あくまでその機能というのは研究者が研究しやすいように
    分類して作ったものであり、これもまた一種のパラダイムの
    産物なのだ、と私は感じた。
    本書で述べられているが、言語はきわめて「リズム的」なものだ。
    少なくとも、生まれた瞬間からヒトの赤ちゃんが猛烈な
    速度で学習をはじめる「母語」については、とことんこれが
    リズムのあるものとして、脳に刻み込まれていく。
    生きていくうえで、もっとも使いこなさなくてはいけないナニカと
    それこそ本能は知っているから、信じられない速度で
    習得できるのだろう。

    で、聾の人の場合には、言語が手話である場合には、
    音声言語と同じように脳が学んでいく…リズム的なものとして、
    ということになる。

    盲の人の場合には、音声リズムとして習得することは健常者と
    まったく変わらないが、
    書き表す文字を視覚で認識して、言語に結びつけるという
    プロセスには至らない。
    だがそれは視覚野が機能していないという意味ではまるでなくて、
    点字という文字を読むときにはそれが視覚野で処理される。
    そして言語に結びつく。

    要するに、やっぱり上述したとおり、生物の進化は有り合わせの連続だから、
    言語・文字というものも、それが生存や快に貢献するスグレモノとして
    脳の中の各パートがそれをせっせと「専門家でもないのに」処理させられている
    といえるのかもしれない。
    ドーキンスは利己的な遺伝子といったが、まさに脳の中身たちも、
    遺伝子さんのせいで、数百万年前と違う労働をさせられているのだろう(笑)。

    ちょっとズレる、いやあまりズレない話かもしれないが、
    私は本書を読んで、「速読」が成立しうる科学的理由を掴めた気がした。
    巷には、速読教習本があふれている。
    「これで勉強が、仕事が10倍進む!」という魅力的キャッチフレーズとともに。

    多くの人は、そもそも速読なるものを信じないだろう。
    なぜなら、文字を黙読する際に、どうしても心の中で音読してしまうことが
    当たり前になっているからだ。
    これは、私たちの祖先が言語を使いだし、ある時期から文字も使いだし、
    その組み合わせが当然疑うべきでもなんでもないものとなった時から、
    不可避な運命だったのだろう。
    そこを疑われては、文明の発展、文化の継承が成り立たないからだ。

    しかし、進化学や神経科学が急速に明らかにしていることは、
    言語や文字は人間がその高い適応性で使いこなしているだけで、
    生得的に附与されているものじゃない、ということだ。
    それを理解すれば、音声としての言語と、文字を分離することも理解できる。

    よって、速読は成立しうるわけである。
    視覚野からの文字情報をリズムとして受け取り、音声変換することなく、
    脳のどこか(詳しくは知らない)がそれを処理していくのだ。

    私もかつては速読なんてウソだろうと思い込んでいたが、
    この1~2年、なんとかその先入観を封じながら少しずつトライしていたら
    なんとなくできるようになっていた(もちろん条件はいろいろあるのだが)。
    このたび、その理由を自然科学的に納得することができて、満足した。


    ・ミラーニューロンと身振りについて

    p.29から数ページにわたり、イタリアのリゾラッティらが
    発見したミラーニューロンをどう人のふるまいや言語に関連付けられるかが
    語られる。
    ちょうど最近ミラーニューロンの本を2冊(リゾラッティとイアコボーニ)
    読んだところだったので、とても興味深かった。
    それらの本では「ミラーニューロンはこんなのです!」とは言っていたが、
    実際現実に私がイメージされるような使われ方としての理解には
    まだ至っていなかったからだ。

    正高氏は、ミラーニューロンが身振りをマネして、
    感情の追体験…共感を支えることによって、
    そこに言語的なものの基盤が据えられているのでは、と語る
    (というふうに私は読み取った)。
    これは、とても納得いく話だ。

    現実生活の場面を取り出してみれば良く分かる。

    ビジネス本でもしょっちゅう語られるテーマではあるが(笑)、
    メールのコミュニケーションは感情的誤解を招きやすいといわれる。
    だから、電話するとか、可能なら会って話せ、とかのアドバイスするわけだ。

    これもミラーニューロンと言語という点を考えれば筋が通っている。
    姿をナマで見ている上での共感能力が言語の基盤にあるならば、
    前提条件の「姿のウォッチ」を取り外してしまったら、言語が「暴走」
    し始めるのは、道理ではないか。
    電話なら、姿は見えないが、息遣いとかトーンとかの「文字情報以上」の
    ノンヴァーヴァルな情報が増えるから、誤解は減る。
    ナマで会って話せば、間違いない
    (まぁ、話によっては暴力手段に繋がってしまう危険もあろうが)。

    人類の歴史をひも解いてみると、
    遠隔情報通信手段としては、
    まずノロシだとかの光を使った手段があったはずだ。
    しかし、これは相互のルールを事前に決めておいてはじめて機能したわけで、
    自由なコミュニケーションとはいいづらい。

    言語が使えるようになると、伝令がさかんになったはずだ。そして書状に進む。
    でも、これも相互の行き来には時間も手間もかかるから、
    リアルタイムなものじゃない。

    となるとやっぱり、19世紀の電話の誕生が革命的ということになる。
    遠隔リアルタイムコミュニケーション(音声言語による)が可能となった。

    そして20世紀にコンピュータが誕生し、世界に普及し、
    インターネットのおかげで、
    便利なリアルタイム・コミュニケーション(文字による)がスタンダードになった。
    だが、これは進化に立ち戻れば分かるように、こんなもん使いこなせるように
    人類はできていない(笑)。
    そりゃー、いろいろと難しいのは当たり前なのだ。

    テレビ電話、映像、こういうものは、その困難さを補うべく技術の進歩と
    普及が進んでいる。
    それもまた、納得できる話。
    ヒトは「伝えたい、理解されたい」という願いが根源にある
    (そうじゃないと、集団の生きものとして生存してこられなかっただろうから)。
    それの発露の不十分さは、不満となり、発明の原点となっていくわけだ。

    というわけで、いろいろなコミュニケーション・ツールがこれからも
    たくさん作られて、普及したり、しなかったりするだろうが、
    生物のしくみとして考えれば、これはまったくうなずける展望であろう。


    ・動物とのコミュニケーションについて

    たくさんの動物をナマで接してきた正高氏は
    「競馬のサラブレッドは、競馬場に入ると自分が一番人気かどうかわかります」
    という。
    まじかよ! と一瞬思うけれど、
    これはトンデモでもなんでもなく、本当にそうなんだろうなと私は考えた。

    もちろん、ウマが馬券の仕組みを知っているわけはないが、
    ヒトを一緒に暮らし、生きる上での利害に繋がってくる重要な生きものだと
    いうことは分かっているはずだ。
    なぜなら、そうじゃなきゃ生き残れないというか、それが成り立つから
    今日までの長きにわたるヒトと動物の共存の歴史が築けているわけだ。
    ウマ以外だと、イヌも重要であろう。

    私はかつて、動物(ペットなど)に話しかける人を見て
    「意味ないのに何をやっているんだろう」
    と、まるで理解不能な人々だと考えていた。
    だが、それは私の「ずさんな合理主義」の産物でしかなかった、ということを
    最近、自然科学を学ぶようになって痛感しているところであった。

    本書で語られていることは、要するに
    言語はコミュニケーションの変容形態のなにがしかである、
    ということなので、そのコミュニケーションの本質に光を当ててみれば、
    イヌに話しかける人というのは、というよりも、
    人に話しかけられたイヌがそこに生物的利得を感じ取っているならば、
    ワーオ、それは立派なコミュニケーションなわけです。

    ちょっとズレるが。
    世の中にはぶっとんでいる人もいて、植物に話しかけたり、
    水に話しかけたり、もうそうなってくるとさすがに…と思ったりもするが、
    では私たちが神社で神様にお願いするのはどういうことなのだ? という
    疑問と実はまったく同じことであると気づいた。
    これは、コミュニケーションの受け手の問題ではなくて、
    完全に送り手の問題ということだ。
    すなわち、
    私たちの心が勝手に受け手を創り出して、そこに情報を届かせようと
    している、ということ。そういう傾向にあるのは、ごく自然だということだ。

    だから、水に話しかける行為に対して、私はそれをしたいとは思わないけれど(笑)、
    その行為の生物学的背景は十分に理解しうるものなのである。

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    というわけで、研究者の対談本というのは
    はじめてちゃんと読んだような気もするが、
    面白いものだなーと思った。
    もちろん、対談本には最初に触れたように
    予定調和なものとか、かみ合ってないものとか、嘘くさいものとか、
    そりゃピンキリでしょうが、
    優れた議論がなされていれば、そこから読者が考えられる
    道筋というものは、一般の本(読者への単方向)よりも
    広いのではないかと思った次第である。

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著者プロフィール

大阪生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。米国立衛生研究所、独マックス・プランク精神医学研究所などを経て、現在は京都大学霊長類研究所教授。著書に『コミュ障 動物性を失った人類』(ブルーバックス)『音楽を愛でるサル』(中公新書)など多数。

「2017年 『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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