頭巾かぶって五十年 文楽に生きて

  • 淡交社 (1991年1月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784473012005

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  • 2024年に亡くなった文楽の人形遣い、三代目吉田簑助の自伝。1991年の刊行。

    吉田簑助は昭和8(1933)年生まれ、ちょうど『一の糸』[ https://booklog.jp/item/1/4309418880 ]の三味線弾きのひとつ下の世代。前半では、文楽座消失(p64)や戦後の分裂時代など、小説で描かれた時代がリアルに語られる。
    三和会・因会の分裂は昭和23(1948)~昭和38(1963
    )年の15年間。松竹と袂を分かった三和会の技芸員は、劇場探しや荷物運び、宿確保の苦労。キャバレーへの出演など苦労したそう。
    当時の簑助師はまだ17歳やそこらだが、人手不足ゆえに三和会時代には年齢不相応な良い役を貰えたとも振り返る(p119)。こういう時代のあったことが、かえってその次の世代の成長を促したのかもしれない。
    後半は芸談。

    細々した豆知識。
    ・吉田文五郎のやっていたお茶屋「文の屋」に住み込み。「トイレに常設の管から湯の出る装置(p34)」のある商売(!)。
    ・三越の店員さんの符牒で、食堂や食事のことを「キザエモン」と呼ぶ(p87)

  • 人形遣い吉田簑助の五十年    -2008.04.14記

    ‘02年に歿した文楽の4代目竹本越路大夫は生前「修業は一生では足りなかった、二生欲しい」と語ったそうな。
    じんと胸に響く佳い言葉だ。しかし、これも我執が嵩じ過ぎると果ては代襲制度へと行き着くようで自戒が必要だろう。
    もうずいぶん前に出版されたものだが、文楽人形遣いの人間国宝である三代目吉田簑助の自伝的芸談「頭巾かぶって五十年」-91年、淡交社刊-を読むと、なお手厚いとは言えぬまでも伝統芸能として今日のような国の保護政策を受けるまでの、戦前.戦中から戦後の困難な時代に、人形浄瑠璃がどのように生き延びてきたかがさまざま偲ばれておもしろい。
    歌舞伎にせよ浄瑠璃にせよ、大矢竹次郎率いる松竹が大スポンサーとして君臨してきたからこそ、その困難な時代を生き延びてこられたのには違いないのだが、敗戦後の混乱の時代、労働三法が成立する民主化運動の風潮のなか、映画.演劇関係者においても労働組合が結成されるにおよんで、様相はずいぶんと変化していく。
    人形浄瑠璃においても、1948-S23-年5月、日本映画演劇労働組合大阪支部文楽座分会が結成され、全員参加が建て前で当初は関係者の殆どが組合員となったが、これが松竹側からの懐柔や干渉もあって、ただちに分裂の憂き目をみることとなる。
    2代目桐竹紋十郎率いる組合派は三和-ミツワ-会、豊竹山城少掾や3代目吉田文五郎を中心とした松竹派は因-チナミ-会とそれぞれ称したというが、この分裂劇、スポンサーであった大松竹に逆らった組合派の三和会は、その後の15年を自主公演活動で全国を旅して廻るという辛酸を舐める。三越が救いの手を差しのべて東京.大阪の三越劇場へと定期的な公演をもつようになるのもこの頃だ。
    簑助は、松竹側-因会-に残った父紋太郎とは離れて、師事していた紋十郎に随き多難の道を選ばざるを得なかった。戦後もかなり遠くなった高度成長期の63-S38-年、三和会と因会は恩讐を超えて大同合流し、財団法人文楽協会が誕生することとなるが、やむにやまれず方向を違えた15年間の不幸が、互の燃焼、切磋琢磨をもたらし、却って人形浄瑠璃の伝統芸能としての芸の力を鍛え、貯め込んだともいえるかもしれない。

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