「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機

著者 :
  • ダイヤモンド社
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レビュー : 66
  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784478006832

作品紹介・あらすじ

当事者でもないのに、なぜこれほど居丈高になれるのか?不安や恐怖、憎悪だけを共有しながら、この国は集団化を加速させていく-。取り返しのつかない事態を避けるため、今何ができるのか。

感想・レビュー・書評

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  • タイトルが印象的で、そのテーマについて掘り下げた本であると思い購入したのだが、実際は幅広いテーマで雑誌に掲載されたショートエッセイをまとめたもので、ああ違ったのね、という感想を持った。タイトルの『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』は、当事者ではないものが、被害者遺族の思いを共有できると考えること自体が不遜だというのが、著者の考えを示したものだ。

    一方、このタイトルは、遺族の神聖化を通して、遺族の心情を害するかもしれない言動や行為を「不謹慎」だとする空気の支配によって、なされるべきことがなされないメディアへの批判でもある。つまり本書は、マスコミ批判の書である。メディアというものが提示できるのはどこまでいっても「事実」ではなく「視点」でしかない、ということに対して自覚的であれとの主張で一貫している。テレビ上がりのドキュメンタリ作家として、マスコミの言葉というものに敏感であり、それが透明でないことを肌感覚として知っているのだ。対象に切り込む時の躊躇がないため「エッセイ集」と呼ぶとイメージが違ってくるのかもしれない。ここで挙げられた問題提起に対しては、真摯に向かうべきことのように思う。

    著者の森達也は、オウムのドキュメンタリ『A』を撮った監督だ。恥ずかしながら、途中までそのことを知らずに読んでいた。本書では、オウムについては少しだけ触れられているが、他に震災報道や裁判員制度、死刑制度などの社会的問題から、スリッパのしまい方や書類の押印、ネクタイの着用など日常の違和への考察を通して「制度」への無自覚な行動が批判的に論じられる。その意味でも無自覚性への批判が、この本を貫く主題であるとも言える。もちろんそれは「視点」をずらすことにより得られる見解でもある。

    著者はネットでうすらサヨク、平和ボケとしてネットでは批判されているらしい。しかし、そのように定義されるであろうものから著者は遠く離れている。著者はネットにあふれる、「他人ごとであることについて無責任に言い放つ」ことに対する無自覚さと不寛容さに対して強い嫌悪ともどかしさを感じているのだ。著者は、少なくとも拉致問題の蓮池さんや、オウム事件の永岡さんと直接会って話を聞いている。

    クマバチの例(実は毒をもたない)から始めているが、本書に通低する主題を最初に提示する上で非常によくできた話だ。著者にだって先入観はあり、そのことについて著者も反省することもあるという姿勢を著すとともに、反省してその事実を明らかにすることを厭わない姿勢こそが著者のポリシーであり、世間やマスコミに抱く違和感の源泉であるのだ。そして、多くの「クマバチ」が世の中にはあるのだ。

    第5章「そして共同体は暴走する」で、ポーランドのイエドヴァブネの話が取上げられていたのには軽く驚いた。ナチスではなくポーランドの地元住民によって行われたユダヤ系住民の虐殺。この地名は、高橋源一郎の『銀河鉄道の彼方に』にも隠された地名として出てくる。実はNHKスペシャルでも取り上げられたことがあるというのを初めて知った。アイヒマンの話を好んで持ち出す著者の目には、ナチス以降も同じような暴走の危険性が世界には溢れているように見えるのだろう。イエドヴァブネという地名については、アウシュビッツと同じように記憶しておくべき地名なのかもしれない。
    著者が引用するナチスの台頭を許すこととなったドイツの詩人ニーメラーの詩は印象に残る。

    「視点」を持つことと同時にそれに自覚的でかつ他の視点があることを知っていること、それはたとえ行動に直接に表現されないとしても大切だ。それはわれわれが持つべき「謙虚さ」であろう。

    ------
    本書の中のあるエッセイでも拉致問題が取り上げられている。この本を読み終わったあたりの時期に、横山めぐみさんの両親が北朝鮮に渡り、めぐみさんの娘(つまり孫)に会って帰ってきた。それを聞いて、めぐみさんはこれで本当に生きている可能性はないということなんだなと思った。なぜなら、孫に会うということは生存に関する話を両親がしてしまう可能性があるにも関わらず、許可をしたということではないかと思ったからだ。もちろんそれも可能性の問題だ。しかし、報道ではそういった可能性に触れることはほとんどなかったと思う。「死んでいる可能性」に触れることもなぜかタブーになっているようだ。「これからも拉致被害者の帰国に向けての活動が....」と言われるのだ。やはり、この国のテレビはおかしい。

  •  Amazonレビューがものすごいことになっててギョッとしたのでこっちに。しかし本書で森に批判されている様な人達がご本人登場とばかり、文章にもなってない罵詈雑言を競って書き殴っているこの現状が、森の指摘が妥当であった事の証左であると再度気付かされる、と同時に、こういう挑発的なタイトルでそういった人達を呼び寄せる森のいやらしさも再確認w 
     左派にはむしろ冷笑性が求められる故にそれに近い物を持っている森にはやはり「左巻き」「偽善者ぶりやがって」などといった罵声が飛ぶが、森は左翼というよりは良くも悪くも天邪鬼だと思う。仮に今の日本におけるこの集団アノミーがなくなり左翼が勢いづく時代が来た時においても、その左翼に対しても彼は「いや、ちょっと待てよ」と水を差し、噛み付くことだろう。そういうどの時代、どの場所においても「なんだコイツ、空気読めないしうぜえ」と大勢に思わせるところが森達也の面白さだし、そういう党派性ではなくまた「右でも左でもない中立」でもない第三の在り方を提示しようとしているのだと思う。個人的には彼の発言には二、三どうしても相容れない所があり今は読者としても離れてしまったが、文庫版も出るらしく、また美しい日本の人々の美しい「和」を乱し、不愉快にさせ、怒らせる森の語りを振り返って読んでみるのもいいかなと思いつつ、彼にはいつまでもこの「いやらしさ」を保っていてほしいと思った。

  • こういう多面的にものを見て考えることのできる人の意見を読むのは面白い。必ずしも結論を出せる問題でないものに思考停止で「正論」を振り回す人こそ目を通すべき。その「正論」は自分の価値観だけに基づいているだけではないか? 尤もそのような人は例えこの手の本を手にとったとしても拒絶反応を起こして結局思考停止を固めるだけになるのが常だが…。

  • 最近は、森さんの書かれるものを読むと、ああ、また火の中の栗を拾ってるなあと思う。そして、いったいいつ頃から、こういう発言をするのにやけどをする覚悟がいるようになったのだろうか、とも。

    死刑制度、領土問題、北朝鮮、厳罰化、オウムについてなどなど。森さんの言っていることはとても説得力があり、全面的に賛成とは思わなくとも、傾聴に値する。自分はどう判断するのか、考える機会をあたえてくれる。日頃マスコミを通じて大量に流される情報を、いかに無自覚に受け取っているか気づかされて、反省する。

    自分の気に入らない人(有名無名にかかわらず)を、読むのもイヤになるような汚い言葉で罵倒したり、プライバシーを暴露したりすることが、当たり前のように行われるようになってしまい、危うそうなことは言わないに限るという空気がどんどん広がっていると思う。新聞の投書欄から住所を突き止められて嫌がらせをされることまで起こっている。

    いやだなあと思うニュースには事欠かないけれど、ストーカーに殺された女子高生が死後にまで徹底的に蹂躙されたこと、ヘイトスピーチデモが拡散していること、この二つには何と言っていいかわからない激しい憤りを感じた。おそらくその多くは普通の生活を送っているであろう市井の人が、ここまで品性下劣になれるのか。山の中に「新しい村」でも作りたくなる。

    まあ、そういうわけにはいかないから、せめてものこと、自分で考える。そして、情けなくなるほどささやかなことではあるけれど、お互いを尊重する関係を身の回りで作っていく。これだって結構難しかったりするのだ。いやほんとに情けないけれど。

    本書を読むと、著者の森さんをはじめ、バッシングや葛藤にめげず、行動し発言する人が必ずいるということも、またよくわかる。心に残って離れないのは、大阪在住であるノルウェー人の女性のメールだ。2011年に起きた銃乱射事件でこの小さな国は大きく揺れた。それでもノルウェー社会は、厳罰化に転換することなく、寛容な姿勢を貫いている。事件の翌日、犯人の母親が事件現場に花を手向けに来たとき、遺族たちは静かに献花を見守ったそうだ。罵声を浴びせる人などなかったという。これが日本なら…、と思わずにはいられない。

  • 見えにくいから、見ようとする。聴こえにくいから、聴こうとする。分からないから、考える。自ら取る行動のひとつだったとは。そんな一歩の無い、ものすごくスムーズで分かりやすくするテレビ・メディア。メディア。悲劇も喜劇も日常。

    163頁〜引用、
    ベトナム戦争において米軍が敗退した最大の理由は、国内外に高まる反戦の世相に抗しきれなくなったからだ。そのきっかけの一つは、そもそもの戦争介入が米軍の謀略によって始まったことを暴くペンタゴン・ペッパーズの存在やソンミ村事件などの実態を、メディアがスクープしたからだ。

    ところが存在しない大量破壊兵器を大義として始まったイラク戦争に対しては、なぜか世相に火がつかない。こうぞうはべとなむせんそうとほぼ同じなのに、イラク戦争に対しては、メディアを、受容する人たちの意識が喚起されない。

    その理由の一つは、メディアの質の変化にあると僕は考えている。ベトナム戦争の時代の戦争報道の主流はスティール写真だった。一秒の何百分の一。しかもモノクロがほとんどだ。つまり欠陥したメディア。ところが今の戦争報道の主流はビデオ。情報量はスティール写真とは比べものにならないくらいに増大したのに、人の心は喚起されない。揺り動かされない。(中略)表現の本質は欠陥にある。
    メディアは徹頭徹尾足し算だ。

    310頁
    かけてもいい、国家に救われた命より殺された命のほうがはるかに多い

    316頁
    透明人間にペンキをかければそのアウトラインは浮かび上がる。国家とはそのようなものだ。実体はない。でも前提するからには実体があると信じなければならない。だから色とりどりのペンキをかけて、法令や政治や統治や憲法や人権や刑罰や軍隊や税金などの輪郭を浮かび上がらせねばならない。
    前提でありファンタジーでもあるのだから、その内実は「思われる」ことによって具体化する。

    317頁
    私にとって国というのは、そこに暮らす人たちのできるだけ多数の幸福を実現するためのしすてむであってほしいと思っています。たとえるなら国はマンションの管理組合、政治家は管理組合の理事のようなものです。人は何かに帰属しないと生きていけないとしても、マンションの管理組合に帰属することで自己のアイデンティティを確立する人などいないはずです。乱暴かもしれませんが、国なんて本来その程度のものなのではないかなと思わなくもないです。

    350頁
    殺されるかもしれないとの恐怖はすさまじい。そして殺すときの良心の負荷もすさまじい。心を壊さないことには殺せない。そもそも語りたくないことに加え、壊れているから記憶が定着しない。だから語りたくても語れない。なぜ人が人に対してこれほどに残虐なことができるのか。その理由がどうしてもわからない。
    こうして加害の記憶は途絶え、被害ばかりが語り継がれる。だから戦争の実相がわからない。加害の記憶を思い出さないことには、憎悪と報復の連鎖は止まらない。

    351頁
    「もしもまた同じような状況になったら絵鳩さんはどうしますか」との質問に対して、ゆっくりとマイクを手にした絵鳩は、「私はまた、同じようにするでしょう」と言った。
    「皆さんもそうです。それが戦争です」
    辛そうだった。苦しそうだった。でも絵鳩はごまかさない。決して隠さない。…

  • 色んな人が読めばいいのに、と思います。

  • 森達也の言ってることに概ね賛成。
    しかし、ノルウェーが厳罰化しないことは、宗教的基盤もあるのではないかな。日本人は因果応報という考えが根強いから、殺したのならそれ相応の報いを受けるべき、と思うだろう。だから、こういうことって、法学者やジャーナリストだけでなく、他の学者なんかも交えて日本人全員がもっと真剣に考えるべきだと思う。
    ネット右翼みたいな人たちより、森達也の方が勉強し、取材し、真剣に考えていることは間違いないわけだから、反対の考えの人こそ読んでみるべき本だと思う。
    確かに、当事者じゃないから冷静に考えられるってことはあるわけだし、当事者の気持ちは当事者にしか理解できないとも思う。
    それにしても、吉田茂は立派なことを言っている。孫に聞かせてやりたいね。

  • 今漠然と感じていた問題意識と内容がかなりリンク。
    定期的に読み返したい。
    また厳罰化と全く逆の政策を取っているノルウェーに興味津々。
    フィンランドにノルウェー、やっぱり北欧に行ってみたい

  • 発売された当時に購入して、その時は途中までしか読めなくて、でも大事なことが書いてありそうだったからずっと持っていた本。
    最近、世の中のことや、人の心と社会の動きのつながりのようなものが気になりはじめていて、その考えを深めてくれそうだなと思いもう一度手にとった。
    今度は、最後まで一気に読んでしまった。
    森さんがこの本を上梓したときから、世の中はますます共同幻想的な傾向が強くなっていると思う。
    実態のない恐怖にみんなが怯えていて、そのこころが解きほぐされなければ、みんな優しくなれない。

  • 「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのかと叫ぶ人に訊きたい」は、この本の中でたくさん提起されているトピックの一つで、副題の「正義という共同幻想かもたらす本当の危機」のほうがこの本を貫くテーマとしてわかりやすい。
    著者の考え、立ち位置はいろんなテーマで私と逆だ、もしディベートしたら相手方になる人だと感じたけれど、その理由、どうしてそうなのかを読むと一理あるなあ、島を変えちゃいそうと思うことが多かった。「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのかと叫ぶ人に訊きたい」を含め、興味深いトピックは多かったけど、いかにも連載していたものをまとめました感があって、蛇足では?と感じるトピックもあった。読んでてちょっと中弛みしたけど、分かりやすいことはよいばかりではないのだなと気付きがあってとてもよかった。

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著者プロフィール

森 達也(もり・たつや) 1956年、広島県生まれ。ディレクターとして、テレビ・ドキュメンタリー作品を多く製作。98年オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画『A』を公開、ベルリン映画祭に正式招待され、海外でも高い評価を受ける。2001年映画『A2』を公開し、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞する。11年『A3』(上下巻、集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞を受賞。現在は映像・活字双方から独自世界を構築している。16年に映画『FAKE』、19年に映画『i-新聞記者ドキュメント-』で話題を博す。著書に『死刑』(角川文庫)、『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(ダイヤモンド社)、『ニュースの深き欲望』(朝日新書)、『虐殺のスイッチ』(出版芸術社)など多数。

「2020年 『定点観測 新型コロナウイルスと日本社会 2020年前半』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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