ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質

  • ダイヤモンド社
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レビュー : 160
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784478008881

作品紹介・あらすじ

未来予測を切って捨て、経済学とファイナンス理論を根底から揺さぶり、ベル型カーブでは扱えない不確実性の核心に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • さっぽろ図書館本。実践では問題から本へたどりつけても逆に本からは問題へはたどりつけない。予測なんて所詮出来ないのだから学者やらエコノミスト、政治評論家、CEOその他専門家のもっともらしい話には疑いを持てと。本書を出し直後のリーマンショックを当てたらしい。

  • 『喉がかれるまで何度でも言おう。社会科学で仮説の命運を握るのは伝染するかどうかだ。正しいかどうかじゃない。

    ガウス流で修行を積んだファイナンスの教授たちがビジネススクールとMBAの授業を占拠して、アメリカだけでも毎年10万人近い学生を、片っ端からインチキポートフォリオ理論で洗脳して世の中にばら撒いていると、私は後になって知った。実証的な観察結果をいくら積み重ねても伝染病は止められない。』

    (上)でブラック・スワンの概念を説明しきってしまっているので、あとはおまけの感じかな。でも、一つ一つ、私たちが依拠する判断の根拠を解体して行く知的論考は面白い。
    素晴らしい作品。素晴らしいけど、これを読み終わったら、いつも通りの日常に戻ってしまうんだろうなぁ〜。

  • 上巻では僕らのものの見方の狭さ、不確実性に対する認識の歪みを暑かった本書ですが、下巻では主に「科学的」と言われさまざな場所に顔を出す、ガウス分布の濫用を批判する。
    ガウス分布はあくまで「月並みの国」、つまり大きなばらつきが起こりえないデータにのみ有効なもの。それにも関わらず多くの「果ての国」においてガウス分布が謝って利用され、その「有意性」が「証明」されている。

    ここで描かれていることはデータを真摯に見ると、出てくる疑問ばかり。「実はガウス分布=正規分布ってそんな信用できない」、そうわかれば結構楽になる。
    「ないよりマシ」より、ちゃんと分析できる人間になろう、数字に責任を持とう。責任を放棄したガウス分布はやめよう、と思いました。不確実な世界で、確実なものなんて少ないんですよね。
    数字の意味、単位の意味を理解する上で、実は金融の人たちよりも、僕と同じような工学系の実務者にもぜひ読んで欲しい、と思いました。不確実性を、スッキリしない数字を、受け入れましょう。果ての世界はそういうものだから。

  • 賢い人が書いたっていうかんじ。最後の方の表?の人物像は参考になる。面白かった。あと数回は読もうと思う。あと思うことは結局のところ知識の積み重ね?。経験から、それを説明した本や論文はないかなーと探して論理づける。これかな?

  • 数学、統計学、行動経済学、哲学等のあらゆる分野の初歩に関して、不確実性とは何かが書かれている良書だ。この世で予測不能なことは起こるのだが起こっても慌てずに何を意味しているかそこから学んでいく姿勢が大事と教えてくれる本だ。運は準備を怠らない者に味方する、バタフライ効果、アンカリング、予測のおかげで進化をだまくらかせる、ランダム性、ロングテイル、ガウスのベル型カーブ、フラクタル、マンデルブロのべき乗測、自己相似性、等を統計的に考えてみること、現実として考えてみる柔軟性が大事だと感じた。

  • 下巻は、哲学などを引用したり、上巻の話を蒸し返したり進むも、その冗長さに挫折したことを思い出しながら読み進むと、未来予測の意味の無さ、それゆえの果ての国での不確実性を説く。また、欧州での失敗の許容度が低いのに対して米国の失敗の許容度の高さを絶賛する共に、我が日本はボラティリィ(変動幅)がとても小さいが、大きな損失が出るリスクのある戦略をとり、大きな損失を出した人が自殺すると指摘している。
    失敗しても問題無い(恥はかくけど)範囲でボラティリィの大きな不確実性にチャレンジして幸運を引き寄せるのが成功の秘訣との結論。
    それにしても日本への言及は耳が痛い、製品やサービスをリリースする際、日本人は完璧を求めて初期投資をし過ぎて、失敗したら元も子も無くすパターンが多そうなのは、心当たりがあります(苦笑)。

  • 本書の基本的なコンセプトである「ブラック・スワン」の特徴や、本来は確率が低くても甚大な影響が出ることを考慮しないといけないのに、多くの人が影響は少ないがそれなりの確立があることばかりを気にしてしまっているという問題など、多くは上巻で述べられており、下巻ではその論拠の補完と共に、「ブラック・スワン」が存在しない世界のみでその理論が構築されている統計学・モダンファイナンス・哲学などの空虚さを、独特のブラックユーモアで暴き出し、そうした空虚さに声を上げて反論することの大事さを教えてくれる(もちろん、空虚とはいえ、複雑な仮定のもとげ現実世界を矮小化することにより成立したモデル化/理論に対して、反論するのがとても大変だということも。やはり、ある理論の存在を主張するよりも、その理論が存在しないことを証明することの方が遥かに難しい)

    つまるところ、リスクと不確実性を巡る議論は、個々人の世界認識の問題そのものであると思う。ブラック・スワンを気にする人と気にしない人の間にある差異は、単にリスクの許容度の高低という「量」を巡る差異なのではなく、この世界をどのように認識するかという「質」を巡る差異である。見ようとすれば見えるし、見ようとしなければいつまでもブラック・スワンは見えず、認識されない。

    下巻も非常にスリリングで、大阪から札幌へ向かう飛行機の中でずっと読みふけってしまった。極めて高い知的興奮を与えてくれる充実の上下巻だった。

  • 下巻も引き続き、ブラック・スワンとそれを見えなくしている人間の認知的仕組みや傾向について語る。下巻に割り当てられた後半部分はやや専門的な議論もあり、ベル・カーブを信じている金融業界や、新古典派経済学について辛辣な見解が続く(p.183-200)。というより、悪口と言ったほうがよいかもしれない。

    著者によればベル・カーブ、つまりガウス分布は月並みの国に属するごくわずかな例にのみ有効である(p.176)。ランダム性は標準偏差ではわからないのだ(p.146f)。間違った数学の使い方こそ問題(p.210)であり、通常の統計学の代わりに著者はマンデルブロのフラクタルモデルを賞賛する。フラクタルモデルによってもブラック・スワンをすべて捉えられるわけではないが、ベルカーブでは黒い白鳥だったものをいくつか灰色の白鳥にすることはできる(p.180f)。ブラック・スワンを考慮に入れた戦略として有効なのは、完全な予測はできないと理解し、確からしさでなく、起こったときの被害の大きさで信じるかどうかの優先順位をつけること(p.65ff)。また、様々な黒い白鳥に分散投資してリスクをヘッジし、試行錯誤してセレンディピティを待つこと(p.67-81)。

    完全な予測が不可能なのに人間が予測を立てるのはなぜか、という問いに対して、進化の代替という見解(p.42f)が面白い(ダニエル・デネットの進化論的説明)。予想とはいわば思考実験であり、仮想的な淘汰である。予想を立てることにより、ある行動のオプションが仮想的な淘汰にさらされる。そうして行動のオプションを事前に絞り込むことで、実際の環境の変化の際に適切なオプションが取れる。

    それにしても著者が批判対象とするものについて辛辣な書きぶりが続くので、ちょっと嫌になる。『まぐれ』の方は最高に面白かったのに、この本はどうもすんなり来ない。例えばガリレオの話。ガリレオは世界は幾何学によって解明されると考えた。でも現実世界には純粋な三角形や円など存在しない。著者はこう書く。
    「ガリレオは、法的に目が不自由な人だったんだろうか?あの偉大なガリレオでさえ、あれだけ独自の考えを持てる人だと言われているのに、母なる自然をはっきり見ることができなかったのだ。彼の家にも窓があっただろうし、彼はそこから四六時中外を見ていたに違いない。自然の中に三角形なんて、そうあるものじゃないとわかってたはずだろうに、と思う。これほど私たちは簡単に洗脳されてしまうものなのだ。
    私たちは見るのに不自由か、読むのに不自由か、その両方のいずれかだ。自然の幾何はユークリッドの幾何ではない。こんなにはっきりしているのに、誰も、ほとんど誰にも、それが見えない。」(p.156f)
    著書は様々なことを分かっているはずだが、どうにも何も分かっていないように思えてしまう。自然の幾何はユークリッドの幾何ではない、それは当たり前だ。完全三角形なんてどこにも存在しない。ガリレオが自然は数学という言語で書かれた書物だとして言いたかったのはそういうことではない。その発想をプラトン化として退けるのはフェアだろうか。たしかにガリレオの時代にはユークリッド幾何しかなくて、それが「自然の幾何」に一致しないから(これがブラックスワンなのだろうか?)、様々な非ユークリッド幾何学が生み出された。それでもそれはプラトン化なのか?ユークリッド幾何学がプラトン化であって、フラクタル幾何学がプラトン化ではないともし言いたいのであれば、その基準は極めて恣意的だと言わざるを得ない。

    またポパーの反証主義を持ち上げて、現代の科学哲学で反証主義が主流になっていないのをなじるのだが、ではどうして反証主義は現代の科学哲学で主流ではないのか何も押さえていない。著者はある事象がある理論に対する反証になるということを単純に考えているように見える。反証主義が主流にならなかったのは、例えばマイケルソン・モーリーの実験の結果に対する科学者集団の社会学的観察によって、反証であるものが端的に反証と見なされるわけではないという全体論的科学観が生まれたからだろう。そうした複雑な過程を無視して、もし単線的な科学史観を採っているのなら、それこそ講釈の誤り(というか勝利者史観)と言える。うーむ。LTCMの件などは痛快に読めるところなのだが、いろいろとどうも引っかかりを感じてしまう本だ。相変わらず、概念的に明確でない本は自分には読みにくくて仕方ない。

  • リスクは常にあり、それをなくすことはできない。

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