漂白される社会

著者 :
  • ダイヤモンド社
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  • Amazon.co.jp ・本 (488ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784478021743

感想・レビュー・書評

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  • 裏の人物ですら存在が希薄化される社会。

  • 現代社会とな何か?そんな大きなテーマを社会の隠された部分=周縁的な存在を浮き彫りにすることで探っていく。売春島、ホームレスギャル、生活保護受給者、違法ギャンブル、ドラッグ、偽装結婚、留学生などなど。平穏を装っているような日常が浮かび上がる。

  • 通勤途中の車から降りて
    道端の草むらにしゃがみ込んで
    その時の空を見上げ゛て
    しばし ぼーっ と
    何もせずに 過ごしてみたら

    本書に描かれたさまざまな人たちの
    息吹が聞こえてくるかもしれない

    私たちが暮らしている この現代の
    同じ空の下に
    このような人たちが 暮していることを
    知っていることは
    「今」を生きていく覚悟につながっているような気がする

  • フクシマ論よりも、断然自分はこちらの方が好き。開沼さんの考え方は、サイードに近い。

  • 本書を読んだのは、NHK「無縁社会」の読了直後。ともに生活保護などの社会保障を切り口の一つとしていたのだが、比較して読むことでスタンスの違いが鮮明になって興味深かった。

    本書を読んで「無縁社会」の読了後のもやもや感の原因が分かった。それは、「無縁社会」では、孤独死=100%の可哀想・悲惨・弱者 という図式に当てはめられた構成として捉えられているという点である。
    誰にも看取られないで死ぬことは本当に可哀想なのか?入るお墓がない事は本当に可哀想なのか?確かに悲惨な事例はあろうが、それがすべてではないと私は思う。別にいいじゃんと思う人もいるだろう。

    それに対して、「漂白される社会」では、絶対的な弱者を取材対象としていない。「漂白された」現代社会の中で、見えないものとして扱われている「周縁的な存在」=「グレーな弱者」を取材対象としている。
    買春島・ホームレスギャル・シェアハウスの暗部・転落したサッカーブラジル人留学生・したたかに生きる中国人エステ店経営者。いずれも漂白された新聞社・週刊誌には取り上げられにくい対象である。本書はアングラ雑誌である実話ナックルズの連載をもとにしているという。実話ナックルズ自体が、出版業界からは「周縁的な存在」として扱われていることが非常に興味深い構図だ。

    傍論になるが、社会学者とジャーナリストは近接した職業領域なのではないか。徹底した取材と真実を追究する姿勢は両方に求められるものである。昔からTVのコメンテーターとして新聞記者の編集委員がよく登場しているが、最近は社会学のバックグラウンドを持った人がコメントをすることも増えている。著者である開沼さんも時々テレビに出てくるし、古市憲寿さんなんかは出ずっぱりである。なかなか面白い現象だと思う。

  • 開沼博といえばフクシマ論、というほど震災後の論客のイメージだったのだが、この人のフィールドワークは、震災前から「周縁的なもの」に対して、多岐にわたっていたことを改めて気付かされる意欲作。

     売春島、ホームレスギャル、シェアハウス、ヤミ金・生活保護、違法ギャンブル、脱法ドラッグ、右翼/左翼、偽装結婚、援デリ、ブラジル人留学生、中国エステ、と、「周縁的な存在」についてのケースレポートを読むだけでもお腹いっぱいだし、正直、1つ1つの事象に興味はあっても、読み進めるうちに「自分にとってはあまりにも現実離れしている」と思う自分がいたのは確かである。筆者はこの書物を1つの旅に見立てているが、私には長旅過ぎた、という感じか。

     しかし、終章での筆者が述べる結論ともいえる主張には、ある種の怒りや告発が込められた勢いのある文章が展開する。

     私たちは、「周縁的な存在」を「理解できないが、興味がある」ものとして認識する。豊かさと自由を得ている我々は、「快との接続可能性が高度化した社会」かつ「不快との共存が許容されなくなった社会」に生きており、この前提では「葛藤する」ことを拒否し、「葛藤し合うもの=あってはならないもの」を社会から排除・固定化、不可視化しようとする。
     だから、そのような「葛藤」が震災・津波・原発のような形で視界の中に入ってきても、「絶対悪」をでっちあげて、過剰に批判し、過剰に感傷に浸ってみせる。

     社会は複雑であるが、我々は、信頼や信仰という概念によって複雑化した社会をシンプルにしたいのだ。多数の人が選ぶ選択をすることでアディクショナルに「自由・平和(のようなもの)」を求めたとしても、現代に安全などはない。危険やリスクは回避しようとしても逃れられない。リスクを「周縁的な存在」に分配し、排除・不可視化しても、そうした「漂白」は無限に増殖し、続いてゆく。

     すべての人間の「欲望」は薬物依存のように「アディクティブ」である。もはや市場原理だけでなく、この社会そのものが、人の「安心・平和・自由」などの「心地よい言葉」のアディクティブな希求で充満している。

     開沼さんのこの本が、「震災後の社会」を意識してかかれていることは明白である。我々自身、いつ「周縁的な存在」として不可視化される側に立つことになるかわからない。書物を通して一人一人が「葛藤する」経験をすることもまた大事なことだ。

  • 「何か」がおかしいのは分かっている。でも、その「何か」がよく分からないからもどかしい。売春島、偽装結婚、ホームレスギャル、シェアハウスに貧困ビジネス。自由で平和な現代日本の周縁に位置する「あってはならぬもの」たち。それらは今、かつて周縁が保持していた猥雑さを「漂白」され、その色を失いつつあるのだという。

    著者は、『「フクシマ」論』でおなじみの社会学者・開沼博。私たちがふだん見て見ぬふりをしている闇の中で目を凝らし、現代社会の実像を描き出す。本書のベースとなったのは、ダイヤモンドオンラインでの連載でも好評を博した「闇の中の社会学」シリーズである。

    ◆明治以前から売春を生業とする島
    その孤島では、島の宿に宿泊するか、あるいは置屋に直接赴くかすれば「女の子」を紹介される。「ショート」の場合は一時間で2万円、「ロング」がいわゆる”お泊り”を指し4万円。女の子の割合は日本人と外国人が半々か、やや外国人が多いかといった様相だ。その島の実態は、遊女の置屋で成り立つ「売春島」なのである。

    中部・関西の一部の人々を中心に知られるこの島は、古代からの「風待ち港」であった歴史を持つ。風が吹かず舟を進められない日が続くと、海の男たちは海上では口にできない料理に舌鼓を打ち、航海中に調達できない水上遊女に、安息を求めたのである。明治以降、島自体が「風待ち港」としての役割を終えてからも、「伝統産業」は大きな役割して島を支え続け、現在に至るという   

    ◆池袋、深夜のマクドナルド
    終電を逃した大学生やビジネスパーソンの中に混じって、若い女性が二人。顔立ちはまだ10代後半のようだが、肌は荒れ、ボサボサの茶髪は痛み放題。一見分かりづらいが、グレーな貧困に包まれた若年ホームレスなのである。そんな彼女たちの仕事は「移動キャバクラ」。

    駅の喫煙所などでライターを借り、いけると踏んだら、名刺を渡して普通の居酒屋へ行く。キャバ嬢のようにガンガン接待をしてから料金交渉に勤しむ。だいたい一回の相場は、5000円から1万円であるという。カネが入れば二人でインターネットカフェやカラオケ店に宿泊する。ないときはマクドナルド   

    これら二つの風景は、現代の田舎と都会の対比でありながら、その根底で通じ合う。2003年にオープンした「パールビーチ」を代表に、「表」の顔を作ろうと躍起になっている「売春島」。浄化作戦が進む中、情報化・デフレ化の波を活用することで生み出された「移動キャバクラ」。

    グレーゾーンの中の白と、白の中のグレーゾーン。一方は隔離・固定化され、一方は代替的なシステムによって補完される。結果的に空間は均質化され、「あってはならぬもの」が不可視化されていく。出会うはずのなかった両端は、同じ方向を向いているのだ。

    ◆激安シェアハウスに集う人々
    若者の新しいライフスタイルの潮流ともなっているシェアハウス。この時代が生んだ「新しい共同体」にも、忍び寄る魔の手がある。ある日シェアハウスの住人が「やばい人と会った!」などと興奮気味に話しかけてきたら要注意。いつの間にやら、物件にネズミ講のブランド名が書かれた大きなダンボールが定期的に届くようになったりする。

    さらに「オフ会ビジネス」なるものも存在する。ネット上で「集まろう」という動きを意図的に作り、人を集めてチェーン系居酒屋で飲み食いして利益を出すというものだ。「選択的・流動的・短期的」な「新しい共同体」の誕生と、「貧困」や「夢」や「孤独」。そこには周囲でうごめく商才鋭い人々が控えているのだ   

    ◆生活保護受給マニュアル
    ヤミ金にハマった人物が、生活保護を受給するための研修があるという。仲介しているのはヤミ金の運営者自身。「ご案内」に書かれているマニュアルは以下のような記述が… 「部屋をゴミ屋敷にしておく」、「金目の物がある場合、正直に申告し、こちらで預かることにする」、「家賃を最低二ヶ月滞納する」。数週間の準備を経て申請を果たした人物には、後日、生活保護支給決定の通知が届くことになる。

    「あってはならぬもの」を「あってはならぬもの」が取り込み、社会の見えぬ部分で、「インフォーマルなセーフティネット」として機能し始める。「純粋な弱者」ではない「グレーな弱者」はやがて、不可視な存在となり、社会の中で潜在化されていく   

    こちらの二つで提示されているテーマは「住居」と「社会保障」だ。かつて、多くの人々の安定的な生活を支えるために形作られてきた住居やセーフティネット、確固たる価値観がもはや現代において無効となる一方で、その代替物となるものが自主的に構築され始めている。ここに戦後社会が守ってきたものの時間軸における帰結を、見てとることができるのだ。

    本書ではこの他にも、「性・ギャンブル・ドラッグの深淵」、「暴力の残余」、「グローバル化の真実」といったテーマが登場する。これら数々の事例に対し、著者は空間的、歴史的、立体的に考察を交えながら、巧みに補助線を引いていく。

    規制が強化されることによって、悪が不可視化されていく。この主張自体は、それほど目新しいものでもないだろう。だが、この不可視な世界を「無縁」というキーワードで紐解いていくところが興味深い。最近ではネガティブな論調で語られることの多い「無縁」という言葉も、歴史を遡っていくと両義性があり、それは「自由」という概念にも極めて近いものを持っていたのだという。

    「周縁的な存在」が現代に残る「無縁」の一つの形態だとするならば、それが本来見せていた「人の魂をゆるがす文化」や「生命力」も衰えつつあるのではないかと著者は指摘する。それは、ひいては「弱者の弱者化」ということへも密接につながっていくのだ。

    かつて「色物」や「色事」に十分な色が残っていた時代、その支配的な眼差しは「色眼鏡」という形で表現されていた。それは、「周縁的な存在」が社会の表面にせり出さなくなった今、「見て見ぬふり」という行為に取って代わられつつある。

    「もっともらしいこと」を語り、何も問題が解決しないどころか、むしろ問題の根底を見失わせる。これもある意味において「見て見ぬふり」と同義であるだろう。このような「漂白」時代の新しい「色眼鏡」が、負の連鎖を生み出す一端を担っていることに無自覚であってはならないのだと思う。

    本書は学術論文的な考察と、ルポルタージュとしてのリアリティ、その双方を兼ね備えた「論文ルポルタージュ」とでも言うべき新感覚の一冊である。その中では、「あってはならぬもの」同士が相互に接続しながら、もう一つ別のレイヤーを作り出している構図が、鮮明に浮かび上がっている。久々に「ぐうの音も出ない」という言葉を思い出した。

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著者プロフィール

1984年福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。現在、立命館大学衣笠総合研究機構准教授(2016-)。東日本国際大学客員教授(2016-)。福島大学客員研究員(2016-)。
著書に『福島第一原発廃炉図鑑』『はじめての福島学』『漂白される社会』他。

「2017年 『エッチなお仕事なぜいけないの?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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