死の講義

著者 :
  • ダイヤモンド社
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感想 : 36
  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784478111192

作品紹介・あらすじ

本書は、死んだらどうなるかの話。といってもスピリチュアルな本ではなく、「死」とは何かについて、知の達人橋爪大三郎氏が、宗教社会学の視点から鮮やかに、説明する本。
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生き物はそもそも、すべて死ぬのです。しかし、生き物は、死ぬそのときまで、死ぬと思っていません(たぶん)。人間は違います。うんと小さい子は別として、ちょっと知恵がつくと、みんな死ぬらしい、自分も死ぬだろう、と思うようになります。
では、死んだらどうなるとわかっているのでしょうか。(中略)そう、複雑な社会には宗教というものができるのです。いくつも宗教がある。それは、死んだらどうなるか、の考え方がいくつもあるということです。
これまで人類に大きな影響を与えた宗教は、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教、仏教、の五つです。それぞれ、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっています。
そこでこの本では、これらの宗教が、人間は死んだらどうなると考えているのか、詳しく追いかけることにします。(本書の「はじめに」より)
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死んだらどうなるのか、死んでみるまでわからない。だから、死んだらどうなるのかは、自分が自由に決めていい。宗教の数だけ、人びとの考え方の数だけ、死んだらどうなるのか、の答えがある。そのどれにも大事な生き方が詰まっており、人生の知恵がこめられている。

コロナ禍で「死」をこれまで以上に身近に感じている多くの人々に読んでほしい一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 年を重ねていくと、親の死、自分の死が刻々と近づいていくのを実感する。さらに昨年からのコロナ禍で否応なしに死を身近に感じることとなった。

    本書は、宗教社会学者の著者が、世界にある主な宗教の中で「死」がどうとらえられているのか、中学生でも読めるようにわかりやすく説明した本である。
    「死」は、生きている誰も経験することができない。人は体験を重ねることにより世の謎を説明してきた。だから体験できない「死」は恐ろしい。宗教は体験することができない「死」をなんとか説明するために生み出された。

    本書では、一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)、インドの文明(バラモン教、ヒンドゥー教、仏教)、中国の文明(儒教、道教)、日本人(古代の死生観、仏教、儒学、神道)が死についてどうとらえてきたか短いセンテンスで説明する。そして最後に、これまで述べてきた死生観を箇条書きで一覧にし、死んだらどうなるか、自分で考えるよう促すのである。

    日本人は自分が無宗教だ、と思っている人が多い。私もその一人で、なんならお正月に神社を参拝し、クリスマスを祝う日本人はおおらかでよい、ぐらいに思っていた。でも、「死んだらどうなる?」と言われ、いざ説明しようと思っても、私には説明するだけの考えはなかった。私は無宗教なのではなく、わからないことについて考えるのを停止しているだけだったのだと思う。

    たとえ知識を持っていたとしても、実際に自分がどう考えるのかを説明できないと、それぞれの宗教について理解しているとはいえない。死を目前にして慌てふためき、一見口当たりの良いカルト宗教にからめとられてしまうかもしれない。

    この本を読んで、自分なりに死んだらどうなるか考えた。死生観に正解も誤りもない。それは自分がどう死にたいか、どう生きたいか、という哲学だ。状況によって考えが変わることがあるかもしれないが、その時々の自分の哲学をしっかり持っていたいと思う。

  • 友人や知り合いに、親が○○教の信者、という人が何人かいる。印象として、生き方にブレがなく、規範意識が高い。彼らは自分から選んでその○○教の信者になったわけではないらしい。けれども、なんだか迷いなく生きている人たちに見える。
    で、自分。祖父が孤児になって寺の預かりになった関係で、寺とのつながりは深い。家にひろさちや氏の漫画がたくさんあったので、小さい頃からそれを読んで、わりと仏教には親しみを感じながら育ってきた方だと思う。けれど、それが自分の規範になってはいない。全く。知識としてそうだ、慣習としてそうだ、ということは身についてはいるし、ある程度説明もできるけれど、生き方、物の見方にまで浸透させてはいない。祖父や祖母は自分たちの信仰を大事にしてはいたけれど、子や孫にまでそれを押し付けることはしなかったからだろう。なので、私の規範意識は非常にゆるい。あれもあり、これもあり。日和見的。生き方も考え方も迷い迷い。
    その祖父が一昨年、亡くなった。続けて祖母も亡くなった。私の娘は2人ともまだ幼すぎて「死ぬ」が分からない。だから、通夜や葬式は「お別れ会」でひいじいちゃんやひいばあちゃんは仏様のところで勉強中、ということになっている。そこまでは49日かけて徒歩で行くことになっていて、一回出発したら帰ってこられない。途中、お腹が空くので小さいおにぎりを持たせる。もしかしたらお友だちにも会うかもしれないので、ひいじいちゃんは髭を剃り、ひいばあちゃんはお化粧をする。
    いずれ娘も大きくなれば、それが私の作った「ものがたり」に過ぎないことに気がついてくれるだろう。「死をめぐるものがたり」を寄せ集めて、葬儀のあれこれを子ども向けに編集した子供騙しのお話。そして実際、葬儀の中身も仏教でも、神道でもなく、よく分からない土着の信仰をごった煮にした葬儀だということが本書の内容からは読み取れる。正しくは無い説明。何の根拠もない思い込み。でも、それを話しながら、半ば私はそれを信じてもいる。祖父や祖母にはまだ消えてほしくない。どこかにいてほしい。
    自分が何を信じ、どう死ぬかは、確かに個人の問題で、自己責任で選べるものかもしれない。けれども、最近身内を亡くし、そしてそのことを小さな子どもに伝えなければならず、しかもいずれはその子どもたちに見送られる立ち場のものとしては、親しい誰かが死後にどうなっていてほしいかというところから自分の死を眺めてしまわざるを得ない。私の死をそのようなものとして受け止めて、喪失の穴を埋めてほしいという、これは信仰というよりも願いだと思う。
    だから、今はまだ死ねない。今死ねば、きっと娘は忘れてしまう。こんなにも寄り添って生きていた毎日のことを、小さな子どもは覚えていられない。一番、覚えていてほしい相手に忘れられることほど、一度、覚えていたい相手を忘れてしまうことほど、辛いことはない。
    肉体は滅びる。輪廻は無い。でも、どこかにその存在を感じたい。あるいは、感じてもらいたい。
    とするならば、日本古来の死のあり方に一番近いのかもしれない。
    けど、私、一つには決めません。自分の背負ってる背景も背景なので、「習合論」でいいと思ってます。ごめんなさーい。

  • 10ミニッツTVをみて読んでみたくなった本。各宗教の死についての考え方が、そこに至る時代背景などを含めて、かなり噛み砕いて、時系列に示してくれるので分かりやすい。いろんな考え方が融合し、結果生じた矛盾を解決するために新たな解釈とか、考えが組み込まれ、それが時代と共に変遷し、結構場当たり的なんだというトリビアをを含めて、色々な死生観があるのだと勉強になります。そのどれかを選択して、自分の生き方を考えなさいが、メッセージだけど、汎神論が一番しっくりくるかな。

  • 久しぶりに最高に素晴らしい本に出会ったような気がします。著者の本を時どき気に入って読んでいたのですが。
    たまたま手に取って読みましたが、これは大げさに言うと衝撃を受けた感じがしました。

    死を考え、死と宗教の関係に発展させ
    一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム)・多神教
    ・インド(ヒンズー教・初期仏教)の宗教・中国(大乗仏教・儒教・道教)・日本の宗教(仏教・神道・国家神道・江戸時代の仏教)
    の解説を踏まえたうえで
    死について考えるうえで、宗教を選択する重要さを論じているあたりは、すごく波のような流れで頭に入ってくる感じです。
    宗教のとらえ方が正直に言って変わった感じがします。
    自分は、正直ユニタリアンが一番ひっかかった感じがします。あとは仏教の考え方。さらに念仏宗の考え方が
    やはり自分の遺伝子の中に組み込まれているような・・

  • 本屋さんで、書評が掲載された本のコーナーにあった。
    「死」をテーマにしている本に惹かれる。
    なんでだろう。

    思春期からしばらくは、死にたいことがたくさんあった。
    なんとか生きてきたけど、今は死ななくてよかったなぁと思う。

    みんながみんな浮上できるわけじゃないけど、こんな自分が浮上できたから、今の子供たちも(自分と似たように悩んでいる子は)浮上できる可能性があるのかもしれない。

    だったら、伝えられることは伝えてあげたい。
    そのために、自分の中にいろいろな智恵を蓄えておきたい。
    と、思っているのかもしれない。厚かましいけれど。


    宗教にコミットする、という考えはなかった。
    自分では熱心に信じないし、信じている人の邪魔はしない(ハッピーになるなら、それに越したことはないから)。文化としてなら、応援してもいい。
    そんなとらえ方だった。いやな上から目線。

    「偶然」を、自分の中に落とし込むための拠り所とは考えたことがなかった。
    そこまで困っていなかったから。
    困るほど考えていなかったから。
    宗教を作り上げ、信じていた人たちは、人生と真剣に向き合ってきた人たちなのかもしれない。

  • 全ての人は死ぬことが決まっているが、自身の死は体験できない。考えにくい。「いよいよ死ぬ」となった時では、考える気力も体力も時間も足りないかもしれない。
    『死を覚悟し、それまでの人生を誰もが、充実して豊かに生きていけるように』が著者の願い。とても良く伝わった。

    短いセンテンスでリズミカルに語られる。様々な宗教や主義を相対的に並べ、比較検討し、一つを選ぼう。
    『宗教を踏み台にすると、死を深く考えられる。』

    なるほどである。
    簡潔な本書から方向にヒントを得て、読書の枝をさらに伸ばす。

  • 様々な宗教の死に対する見方、死後の世界をどう考えているかが書かれてあって、とても面白かった。一番初めに書いてあった「いよいよ死にそうになった時には、じっくり考える時間がありません。気力も体力もないかもしれない。そうするうちに、死んだらどうなるかもはっきりしないまま、死んでしまう。もったいないことです。せっかく死ぬのに。」という文が気に入った。
    もともとは人々は、小さいコミュニティの中で暮らしていて、そのコミュニティの人々は同じように生き、同じようないイメージの中で死んでいった。しかし、社会が大きく複雑になっていく中で、商人、職人、農家など人の営みも様々で、人の生き方も様々になってきた。人々の生き方が何通りもあるということは、人々の考え方も何通りもある。広い場所には、さまざまな文化をもった人々が集まる。死んだらどうなるかの考え方の違くなる。これが「宗教の違い」として意識される。複雑な社会には宗教というものができる。

    一神教:被造物はすべて神の命令で存在し、神の管理下にある。それは群れとして、存在し、個別としては存在しない。唯一人間だけが個別としてつくられ、個別のものとして存在する。人間はそれぞれ名前があって、個性あるものとして、神に創られる。
    この世界は、神の意志のあらわれである。神の意志で起こる出来事を奇蹟という。自然は奇蹟である。この自分が存在することも奇蹟である。
    神が世界を作ったのだから、世界を壊す。それが終末。

    反対に、日本の人には、自然がやがて存在しなくなる、という発想がない。中国の人々も、その発想がない。どんな変動があっても自然は変わらぬまま、という感覚府がある。

    一神教では、生命は、神が人間に与え、それが取り上げられて死ぬのは、神の下す罰である。一神教では、人間は本来死なない。

    一神教の考え方は、裁判は良いものだ、である。裁判は正義を実現し、弱者を守る。人々は、法律や裁判を、信頼する。

    一神教を緩くとらえるとき、すべての存在や、この世界は偶然ではなく、必然ととらえる。

    「可能性世界意味論」この世界を生きる私と別に、まだ私がいる。どのような可能世界でも、私である。どの可能世界でも、言葉は意味が通じるはずだ、と考えていく。
    しかし、この考え方を徹底させると、「この私」がいなくなってしまうかもしれない。例えば、学校を卒業しなかった私。2歳で歩けるようにならなかった私。犬に生まれた私。。。

    【インドの文明を考える】
    真理を覚るとは、この世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを確認することである。それは、自然科学と似ている。自然科学も、この世界の因果関係の連鎖を確認しつくすことを目標にするからである。

    仏教は、瞑想によって現れる宇宙の実相を「真如」という。真実と大体おなじである。真如は恐ろしくて、言葉にすることができない。言葉は、精神の内側で意味を持つが、その外では有効でなくなるのである。
    真理を覚れば、人間(生き物)は人間(生き物)でないとわかる。

    【日本人は、死をこう考える】
    イザナミの死=神も死ぬ。神を前に死は無力である。神も死の穢れを恐れる。人間は、神に頼らず、自分だけの考えと力で死に立ち向かっていかなければならない。これが日本人の原体験。

    平田篤胤は本居宣長の弟子。本居宣長の国学を継承することを意識し、多くの書物を残した。国学の標準的な解釈による神道を復古神道という。それに対して、平田篤胤の解釈による神道を平田神道という。
    平田は「英霊」を発明した。平田は禁書であった聖書を読んだらしい。聖書の霊の概念をヒントにした説がある。篤胤は、人間は死んで黄泉の国に行くのではなく、霊となる。特に国のために命をささげた人びとの霊は「英霊」として、この世界にとどまり続ける。

    天皇に対する国民の義務を「大義」という。

    【死んだらどうなるか自分で考える】
    神を信じることは、合理主義のもう一歩進んだかたちになっている。合理主義は、科学を生み出す。そして、合理主義のもとは、神学(信仰)だった。
    つまり、キリスト教世界では、神を信じる→神学→合理主義→科学
    そのうち神を信じる→神学の部分がどうでもよくなり、世の中が世俗化し、合理主義と科学だけになった。

    合理主義者が神を信じるようになるとどう変わるのか?目立った変化はないが、満足感がある。偶然に惑わされず。理性を貫くことができる。自分の考えや行動を検証できる、世界をそのまま引き受けることができる。
    世界は、こうあるように起きている。それを偶然とみるか、岐津善とみるか。ささやかだが、大きな違いである。偶然とは、自分と関係ないこと。必然とは、じぶんと関係がおおありなこと。だから生き方が違ってくる。

    最終的には、これらの様々な死に対する考え方をみて、自分で実際に調べてみて、一つを選んでみてくださいと言っている。相対主義は良い面もあるが、自分自身の死を考えるとなると一つしか選ぶことができない。
    「自分の死を引き受けるには、どれか一つの考え方を選択しないといけない。一つの考え方を選択するからほかの選択のことがよりよく理解できる。」

  • タイトルは仰々しいが、この本からは、各宗教(キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道)のエッセンスを学ぶことができる。
    各宗教が死をどのように捉えるかは、宗教の考え方の根本をなすところであり、本著では、それを分かり易く解説しているところが評価できる。
    何よりも、各宗教に共通するところ、異なるところを改めて整理することが理解を深めることができる。
    宗教を合理主義を補完する位置付けにあるとし(両方が成り立つ)、宗教の価値を違った捉え方から認識することができたことは収穫。

    以下抜粋~
    ・この世界を神が創造した/この世界は偶然である、は二つの「相」である。
    一神教の神を信じること/世界は自然法則に支配されていること、は相転移のように、お互いに行ったり来たりできる。

    ・インドの人々の考え方の基本は、因果論である。英語でCausalityという。仏教では、因縁とか縁起とかいう。

    ・(インド)「真理」とは何か。世界のあるがまま、出来事のあるがままを、認識することだ。その認識、すなわち「真理を覚る」ことは、可能である。そして、「真理を覚る」ことは、最高の価値がある。インドの人びとはそう確信している。

    ・(インド)修行、は訓練である。瞑想のやり方に熟練して、真理を覚ることを目指す。ほんとうに心理を覚る修行者は、ごくひと握りにすぎないにしても。

    ・(インド)カースト制は分業のシステムである。分業は相互依存なので、紛争が起きにくい。動物を殺害することを禁じているのも、紛争や暴力を避ける意味がある。

    ・カースト制は、人々に職業集団を提供し、社会の安定に寄与する。一方で、社会的不平等を生み、人々は苦しみ、社会は病んでしまう。
    そんなカースト制を、裏で支えるのが輪廻である。

    ・(中国儒教)人間を支配するには、人間が生きている必要がある。人間が死んだらどうなるのかは、政治には関係ない。中国の人びとが現実的で、死についてあまり興味がないようにみえるのはこのためである。

    ・(中国儒教)教育を受けた農民の代表が統治をおこなう。これが、儒教の本質である。軍事力や伝統による統治ではなく、教育による統治。能力あるものが統治するという考え方は、とても近代的だ。政府の正当性も主張しやすい。儒学が中国で成功したのはそのためだ。

    ・マルクスレーニン主義は、官僚制である。政治中心主義である。唯物論であって、宗教を敵視する。中国の人びとの伝統的な考え方にぴったり重なる。現世的で、合理的で、政治中心主義だから。

    ・(日本江戸時代)イエ制度と寺請制度は、人々の考え方を大きく変えた。寺請制度は、仏教原理主義に手を焼いた武家政権が、採用した仕組みだ。
    (宗派から「信」の要素が抜けていく。この結果、何年か経つと、どの宗派も似たりよったりになる)

    ・(日本)中国では、忠は、政治リーダーに対する服従、孝は、血縁の年長者(とりわけ親)に対する服従、だった。忠と孝とは別の行動原理である。(忠>孝)
    それに対して、日本はまったく別の原理でてきていた。
    徳川家、大名、町民、農民もイエを営んでいる。
    江戸儒学は、忠と孝とを区別するのをやめて、「忠孝一如とした。」

    幕末に天皇への忠誠を絶対化する「尊王思想」が盛んになったのは、忠孝一如の論理的帰結である。
    (徳川幕府にとっては皮肉な結果)

    ・(日本)儒学(朱子学)は、幕府が公認する正当な学問だった。生きている人間の政治を、担当した。死については、仏教が担当し、僧侶が葬儀を行った。うまく棲み分けていた。

    ・平田神道の英霊のアイデアは、幕末の官軍(西軍)、そして明治の陸軍の注目するところとなった。
    国家神道のもと、人間は、伝統的な仏教の死と国家神道の死を、二重に死ぬ。

    (宗教の持つ意味)
    ・常識的な無神論者は結論する、自分がこの世界にいるのは、偶然だ。

    ・合理主義者は思う、世界には偶然という穴が空いている。

    神が世界を創造したのなら、この世界に偶然は存在しない

    神を信じる→(神学)→合理主義→科学
    合理主義者の「神を信じる」は、科学をはじめとする合理主義を補完し、「偶然の空白」をみったり埋めるような「神を信じる」のである。

  • 一神教、神道、仏教各派、儒学・道教、それぞれにおける死の捉え方について概観し、科学的に合理的な現代人にとって適する理解の方法を指南している。どの解釈を選んでも合理性とは無矛盾なので、すんなり納得できるものを選択すれば良い、という結論。
    日本の「英霊」という概念は、平田篤胤が個人的に創作したものに過ぎない。宗教ではなく政策なので、国民の宗教に関わらず、靖国神社や護国神社の拝礼を強制することができる。

    「はじめに」で本書を読む理由は「しっかり生きるために読む」としているが、どの解釈を選んでも良いのだとしたら、解になっているような、なっていないような。

  • 結局、死んだらどうなるかは、死んでみるまでわからない。いつ終わってもいいように、今を精一杯楽しんで生きることしかないなと思った。

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著者プロフィール

一九四八年生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。大学院大学至善館教授。著書に『はじめての構造主義』『はじめての言語ゲーム』『正しい本の読み方』(ともに講談社現代新書)。社会学者・大澤真幸氏との共著に、『ふしぎなキリスト教』(新書大賞2012を受賞)、『げんきな日本論』(ともに講談社現代新書)がある。

「2022年 『言語ゲームの練習問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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